プロローグ 52ヘルツの線
水は、光よりも前にここへ届いていた。
北太平洋の深いところ。太陽の色はもうとっくに失われ、上と下の区別も、目ではなく身体の圧力でしか測れない深さ。水温は骨の芯まで静かに冷やし、外側から内側へ、じわじわと時間をかけて沈んでくる。
そこでは、世界は輪郭ではなく、揺れと重さと音でできている。
海底の山脈をなぞるように、冷たい潮が低い振動になって流れ込んでくる。遠くの嵐が作る長いうねりが、皮膚も骨も区別なく押し上げては引き下げる。頭上のどこかで、厚い氷の板がきしみ、ひび割れ、その音が深みにまで届くとき、彼女のからだの外側の殻が、ごくわずかにきしむ。
耳という器官を持たなくても、彼女は音を聞いていた。顎から胸郭へ、腹の奥まで、振動は滑り込んでくる。内臓を包む膜が、ごくかすかに震え、その震え方の違いで、何千キロ先の出来事まで判別できた。
遠くの方で、太い呼吸のようなものが始まっていた。
十五から二十ヘルツほどの深い帯域。ゆっくりと立ち上がり、長く尾を引く声。それが何十、何百と重なり合い、海全体を満たしていく。シロナガスやナガスクジラの合唱。ひとつひとつは区別できるが、ある距離を超えると、それはただの「厚み」として彼女の身体に降り積もる。
その厚みの中で、彼女は息を吸った。
肺に水は入らない。代わりに、胸郭の奥の空間が、ゆっくりと圧力を変える。筋肉が収縮し、内側の空気が押し出されていく。その動きに合わせて、喉の奥の器官が形を変え、外へ向けて震えを送り出す。
彼女の声は、周囲のそれとは別の高さを持っていた。
十五でも二十でもなく、その倍にも満たない。もっと上の、三つ目か四つ目の節にある高さ。彼女が息を吐き出すとき、海の中には、細い一本の帯が生まれる。はっきりとした輪郭を持ちながら、太くはならず、音の谷間を滑るように進んでいく線。
低い合唱の層から、すこしだけ離れている。重なり合う太い声の布の上を、その線は上空を飛ぶ鳥のように横切っていく。布に穴をあけることも、縫い込まれることもなく、ただその上を掠めていく。
彼女は、その位置を意図したわけではない。ただ、自分のからだの形と大きさと、骨の長さが、その高さを選んでいた。彼女が声を出すたび、その高さは自然と再現された。何度繰り返しても、それは同じ帯域を滑っていく。
周囲の合唱は、厚くあたたかい。彼女のからだの外側を包む毛布のような低い声の集まり。その中にいると、内側と外側の境界が曖昧になっていく。遠くの仲間の位置も、氷や陸地の配置も、その厚みのわずかな凹凸から読み取れる。
彼女は、一定の間隔で声を出した。
それは歌うことでもあり、測ることでもある。声を放ち、その反響を受け取ることで、空間の形が更新される。海底の稜線。谷の深さ。氷の裏側の空洞。水温の違いに応じた音の曲がり方。そのすべてが、彼女の身体の内部に、多層の地図として蓄えられていく。
声を出す。響きが返ってくる。低い合唱と混じり合いながらも、自分の線だけは、いつも少し上を通る。その線が、どこまで届いているのか、彼女は正確には知らない。ただ、ある距離を超えると、返ってくるはずの反響の密度が、目に見えない穴のように薄くなるのを感じていた。
低い合唱の帯域では、反響は濃い。氷も、岩も、他のからだも、その高さで何度も何度も叩かれているからだ。だが、彼女の線が滑る高さでは、海はまだ、打たれ慣れていない。そこに当たるものは少なく、返ってくる揺れもまばらだ。
彼女の身体は、その差を敏感に拾っていた。
声を放つ。周囲の厚みを通り抜け、その上へ抜けていく。しばらくして、足元の方から、遅れて反響が戻ってくる。それは、ごく薄い布を指で触ったときのような感触だ。低い合唱の反響が、重い毛布の重みだとしたら、その高さの反響は、指先をすり抜ける冷たい霧のようなものでしかない。
彼女は、その霧の薄さを、穴として感じていた。
