亡霊たちの侵攻

1


 日曜日、午前九時。

 桜島南高校の校門へと続く長い急勾配――通称『地獄坂』を、一台の大型バスが唸りを上げて登ってきた。

 車体には紫と黒のライン。横には『鹿児島中央実業高等学校 バレーボール部』の文字。

 県ベスト4の常連であり、あの中学時代の恩師――いや、元凶である黒岩監督が、優秀な選手を送り込み続けている強豪校だ。


「……来たな」


 体育館の入り口で、キャプテンの一ノ瀬隼人が腕を組んで呟く。

 その横顔はいつになく硬い。

 僕、日向悠真は、その隣でごくりと唾を飲み込んだ。喉が渇いて張り付くようだ。

 秋晴れの爽やかな空とは裏腹に、胃の底に冷たい鉛が溜まっている。


 プシュウゥゥ……。


 エアブレーキの音と共にバスが停車し、ドアが開く。

 中から、屈強な選手たちが次々と降りてくる。

 全員、体格が良い。平均身長で僕たちを10センチは上回っているだろう。そして何より、目つきが鋭い。勝利を義務付けられた集団特有の、ピリついたオーラを纏っている。


 最後に降りてきたのは、見覚えのある小柄な選手――氷室透だった。

 彼は校舎を見上げ、鼻で笑ったあと、僕を見つけてニヤリと口角を上げた。


「おはようございます、日向先輩。……へえ、本当に逃げなかったんですね」

「……おはよう、氷室」


 僕は震えそうになる声を必死に抑えて挨拶を返す。

 氷室はチームメイトに目配せし、嘲笑混じりに言った。


「紹介しますよ。この人が、俺がよく話してる『伝説の元・県選抜』です。……メンタルが弱すぎて、県大会の決勝前に逃げ出した」

「プッ、マジかよ」

「優男じゃん。バレーよりモデルやった方がいいんじゃね?」


 中央実業の部員たちがクスクスと笑う。

 その視線は、僕を対戦相手として見ていない。「壊れたおもちゃ」を見る目だ。

 胃が痛くなる。逃げ出したい衝動が足元から這い上がってくる。


 その時。

 バスのステップから、革靴の重たい音が響いた。


 コツン、コツン。


 その場の空気が、一瞬で凍りついた。

 笑っていた選手たちが直立不動になり、道を空ける。

 現れたのは、黒いスーツに身を包んだ、白髪交じりの男だった。

 鋭い眼光。深くまで刻まれた眉間の皺。


 黒岩巌(くろいわ いわお)。

 僕を「リベロ」という名の機械に作り変えようとした男。


「……整列」


 低く、腹に響く声。

 それだけで、中央実業の選手たちは弾かれたように整列し、一斉に頭を下げた。

 軍隊だ。中学時代と何も変わっていない。


 黒岩監督はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。

 心臓が止まるかと思った。

 値踏みするような、冷たい目。


「……久しぶりだな、日向」

「……」

「挨拶も忘れたか。まあいい。……聞いたぞ。この弱小校で、またボール遊びを始めたそうだな」


 ボール遊び。

 彼にとって、自分の管理下以外で行われるバレーは、すべて「遊び」なのだ。


「今日の練習試合、時間の無駄にならんように祈っておくよ。……また途中で泣いて逃げ出さんようにな」


 監督は鼻で笑い、僕の横を通り過ぎようとした。

 足がすくむ。視界が暗くなる。

 何か言わなきゃいけない。僕はもう、あの時の僕じゃない。

 でも、喉が痙攣して声が出ない。


「――お待ちください」


 凛とした声が、呪縛を切り裂いた。


2


 僕の前に、小柄な影が立ち塞がった。

 種子島凛だ。

 彼女はタブレットを抱え、自分より遥かに背の高い大人たちを、冷徹に見上げていた。


「挨拶は手短にお願いします。練習時間が削れますので」

「……何だ、この子供は」

「当部のマネージャー、種子島です。本日のスケジュール管理を担当しています」


 凛は黒岩監督の威圧感に一歩も引かない。

 むしろ、彼女の瞳には明確な敵意――「非効率」と「感情論」に対する嫌悪が燃えていた。


「それに、あまり油断しない方がいいですよ、黒岩監督。貴方たちのデータは、去年の春高予選のビデオから全て解析済みです」


 彼女はタブレットを操作し、画面を監督に見せつけた。


「特にエースの3番さん。クロスへのスパイク時に右肩が下がる癖、まだ直ってませんね? 確率82%でコースが読めます」

