第2話 廃墟
大日方信一。彼が、一度は言ってみたいセリフは「どうだ? もう後がないぞ?」だった。悪の組織が、いたとして、その幹部の一人とバトルした後に、辛勝した空想を、学校の教室でしている。
今日も、愉悦部の日常が始まっていた。
彼の中で、現実と空想の境目は、はっきりとしていない。空想に浸るようになったのは、彼にとって現実が逃避すべき難題であったからだというのは、本人は自覚していない。
彼は授業中にも、空想をする。
聖川ひじり。彼女が、世界において最大級の価値を持つ存在だとしたら、どんな力を秘めているだろう。そして、僕は、どんな能力で、彼女を救い出すことができるだろう、と。
「至極、愉悦である」
隣りに座ってノートに黒板に書かれてある文字を書き写す彼女を、横目で覗き見る。
どこにでもいる女の子なんていない。その手首には、リストカットを繰り返してしまう程の、彼女を追い詰める『悪』が存在する。なぜ、ワルモノは、彼女を、追い詰めるのか。
それは、彼女が脅威だからだ。
この誰かにとっての世界に、脅威であり続ける限り、イジメに似た責苦に耐えなければならない。
それは、強くて鈍い人にならこの程度の攻撃をしても構わないよね? という、同調圧力による正当化や、上から目線の牽制であり続ける。
彼女は、いつも、僕以外の生徒と親睦を深めている時に、心のどこかで疎外感を抱いているのは、その同調圧力に抵抗しているのが、僕以外にいないとわかっているからなのだ。
故に、彼女は、僕を頼らざるを得ない。
「ふむ。実に愉悦」
「あんたさあ。さっきから、なにぶつぶつ喋ってるんだ?」隣りの席に座る、聖川ひじりが迷惑そうに顔を
それから、気を取り直したように、「あ」となにかを思い出し、顔を寄せて耳打ちをする。
「今日の放課後、行きたい場所があるの。着いてきてくれるよね? ほら、友達がいない者同士、友好関係を築くのも悪くはないでしょ?」
と言って素早く自分の席に戻る。授業を受け持っている教諭は、黒板を向いてチョークを使っているので、こちらの様子には気づかなかった。
それに対して「る」と返事をした後、彼は、なんだか秘密裏に約束をするというのも愉悦であるなと感じていた。ただ、友達がいないことに関しては、何の関心も抱いていなかった。
放課後にどこに行くのだろう。
世界の暗部に追われる彼女は、僕に助けを求めている。逃避行をするのだろうか。この学生生活や、家族から逃げて、全て放り出して、この退廃し切った世界を旅するのもいい。二人だけで、電車に乗って行けるところまで行ってみるのもいい。
この世界の終わりを迎えるまで。そうしているうちに、車窓から夕焼けが見えて、二人はその時間が永遠に続けばいいのにと願うのだ。そんな空想を大日方信一は、した。
放課後に昇降口で、彼女に呼びかける。待ち合わせの場所でかけるその第一声が大事だ。
「一体、どこに逃げる?」
それを聞いて振り向きつつ、怪訝な表情をした彼女は「は〜」と長いため息をついていた。眉根が上がっているのは、彼に呆れているからだった。
「『逃げる』って何? なにか、勘違いしてるみたいだけどさ。大日方くん、私を使ってなにか変な想像してるでしょう?」
「る」
彼は真っ直ぐに彼女の顔を凝視する。それをオカズにしながら、愉悦な世界の空想を繰り広げている。
「いつも、思ってたんだけど、私の顔を見てる時、視点がそこから動かないよね。それって変だよ。まるで、隣りにいるのに、どこかずっと遠くの世界にいっちゃってるみたい」
どんよりとした曇り空の下、二人は歩き出した。
彼女が連れてきたのは、廃墟を思わせる古びた、町外れにある通りだった。
「最近、隣町でも熊が出たって騒がれていたじゃない。だから、君にボディーガードをしてもらいたくて、着いてきてもらったんだ」人が住んでいない、空き家に入って彼女は心を弾ませながら手招きする。「ねえ。こっちこっち。早く来て」
呼ばれた方に行くと、そこにあったのは空き家というにはあまりにも、崩壊が進行した建物だった。窓ガラスは割れていて、屋根は朽ち果て欠けたまま野晒しになっている。
「これは世紀末」
そう彼は呟いた。
世界の終わりを常日頃から空想している彼でも、眉を顰めるような有様だった。
