嵐の前のシェルター

1


 氷室と遭遇した翌日、日曜日。

 僕は泥のように眠り、昼過ぎに目を覚ました。

 昨日の記憶――氷室の嘲笑と、凛の冷たい怒り、そして来週の練習試合のことが頭から離れず、浅い悪夢を繰り返していたせいだ。身体が鉛のように重い。


「……はぁ」


 ベッドから起き上がろうとした時、部屋のドアがノックもなしに開いた。


「悠真、起きてるけ?」


 霧島楓だ。

 彼女はエプロン姿で、湯気を立てるお盆を持って入ってきた。白粥(かゆ)と、刻んだネギ、梅干し。そしてスポーツドリンク。

 どうやら母さんが入れたらしい。もはや家族公認の通い妻状態だ。


「……楓。どうしたの、それ」

「おばさんから『悠真が起きてこない』って聞いたから。具合悪いんでしょ?」


 楓はサイドテーブルにお盆を置くと、ベッドサイドに座り込み、慣れた手つきで僕の額に自分の額をコツンと合わせた。

 柔らかい前髪と、甘いシャンプーの香りが触れる。

 近すぎる距離。でも、今の弱った僕には、その体温が心地よかった。


「……熱はないね。でも、顔色が真っ青」

「大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」

「嘘」


 楓は僕から離れず、至近距離で瞳を覗き込んでくる。

 その茶色の瞳は、僕の隠し事をすべて見透かしていた。


「悠真の嘘なんか、ウチにはお見通しだよ。……昨日、何かあったんでしょ? 凛ちゃんと買い物行った後から、様子がおかしいもん」


 ドキリとする。

 さすがは幼馴染だ。僕の呼吸の深さ、視線の揺らぎ、声のトーン。すべてをモニタリングされている。


「……会ったんだ。中学の後輩に」

「えっ」

「中央実業の氷室。……あいつに絡まれた。それだけだよ」


 楓の表情が凍りついた。

 彼女は、僕が中学時代にどれだけ追い詰められていたかを知っている。中央実業といえば、あの「黒岩監督」の影響下にあるチームだということも。

 彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。


「……何かされたの? 殴られた?」

「ううん、言葉だけだよ。でも……来週、あそこと練習試合することになった」


 僕が告げた瞬間、楓が僕のパジャマの袖をギュッと掴んだ。

 震えている。


「……行かないで」


 楓が、絞り出すような声で言った。


「断ろう、悠真。そんな試合、出る必要ないよ。ただの練習試合でしょ? 風邪引いたってことにすればいいじゃん。私が佐多先生にうまく言っておくから」

「楓……」

「だって! せっかく最近、悠真がちょっと元気になってきたのに! またあいつらに会ったら、悠真が壊れちゃう! あの時みたいに、ご飯も食べられなくなって、夜も眠れなくなって……そんなの、嫌だよ!」


 楓の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 彼女は本気で怖がっているのだ。僕自身よりも深く、僕の傷を恐れている。