「あ?」


 指摘された3番の選手がギクリとする。

 黒岩監督の目が細められた。


「……面白い。データバレーか」

「ええ。貴方のような『根性論』とは対極にあるものです」

「小賢しい。……コートの上で、その理屈がいつまで通用するか見ものだな」


 監督は不愉快そうに鼻を鳴らし、体育館へと歩き出した。

 中央実業の選手たちが続く。

 氷室がすれ違いざまに、僕に肩をぶつけてきた。


「……女に守ってもらって、情けないですね先輩」


 捨て台詞を残して去っていく背中。

 僕は拳を握りしめた。

 情けない。本当にその通りだ。また凛に助けられた。


「……先輩」


 凛が振り返る。

 その顔は少し青ざめていた。彼女とて、あの監督と対峙するのは怖かったはずだ。兄を壊した元凶の一人なのだから。

 それでも、彼女は気丈に振る舞っていた。


「私の計算では、勝率は45%。……決して、勝てない相手ではありません」

「……ああ」

「証明しましょう。私たちのやり方が、彼らよりも優れていることを」


 彼女の震える手が、僕のジャージの袖を掴んだ。

 僕はこの手を、二度と裏切ってはいけないと思った。


3


 試合会場は、女子バレー部が遠征で不在のため、第1体育館を使用することになった。

 ウォーミングアップが始まる。

 スパイク練習の音が響く。ドォン! ドォン! という中央実業の打球音は重く、床板が悲鳴を上げているようだ。

 対する桜島南は、人数も少なく、身長も低い。どう見ても勝負にならないように見える。


 僕はリベロのユニフォーム(違う背番号の上からテープで『L』と貼った急造品)を着て、ベンチで靴紐を結び直していた。

 指先が冷たい。蝶結びが上手く作れない。


「……貸して」


 横から温かい手が伸びてきた。

 霧島楓だ。

 彼女はジャージ姿(マネージャー補佐)で膝をつき、僕の代わりにギュッと紐を締め上げてくれた。


「……楓」

「大丈夫。悠真の足、震えてないよ」


 楓は顔を上げ、ニッコリと笑った。

 それはいつもの「過保護な笑顔」ではなく、どこか覚悟を決めたような、力強い笑顔だった。


「もし怖くなったら、ベンチを見て」


 彼女は小声で囁く。


「私がいる。水筒もタオルも持ってる。……いつでも『ここ』に帰ってきていいんだからね」


 それは「逃げていいよ」という甘やかしであり、同時に「私が受け止めるから、思い切りやってこい」という激励でもあった。

 靴紐が結ばれる。それは僕をコートに縛り付ける鎖であり、同時に命綱でもあった。


「……ありがとう、楓」

「ん。いってらっしゃい!」


 彼女に背中を叩かれ、僕は立ち上がる。


 ふと、二階のギャラリー(観覧席)を見上げる。

 誰もいないはずの暗がり。しかし、柱の陰に、黒髪の少女の姿が見えた。

 神宮司雫だ。

 彼女は手すりに頬杖をつき、退屈そうに、しかし真っ直ぐに僕を見下ろしている。手にはスケッチブック。


 *『壊れてもいいのよ。私が拾ってあげるから』*


 先日の美術室での言葉が脳裏をよぎる。

 彼女は、僕が美しく散るのを待っている。あるいは、泥だらけで足掻く姿を期待している。

 どちらにせよ、僕の全てを見ていてくれる。


 楓の「避難所」。

 凛の「司令室」。

 雫の「墓場」。


 三つの帰る場所がある。

 こんなに贅沢な保険をかけられた選手は、世界中探しても僕だけだろう。

 だから、僕は前だけを見ていればいい。


4


『ピーッ!!』


 審判の笛が鳴り響く。

 整列。挨拶。

 ネット越しに、氷室と目が合う。彼はリベロなので、僕と直接マッチアップすることはないが、ローテーションの合間に嫌でも顔を合わせることになる。


「……見せてくださいよ、先輩。今のザマを」

 すれ違いざま、氷室が吐き捨てるように囁いた。


 試合開始。

 桜島南のサーブからスタートするが、あっさりと中央実業にレシーブされ、攻撃に転じられる。

 敵のセッターがトスを上げる。

 レフトから、エース(凛に癖を指摘された3番)が助走に入った。


 高い。

 ブロックの上から打ってくる気だ。


(……来る!)


 ドォンッ!!


