第4話 奈落
岩田の面接での屈辱から数日後、芹沢敦の人生は最後の「支柱」を失った。
彼の恋人であった美咲から、別れを告げられたのだ。
「ごめんね、敦。ずっと不安定で、暗い話ばかり聞いてるうちに、私も疲れちゃった。ねぇ、真面目なのは知ってるけど、いつになったら笑ってくれるの?」
ファミレスでコーヒーを前に、美咲は申し訳なさそうに言った。彼女が求めた「笑い」を、敦はもうどこかに置き忘れてしまっていた。
派遣切り、パワハラ、そして今、愛する人からの拒絶。敦の心は、完全に奈落の底へと落ちた。もはや「復讐」という大義名分すら、彼の虚無感を埋められなくなっていた。
彼は、残された貯金を握りしめ、刹那的な快楽に身を投じた。
1. 虚無を埋める代償行為
風俗通い: 派遣切りされた彼の空虚なアパートには、誰も帰ってこない。彼は、お金を払えば優しくしてくれる「レンタルされた愛情」を求めて、夜の街をさまよった。そこで感じる一時の解放感が、彼の心を麻痺させた。
ギャンブル: 彼は競輪やパチンコに手を出し始めた。それは、彼の人生を支配する「不条理な運命」に対する、無謀な挑戦のようだった。当たれば歓喜、外れれば自己嫌悪。その激しい感情の振幅が、彼の虚無感を一時的に吹き飛ばした。
2. 日常の中の「プチ黒魔術」
金がなくなり、精神が荒廃していく中で、彼の「悪の道」は、大掛かりな「社会的抹殺」から、日常に潜む卑劣で小さな悪意へと姿を変えていった。
深夜。敦は、いつものようにコンビニエンスストアで缶チューハイを買った。トイレに立ち寄ったとき、洗面台の横に、二つ折りの財布が置き忘れられているのを見つけた。中には数万円の現金とクレジットカード。
(なぜ、この俺が必死に働いて全てを失ったのに、こいつはこんなところで金を粗末にできるんだ?)
一瞬の逡巡もなく、彼は財布を自分のコートの内ポケットに滑り込ませた。
「ネコババ」。誰にも見咎められない、完璧な犯罪。彼の心は、罪悪感ではなく、わずかな勝利感で満たされた。これは、社会に対する小さな報復であり、彼の「黒魔術」が日常に侵食した証拠だった。
3. 匿名性の毒
さらに、彼はストレス発散の手段として、ネット上の企業口コミサイトや掲示板を利用するようになった。
ハンドルネームを使い、彼は以前勤めていた会社の企業口コミに、派遣社員の目線でしか知りえないような、生々しい悪意に満ちたデマを書き連ねた。
「あそこの経理部門は、パワハラ体質の温床。特に岸田という管理職は最悪。派遣社員を人間扱いしない」
「人事部長の大森は、裏で取引先から接待漬け。社員の不正は日常茶飯事」
具体的な個人名と、派遣社員しか気づかないような部署の欠点を交えることで、その口コミは妙な説得力を持ち、会社への潜在的な応募者を遠ざけた。
これは、誰の人生も直接的に破壊しないが、会社という巨大なシステムに、微細な毒を注入し続ける行為だった。
「小さな悪意の連鎖こそが、この世界を支配している。俺はその流れに身を任せるだけだ」
敦の瞳には、もはや光はなかった。彼は、自らを裏切り、拒絶した社会に対して、底なしの悪意と虚無をもって応え始めた。
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