穴の向こう側に何があるかを、彼女は知らない。ただ、そこには、まだ満たされていない空間が広がっていることだけは確かだった。声を重ねるたび、その穴の輪郭が、すこしずつ明瞭になっていく。同じ高さを何度も何度もなぞることで、その空白の形が、からだの内側に刻み込まれていく。
合唱の低い帯域では、別のやりとりが続いていた。交わされる合図。繁殖期の呼びかけ。餌場の情報。彼女は、その厚みの中に含まれる意味を、からだで理解している。だが、自分の声が滑る高さで、それに応える声はほとんどない。
ときおり、誰かの低い声が、彼女の線を横切ることがある。低い帯から伸び上がる一瞬の装飾音が、彼女の高さにかすって消える。そのとき、身体の周囲の水が、ほんのわずかだけ濃くなる。だが、それはすぐに元の厚みに戻っていく。
彼女は、歌うのをやめなかった。
一定の間隔で声を放ち続けることが、世界の形を保つために必要だった。海底の山々はゆっくりと削られ、氷は季節ごとに厚さを変え、潮の流れもわずかに向きを変えていく。その変化を捉え続けるためには、測定をやめないことが一番確実だった。
彼女の声は、深さの一定した帯を滑っていく。水温と塩分の組み合わせが作り出した、音の通り道。その通路は、彼女の知らない遠くの海まで続いている。そこを、自分の声がどこまで走っていくのか。彼女の感覚は、ある距離までしか追えない。だが、その先にも、水があり、圧力があり、氷のきしみがあることはわかっていた。
彼女は、その先に何がいるのかを知らない。知らないまま、声を送り出す。その線が、どこかで何かに触れているのかどうかも、確かめようがない。
ただ、声を出すこと。反響を受け取ること。その繰り返しが、彼女にとっての「ここにいる」という感覚そのものだった。
低い合唱の布の上を、一本の線が、今日も滑っていった。
同じ海の、別の深さでは、その線はすでに一本の記号に変わっていた。
地下の観測室。窓のないコンクリートの壁と、低い天井と、蛍光灯の青白い光は、そのままだった。ただ、そこに並ぶ機器のラベルや、端末の用途が、すこしずつ変わり始めている。
スクリーンに映るのは、相変わらず海の音だった。だが、その音は、武器ではなく、データとして扱われつつあった。
海底のハイドロフォンアレイから上がってくる信号は、まず、音速が最も遅くなる深度をめざして集められる。水温と塩分が作るその谷間を、彼は「音の導管」として頭の中に描いている。低周波の音は、その導管に落ち込み、何千キロも滑ってくる。
彼の前のコンソールには、その導管を通り抜けたものの切り取りが、常に流れ続けていた。
ブラウン管のモニターに映るスペクトログラム。縦軸が周波数、横軸が時間、色の濃さが音圧。彼は、その情報の塊を、ほとんど息をするように分類していく。
十五〜二十ヘルツ帯には、太い帯がいくつも重なっている。シロナガス、ナガスクジラ。ケミカルなラベルを貼られ、コード化された「BIO-WHALE」。合唱の厚みは、スクリーン上では、太い刷毛で塗られた塊として現れる。
その上に、鈍重なハーモニクスの塊が重なる。貨物船。タンカー。ディーゼルエンジンの回転数ごとに現れる縞模様。彼の手は、それを「MERCHANT」「TANKER」といったタグに切り分けていく。鋸歯状の鋭いパルスが揃っていれば、「SUB」。ソ連の潜水艦。いまはそのラベルも、以前ほど緊張を伴わなくなっている。
彼の同僚たちは、これを「軍事から科学への転用」と呼んだ。冷戦の終わりとともに、海全体を監視していた耳は、ゆっくりと別の目的に使われ始めている。クジラの回遊。海流の変化。氷床の崩壊。彼自身も、職務上はその変化の一部だった。
だが、彼の内側で動いているものは、もっと単純だった。パターンへの執着。線と帯を見分けることへの欲求。それは、軍事か科学かといった分類の外側にあった。
彼は、ある一点を見ていた。
十五〜二十ヘルツ帯の厚い布。その少し上。貨物船のハーモニクスが作る乱れのさらに上。スクリーンの中ほどに、一本の細い水平線がある。
約五十二ヘルツ。