 強烈なスパイク音が炸裂する。

 ボールはブロックを弾き飛ばし、コートの後方へ。

 僕は反応した。足を出した。

 だが。


「……ッ!」


 ボールは僕の腕を弾き飛ばし、無情にも壁際まで転がっていった。

 重い。

 中学時代のボールとは威力が違う。高校生の、それも全国レベルのパワーだ。


『ナイスキー!!』

 敵チームの歓声が上がる。


「へっ、やっぱりな。反応が遅ぇよ」

 氷室が冷笑する。


 その後も、僕は狙われた。

 完全に「穴」だと見なされたのだ。サーブも、スパイクも、執拗にリベロである僕の正面、あるいは取りにくい足元へ集められる。

 弾く。転ぶ。拾えない。

 点差が開いていく。


 0-5。0-6。


 『なんだ、元県選抜って聞いて警戒したけど、大したことねえじゃん』

 『ただのブランク持ちかよ』


 敵チームの嘲笑が聞こえる。

 ベンチに座る黒岩監督は、腕を組んだまま微動だにしない。その無関心さが、何よりも僕を傷つける。「やはり廃棄物か」と言われている気がする。


 呼吸が浅くなる。視界が狭まる。

 体育館の照明が、中学時代のあの日の照明と重なって見える。


(……ダメだ。やっぱり、僕には無理なんだ)

(怖い。ボールが怖い。ミスするのが怖い)

(逃げたい。ベンチには楓がいる。あそこに行けば、もう楽になれる……)


 僕は無意識にベンチの方を見た。

 楓が心配そうに立ち上がっている。目が合えば、すぐにでもタオルを投げて試合を止めてくれるだろう。


 その時。


「――先輩!!」


 ベンチから、楓ではない、鋭い声が飛んだ。

 凛だ。

 彼女はタブレットを叩きつけんばかりの勢いで、パイプ椅子の上に立ち上がっていた(行儀が悪い)。


「何をしてるんですか! 3番のスパイクのコース、右肩が下がってましたよ! データ通りじゃないですか!」

「……え」

「ボールを見るな! 『情報』を見ろ!思考停止して怯える暇があったら、脳みそを回せ!」


 罵倒。

 でも、それは「お前はダメだ」という否定ではなく、「お前ならできるはずだ」という強烈な要求だった。

 彼女は僕を信じている。僕のスペックを、僕以上に信じている。


「……くそっ」


 僕は自分の頬を両手で叩いた。

 パァン! といい音が鳴る。

 そうだ。僕はもう、ただ怒られるだけの「中学生の僕」じゃない。

 僕には、勝ちたがっている「司令塔(凛)」がいる。


5


 次のローテーション。

 敵のエース・3番がサーブに回る。強力なジャンプサーブだ。

 彼は僕を狙っている。ニヤリと笑ったのが見えた。


(……凛のデータだと、右肩が下がる)


 トスが上がる。ジャンプ。インパクトの瞬間。

 見えた。

 右肩が沈んだ。クロス方向への回転がかかる。


 僕は思考するより早く、左へ半歩、重心を移した。

 ボールが放たれる。

 唸りを上げて僕の左手側へ曲がってくる。

 かつてなら、「取れない」と諦めていたコース。

 でも、今は――。


 そこに、僕はいた。


 **バチンッ!!**


 完璧なインパクト音。

 ボールの勢いを殺し、回転を殺し、セッターの三雲へ、優しい弧を描いて返球する。


「……なっ!?」

 エースが目を見開く。氷室の表情が凍りつく。


「三雲、頼む!」

 僕は叫んだ。

 三雲がニヤリと笑い、トスを上げる。

 そこへ飛び込んできたのは、キャプテンの一ノ瀬だ。


「っしゃらあああっ!!」


 ドォンッ!!

 一ノ瀬のスパイクが、ブロックの間を抜き、敵コートに突き刺さった。


 決まった。

 初めての、ブレイク(得点)。


「よっしゃあああ!! ナイスレシーブ、悠真!!」

 一ノ瀬が僕に駆け寄り、ハイタッチを求めてくる。

 手が痛い。でも、熱い。


 ベンチを見ると、凛が「フン、当然です」という顔でタブレットを操作していた。でも、その口角は少しだけ上がっている。

 楓は安堵して、へたり込んでいた。

 ギャラリーの雫は、静かに拍手を送っているのが見えた。


 そして、黒岩監督。

 彼は初めて腕組みを解き、少しだけ身を乗り出して僕を見ていた。その目に、微かな驚きが宿っている。


 僕はネット越しに、呆然としている氷室を見た。

 そして、小さく息を吐いた。


「……悪いな、氷室。ウォーミングアップは終わりだ」


 ここからだ。

 リベロ・日向悠真の、本当の試合が始まる。

 僕たちはまだ、死んでなんかいない。

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