これはよくないと感じた彼は、空想で脳内補完する。リアリティが彼の愉悦を阻害する前に、あらゆるこじつけをした。
「私、こういう廃れた場所が落ち着くんだ。学校はもちろん、家に帰っても、自分の居場所がないから」
「……」
彼女の手首を切った傷痕。その自傷行為の理由を考える。どこにでもいるような、どこにもいない女の子。そんな彼女の心の傷は、どんなだったのだろう。
いや、そんなことは、どうだっていい。愉悦部の僕は、愉悦に浸ることだけを考えろ。
世界の暗部から逃げて、逃げついた先が、この廃墟だったのだ。
僕と彼女は、逃避行をした。学校から、家族から、人間関係や、社会的役割から、そして、世界から、逃げ出したのだ。この廃墟を住処にして、二人で暮らすことにした。
やがて、彼女は、リストカットをやめるようになった。何故かは知らない。ただ、わかるのは僕は彼女のことを運命共同体だという確信を持つようになったということだ。
そして、彼女に、恋をしている。僕の心は、穏やかに澄み渡り、この灰色の景色を美しいと思えた。もしかしたら、彼女も、僕と似たような気持ちを抱いていたのかもしれない。
しばらくし、この廃墟に住んで、始めて『呼び戻し』が来る頃。僕と彼女は奴らのことを『部外者』または『宇宙人』と名付けた。
大人として、振る舞う彼らのことを、何も理解したくなかった。僕と彼女は、二人だけの世界を作りたかったのだ。
まるで、それは、世界の終わりを迎えるまで、戦い続けた人類のように、誇り高く、確固たる信念を持った、生き様だった。
社会に適応しないことを、彼らは幼稚だとなじるけど、そんなことは、気にも留めなかった。
僕は、彼女を助けたかった。彼らのいうことを聞いていたら、彼女は助からなかったもしれない。
社会全体のために、一人の少女を生贄にするなら、僕は、社会の秩序をぶっ壊すつもりだ。
この空き家は、いずれ住む、場所になる。
「ふむ。至極、愉悦」
顎をさすりながら、自己満足した。
「ちょっと、そこどいて。写真撮るから」
「るッ」
空想に浸っている僕を押しのけて、聖川ひじりはスマホで写真を撮っている。楽しそうに、この退廃した物体を写真に収める彼女。
『これは僕の空想にあったことのような?』
その姿に、どこか既視感を覚える大日方信一だった。
それがまさに、世界の終わりに二人で旅をする空想そのものだと気づくのは、少し後のこと。
「ねえ、覚えてる?」
そう、問いかけられた時、初めてドキリとした。
「覚えているわけないよね。私、大日方くんと、だいぶ前に会っていたんだよ」
「る?」
「ねえ。運命って信じる?」
辺りは、夕焼け色に染まっていた。もうそろそろ帰らないと、本当に気の迷いで、逃避行をしてしまいそうだ。
僕は、ただ、彼女の言葉を聞いていた。
「記憶を失った恋人同士が、繰り返される世界でも結ばれるなんてこと、輪廻転生しても、再び引き合わせられるなんて、運命があると思うかな?」
愉悦に浸りたい僕は、彼女の言葉をよく聞いていなかった。人の話すことを、理解するのが苦手だし、興味がないのが、大日方信一だった。
写真を取り、フォルダに保存しながら、話し続ける。
「私の家系、考古学の研究をしていて。輪廻転生って本当にあるのかなって、死しても、同一の魂が繰り返されることはあるのかなって考えちゃうんだよね。私んちに人類の歴史について、沢山の文献があるんだ。興味があったら、観に来る?」
「……え」
彼は肯定も否定もしなかった。それが、初めて、彼女と交わした人間らしい返事だった。
彼女の家に向かった彼は、愉悦に浸っていた。これから、彼女の素性を知ることになる。
そして、世界の秘密を知ることになる。彼女は、選ばれし者で、世界の命運を握っている。世界が滅びるか、どうかは彼女の手にかかっている。そんな空想を、した。
「ただいま〜」
返事はない。
「ほら。入って」
大日方信一は聖川ひじりの家に入る。二階に上がると、そこには、おびただしいほどの、本が棚に詰まっている部屋が印象的だった。
隅に、勉強机が置かれているが、それよりも、本棚に収められている本の背表紙が不穏だった。
「世界の黙示録1」
「それ読んでもいいよ。私、もう読んだから」
そう言って、本棚から本を一冊抜き出した。