 彼女にとっての最優先事項は、僕が「バレーで活躍すること」ではなく、「僕が平穏無事に息をしていること」なのだから。


「私が守るって言ったじゃん……。嫌なことはしなくていいの。怖い場所には行かなくていいの。ずっとここで、私のそばにいればいいのに……」


 楓は僕を抱きしめた。

 温かい。柔らかい。

 この腕の中にいれば、氷室の嫌味も、監督の怒号も聞こえない。

 「行かない」と一言言えば、彼女は全力で僕を匿(かくま)ってくれるだろう。世界中を敵に回してでも、僕の「逃げ」を正当化してくれるはずだ。


 それは、この世で最も甘美な逃げ道だった。

 陽だまりのシェルター。

 そこに一生引きこもっていられたら、どんなに楽だろう。


 でも。


「……ありがとう、楓」


 僕は彼女の背中に手を回し、ポンポンと叩いた。赤ん坊をあやすように。


「でも、今回は行くよ」

「どうして……?」

「逃げたままじゃ、この靴が泣くから」


 僕は枕元に置いてあった、新しいバレーシューズを見た。

 真っ白な、まだ傷のない靴。

 凛が選んでくれて、僕が自分で買うと決めた靴。


「凛ちゃんに言われたんだ。『過去はデータで上書きできる』って。……試してみたいんだ。僕が本当に『廃棄処分品』なのか、それともまだ戦えるのか」


 楓は身体を離し、不満げに唇を尖らせた。涙で濡れた目で、僕を睨む。

 でも、僕の目が昨日までのように泳いでいないことに気づいたのか、彼女は小さく溜息をついた。


「……分かった。悠真がそこまで言うなら、止めない」


 その代わり、と彼女は僕の手を両手で包み込んだ。


「私も行くから。マネージャー補佐としてベンチに入る。もし悠真が辛そうになったら、試合中でもコートに入って連れ出すからね。……覚悟しといてよ?」


 過保護すぎる宣言。

 試合中に乱入されたら退場ものだ。でも、それが今の僕には最強の命綱に思えた。

 彼女は僕の逃げ道を塞がない。けれど、僕が倒れた時のクッションにはなってくれる。


「……いただきます」


 僕は冷めかけたお粥を口に運んだ。

 楓の味がした。優しくて、甘くて、少しだけ重い味。

 それを完食することで、僕は彼女との「契約」を更新した。


2


 翌月曜日。放課後。

 空は曇り、湿った風が吹いている。

 部活(凛のしごき)が始まるまでの短い時間、僕は吸い寄せられるように美術室へ向かった。

 楓に決意を伝えたものの、やはり心の奥底では恐怖が渦巻いている。誰にも見せられない「弱音」を吐き出せる場所が必要だった。


 重いドアを開けると、夕暮れの光の中に神宮司雫がいた。

 彼女は窓際で、石膏像のデッサンをしていた。キャンバスに向かう背中は、寄せ付けがたいほど静謐だ。


「……いらっしゃい。今日は顔色が悪いわね」


 雫はこちらを見ずに言った。筆を動かす手は止まらない。


「分かる?」

「ええ。入ってきた時の空気の揺らぎで分かるわ。……輪郭が震えているもの」


 彼女は手を止め、ゆっくりと振り返った。

 ミステリアスな紫がかった瞳が、僕を射抜く。


「……こっちへ来て」


 僕は言われるままに、彼女の隣の丸椅子に座った。

 雫は鉛筆を置き、僕の方へ向き直る。

 そして、何の前触れもなく、僕の手を取って自分の頬に当てた。


「えっ、雫……?」

「静かに。……君の手、すごく冷たい」


 彼女の頬は滑らかで、陶器のように冷たいと思っていたが、触れると微かな体温があった。

 僕の氷のように冷え切った指先が、彼女の体温で少しずつ解凍されていく。


「……怖いの?」

「……うん。正直、怖い」


 僕は素直に認めた。

 楓には「戦う」と強がって見せたけれど、本当は足がすくんでいる。

 相手は県ベスト4。そして何より、あの監督がいる。


「来週、試合があるんだ。昔の……僕を壊した人たちと、向き合わなきゃいけない。……もしまた、あの時みたいに動けなくなったらどうしようって」

「そう」


 雫は僕の手を頬に当てたまま、目を閉じてその感触を楽しんでいるようだった。

 励ましの言葉はない。「頑張れ」とも言わない。「勝てるよ」なんて無責任なことも言わない。

 ただ、僕の「恐怖」を否定せずに、そのまま受け入れている。


「……壊れてもいいのよ」


 雫が目を開け、濡れたような瞳で僕を見つめた。

 それは、悪魔の囁きのようでもあり、聖母の慈悲のようでもあった。


「もし試合でボロボロに傷ついて、心が折れてしまっても……私が拾ってあげる」

「拾う?」

「ええ。粉々になった君の破片を集めて、私が一番美しい形に繋ぎ直してあげる。……だから、安心して傷ついておいで」


 彼女の指が、僕の手首をなぞる。


「勝たなくていい。強くなくていい。……無様に負けて、泥だらけになって、絶望した顔を見せて。その瞬間こそが、きっと一番美しいから」


 それは、スポーツの世界ではタブーとされる敗北主義だ。

 でも、今の僕にとっては、どんな熱血な激励よりも肩の荷を下ろしてくれる「劇薬」だった。


 もしダメでも、帰ってくる場所がある。

 たとえそれが、彼女の歪んだコレクションボックスの中だとしても。

 「負けたら終わり」じゃない。「負けても、雫がいる」。

 その最悪のセーフティネットがあるだけで、僕は一歩を踏み出せる気がした。


「……ありがとう、雫」

「ふふ。どういたしまして」


 雫は僕の手を離すと、満足げに微笑んだ。


「さあ、行きなさい。嵐(あのこ)が待ってるわよ。……せいぜい、美しく散ってらっしゃい」


3


 美術室を出て、渡り廊下を歩く。

 窓の外、グラウンドでは運動部が声を張り上げている。

 

 楓の「守護」。

 雫の「退路」。

 そして、これから向かう先にいる、凛の「戦略」。


 三つの異なる愛を受け取って、僕は体育館へと足を向けた。

 震えは、まだ止まらない。

 でも、それは恐怖だけの震えではなかった。武者震いだ。


 体育館の入り口。

 凛が仁王立ちして待っていた。


「先輩! 遅いです! サーブ練習の時間、3分ロスしましたよ!」

「……悪かったよ。すぐ行く」


 僕はジャージを脱ぎ捨て、コートへと駆け出した。

 ボールの弾む音が、僕の鼓動とシンクロしていく。


 待っていろ、氷室。黒岩監督。

 僕はもう、ただの「逃げた天才」じゃない。

 面倒くさくて、重たくて、温かい彼女たちに管理された、最強の「操り人形」だ。


 その糸が切れない限り、僕は何度でも立ち上がる。

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