いじめは罪に問われるの?
いじめ防止対策推進法(定義)
第2条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。
──つまり、あの頃の私が感じていたあれは、全部。
* * * * *
「……なんなんですか、あの先生」
休憩室に戻った瞬間、思わず声が漏れた。
「高野はね、腕は優秀なんだけど。性格がね、あれだから。でも、そのうち慣れるわよ」
朝倉先輩は苦笑する。
「慣れる、ですか? あれに?」
お茶を出せば「ぬるい。入れ直せ」
熱いのを出せば「まずい。下げろ」
仕方なくコーヒーを出したら、それだけは文句も言わずに飲む。
……だったら最初からコーヒーって言え!
「そのうち、あれが可愛く見えてくるから」
「……朝倉先輩、それは絶対ないです」
「えー、本当に?」
「ちょっと間違えたら普通にパワハラですよ」
「ふふっ。訴えちゃ駄目よ? うちの先生は二人しかいないんだから」
確かに、精神科医は高野先生と中島先生だけだ。
「今日は中島先生は?」
「学会よ」
ということは、今日の診察は全部――
「おい。仕事だ」
突然、扉が雑に開かれた。
投げるようにカルテが渡される。
心理テストと、カウンセリング。
……はいはい、分かりましたよ、高野先生。
「天使ちゃん、初仕事だね」
「何かあったら助けてください……」
「もちろん」
* * * * *
カウンセリング室に入ると、既に患者が座っていた。
中学生くらいの男の子。緊張で肩が固くなっている。
こんな小さな子が精神科に来なくてはいけない理由って、なんだろう。
「悠太くん、だね。私は深見天使。あなたの味方だよ。
ここではなんでも話してくれていいの。
悠太くんのペースでいいから……今日はどんなことで来たのかな?」
「……」
沈黙。でも、こういうことは珍しくない。
「最近、眠れてる? ご飯は食べられてる?」
反応なし。
「じゃあ……好きなものは何?」
それでも沈黙。
どうしよう、と考え始めた矢先――
「……僕、捕まるの?」
「え?」
虚を突く言葉だった。
「どうしてそう思うの?」
「……お母さんが言ってた。悪いことしたから、捕まるんだって」
握りしめた小さな拳が震えてるのが見えた。
私はすぐ横にしゃがみ、そっと手を包む。
「お姉さんに話してくれる?」
すると、少しずつ、重い口が開いた。
「……クラスメイトを、いじめた」
「……いじめ」
ガタンッ。
立ち上がった勢いでテーブルにぶつかってしまい、大きな音が鳴った。
「そんなつもりじゃなかった。僕はただ……皆に嫌われたくなくて」
その言葉が、私の心の奥底を、鋭く刺した。
背中にぞわりと冷気が走る。
『堕天使! 偽エンジェル!』
ズキッ――
こめかみを殴られたような激しい痛みを感じるのは、いつぶりだろうか。
『あれのどこが天使なの? 名前負けしすぎ』
『やめなって、聞こえるって』
頭の中を何度も、何度も。振り払おうとしても、その声はどんどん近づいて来る気がする。
息が浅くなる。胸が、苦しい。
「ねぇ……いじめって、罪になるの?」
「いじめは……」
声が震えて、まっすぐ彼を見られない。
ちゃんと答えたいのに、言葉が出てこなくなった。もう、こんなことはとっくの昔に解決したはずだったのに。久しぶりに直面したその事柄に、私の頭が混乱していくのを止められない。
頭の奥でノイズが弾ける。
やばい──
そう思ったそのとき。
ガチャ。
静かにドアが開いた。
足音一つで、誰か分かった。
だってこれは、私が昔いつでも心待ちにしていた足音だったから。
「おい。変われ」
「た、高野先生……」
「朝倉。こいつ、どかせ」
「私まだ……」
「迷惑だと言ってる。私情を挟むな」
冷たく、容赦のない声音。
私の初めての仕事は、あっけなく終わった。
強制的に廊下へ出された私は、
新品の白衣の端を握りしめたまま、立ち尽くす。
中では朝倉先輩の落ち着いた声が聞こえていた。
私は自分の弱さにも、悔しさにも向き合えず――
ただ、白い廊下に影を落としていた。
* * * * *
この時私は思い知らされた。
自分がどれほど無力で、
どれほど浅はかな理想だけで動いていたのか。
そして――
憧れの人の背中が、
いまの私には、どれほど遠いのかを。
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