以前、軍事目的の監視をしていた頃、その線を最初に見つけた日の感覚を、彼はまだ鮮明に覚えている。ルーティンの中に紛れ込んだ異物。潜水艦とも、電源ノイズとも違う線。報告は簡単に流され、分類上は「BIO-UNK」に押し込められた。
あの日から、彼はその線のことを、完全には手放せずにいた。
観測室の隅の壁には、小さなコルクボードがあり、そこにいくつかのスペクトログラムがピンで留められている。公式な掲示物の横に、個人的な興味でプリントアウトされたものが紛れ込んでいる。
彼は、自分の席から少し身をひねって、そのボードに視線を送った。一枚の紙。白地に、緑色の網目。その中央を走る細い線。端に自分が走り書きした「52Hz」の文字。
彼がいま見ているスクリーンにも、その線が浮かび上がっている。
前よりも、少しだけはっきりと。
同僚の一人が、彼の背後を通り過ぎながら、ちらりとスクリーンを覗いた。
「またそれかよ、ダン」
彼は肩越しに声を聞きながらも、目は画面から離さない。
「お前の“幽霊線”」
からかうような声。彼は、返事を遅らせた。言葉を探したわけではない。ただ、画面上の線のわずかな揺れを、目で追うのをやめられなかった。
「幽霊じゃない」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
「電源ノイズでもない。こんな安定したドリフト、見たことないだろ」
「安定してるのか、ドリフトしてるのか、どっちだよ」
同僚は笑い、肩をすくめて離れていった。
彼は、ひとり残される。ヘッドセットを少し深くかけ直し、ボリュームを上げる。鼓膜の奥に、細い振動が届いてくる。
五十二ヘルツ前後の一本のトーン。それが完全な直線ではないことを、彼はよく知っていた。周波数は、呼吸のような周期で、ごくわずかに上下に揺れている。図に描けば、水平線の上に、ゆっくりとした波が重なっているように見えるだろう。
彼は、コンソールの別の窓に切り替え、周波数の時間変化を数値で表示させた。小数点以下二桁の変動。上がって、下がって。また上がる。そのリズムを、彼は無意識に自分の呼吸と重ねてしまう。
吸う。吐く。その間隔に合わせて、数値がわずかに揺れるように見えてしまう。もちろん、それは錯覚だ。自分の呼吸は、線の出現周期とは別のものだ。だが、一度重ねてしまうと、完全に切り離すことが難しくなる。
彼は、パルス間隔も確認した。線は連続しているように見えて、実際には短い途切れがある。二十秒前後の沈黙。そのあとで、また同じ高さに戻ってくる。ときには十五秒、ときには二十五秒。完全な機械ではない何かの呼吸。
巨大な生き物の心拍のようだ、と彼は思った。
その比喩は、彼の中だけに留めておく。口に出すつもりはない。何かを「心拍」と呼ぶことは、ここでは科学ではなく感傷に分類されるからだ。
ただ、彼の指先は、その感覚に正直だった。
キーボードの上で、指が一定のリズムで動く。データの保存場所。ファイル名。日付。チャンネル番号。周波数帯。必要な項目を、淡々と埋めていく。研究用のサーバには、彼の作ったフォルダがいくつもあった。そのひとつに「52HZ_TRACK」という名前のものがあることを、彼はあまり深く考えないようにしていた。
新たな記録を、そのフォルダに追加する。過去数年分のデータが、そこには溜まり始めている。一本の線が、季節ごとに、年ごとに、姿を見せたり消したりしている。そのパターンを読み解くのは、先の仕事になる。
いまはただ、その線が「導管」に乗ってここまで届いている事実が、彼の胸の奥でわずかな熱になっていた。
五十二ヘルツという高さは、本来、この導管にとって主役の帯域ではない。もっと低い音の方が、抵抗なく滑ってくる。だが、それでも、この線はここにいる。
届かないはずの高さの声が、導管に乗っている。
彼は、その違和感を何度も確かめたくて、データを見直し続けた。ノイズでは説明しきれない安定性。電源ハムとは違う位置。既知のクジラの帯から外れた高さ。未知の機械音にしては、規則性が柔らかすぎる周期。