すると、間に挟まっていた封筒がでてきて、床に落ちた。
それを、彼は拾い上げてみたら、聖川ひじり宛てだということがわかった。この世界の秘密かもしれないと思い、彼女の目を盗んで、ポケットに入れた。
「愉悦で、ある」
そう呟いたら、彼女が怪訝な表情で彼を見ていた。
「いま、なにか隠した?」
「る!」
「『る!』じゃない。なにこそこそしてるの? ポケットになにか入れたでしょう? わかってるんだからね」
「る! る! る!」
聖川ひじりは、彼のポケットの中をまさぐるようにした。しかし、反抗して、躱わし切ることに成功した。
咄嗟に、躱わした瞬間、彼女の左手首の傷が露わになった。少しだけ鈍い光を、発したかのように彼は見えた。
「る?」
この世の中にあってはならないものを、見てしまった感覚だった。
空想と交わる点が、その傷痕にあるように彼は直感した。
「早く――しなさいよ」彼女は、怒り出した。「返しなさいよ!」
足を踏み出して、懐に入る。その動作は、柔道の背負い投げを彷彿とさせるもので、いとも簡単に彼を床に叩きつけてしまった。
「く、ハッ」
地に押し付けられ、肺から空気が抜ける声がした。視界がぼやける。
どうやら、頭に固いものが当たったらしい、と気づくのは目が覚めてからのこと。
視界の隅で、ポケットから盗んだ封筒が天を舞う。遠心力で中にある便箋も外に出て、中空を舞っていた。
偶然にも彼の倒れたところ。
目前に、その封筒は開かれた。
そこには、魔法の
「るッ」
そこで、大日方信一の意識が途絶える。
「はー。全くもう。なんで、こんなところに大事な書類が挟まってんのよ」
彼女は、ため息を吐いていた。
「とりあえず、大日方くんの意識が戻るまで待つか。いずれ、伝えないといけないことだし」
目が覚めると、天井が見えた。
白い壁が見える。大日方信一は、空想する。そうか。ここは、とある機関の研究センター。僕は、世界を脅かす異能力の素粒子を持つ。だから、白衣を着た彼らに、束縛され、動物実験のようなことをされている。
ダークマターの中身を知りたがる人間の気持ちはわかる。知的好奇心に従う科学者は、僕のことを、ただの物としか見ていなかった。
それが、とてつもなく、悲しかった。人類愛というものを、どこかで信じていたのに、ひどく裏切られた気分だった。
「きっと僕の体には、拘束具が巻かれて、ベッドの手摺りに両手を繋ぎ留められている」
「そんなわけないでしょ」
空想から解き放たれると、そこは、聖川ひじりの部屋だとわかった。
隣りでツッコミを入れた彼女に目を向けてる。
その向こうの窓ガラスは暗く、今が夕暮れを越えて、夜中に入っていたことがわかった。
「いつまで、寝ていたんだろう」
「そんなことどうだっていいじゃない。とにかく、本題に入らせてもらうけど」
そう言って、彼女は、左腕の傷跡を見せた。少しだけ、光が漏れ出ているような気がする、と僕は感じた。
「私、人間じゃないの。そして――ワルモノから狙われてる」
ワルモノ。それは、彼にとって、愉悦のスパイスになるものだった。正義と悪の対立構造。それは、人間の心に、最も深い関心を寄せる概念だと、彼は知っていた。
しばらく、沈黙が続いた。
「ふ。ふ、ふふ」
鼻で笑う、僕には、それが何を意味するかを、想像した。
彼女は、『嫌悪するものを無かったことにする』という特異な能力で、この世界を恐怖に陥れた。
だから、彼女にとってのワルモノは、世界にとっては正義の味方だ。そのことを、彼女は知らない。
ベッドから降りてすくっと立ち上がり、尊大な態度で、胸を張って腕を組む。
「え……なんなのよ、大丈夫? 頭、強く撃ちすぎた?」
「ふ、ふふふ。あッハハハ。どうやら、ついに発見してしまったようだな。この世界の真理というものを」
「……」
「そこの、便箋に書かれてある文字を見たまえ。
「……とりあえず、そういうことにして、置こうかしら。解釈が早とちりすぎるけど」
「る」
「はあ。だから、なにが『る』なのよ」
彼女は、肩を窄めて、ため息をついた。
「愉悦である」
こんな展開を、彼は求めていた。
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