すべてが、「変だ」という直感に寄り添っていた。
観測室の空調は一定の唸りを続けている。同僚たちの会話は、背景のノイズだ。誰かが笑い、誰かが椅子を引き、誰かがドアを開け閉めする。そのすべてが、彼の意識の中では、スペクトログラムの端の方に散らばるノイズのようにぼやけている。
スクリーンの中央には、一本の線がある。
彼は、その線に視点を合わせ続けた。時間の感覚が、その線の上を滑っていく。数分が、ひとつの呼吸のように縮まり、また伸びる。線がふっと途切れ、しばらくの沈黙の後、また現れる。そのたびに、彼の胸の奥の筋肉が、ほんのわずかに収縮する。
それは、任務の一部ではない感覚だった。報告書には書けない。だが、その感覚がなければ、彼はきっとこの線を追い続けてはいない。
五十二ヘルツの線は、スペクトログラムの上でだけ、そこにあった。
海の深みにいる本体は、彼には見えない。彼に届くのは、電気信号に変換された振動の記録だけだ。それでも、その一本の線を追うことで、彼は、海のどこかにいる何かの存在を、わずかに確かめられるような気がしていた。
陸の上の、別の閉じられた空間では、別の種類の光が一本の線を描いていた。
都会の狭いワンルーム。ワンルームと呼ぶには気が引けるくらいの広さの部屋。ベッドと小さなテーブルと、作り付けのクローゼット、それだけで床の大部分が埋まっている。壁紙は、賃貸物件特有の白さで、ところどころ薄い擦り傷が入っている。
天井の照明は落とされていた。部屋の中で唯一の光源は、ベッドの上で仰向けになった彼の顔の前にある、小さな画面だけだった。
スマートフォンの光は、青白く、彼の頬の骨格を浮かび上がらせている。画面の明るさを少し落としていても、暗い部屋の中ではそれだけで十分に強い。瞳孔はその光に合わせて縮み、外の世界の暗さへの感度は、ほとんど失われていた。
壁の向こうから、電子レンジの「チン」という音が聞こえた。上の階では、誰かがシャワーを浴びているらしく、水の流れる音が天井越しに伝わってくる。窓の外からは、遠くの車の走行音と、時折通る電車の低い振動が、薄いガラスを通して侵入してくる。
それらは、彼にとっては背景だった。
彼の意識の中心にあるのは、親指の腹で撫で続けている画面の中の世界だった。
タイムラインは、終わりなく続いている。スクロールする指に合わせて、文字と画像と動画とリンクが、一定の速度で上から下へと流れていく。数秒前の投稿も、数時間前の投稿も、同じような幅で、同じようなフォントで並んでいる。
「誰にも届かないってこういうことか」
誰かの投稿が、一瞬だけ彼の視界に止まった。白地に黒い文字。その下には、小さく「いいね 3」「リポスト 0」と表示されている。丸いアイコンには、知らない誰かの横顔の写真。彼は、その投稿を読み取るのに必要な時間だけ指を止め、すぐにまたスクロールを再開した。
「今日もタイムラインにだけ生存報告」
別の投稿。そこには、薄暗い部屋の写真が添えられている。机の上のコンビニの弁当。空いた缶。ノートパソコンの画面。キャプションの末尾には、いくつかのハッシュタグが並んでいた。彼の視線は、それらの記号をなぞることなく通り過ぎる。
「既読スルーされるのが一番きつい」
チャットアプリのスクリーンショットを載せた投稿。吹き出しの横に、青いチェックマークが二つ並んでいる。その下に「既読 1」の表示。そこに貼られた短い文章は、すでに印刷された台詞のように見慣れている。
彼は、自分自身がついさっき送ったメッセージの「既読」の表示も、さほど気にしていないふりをしていた。画面の端に、小さく「既読」と表示された瞬間、胸の奥にわずかな収縮がある。その感覚を、言葉にする代わりに、彼は親指を動かし続ける。
数字の光が、視界の周辺を埋め尽くす。「いいね 0」「コメント 2」「フォロワー 153」。それらの数字は、一定の間隔で青白く点滅し、彼の網膜に残像を残しては消えていく。
スクロールの動きが、ふと止まった。
英語のタイトルが、画面の中央あたりに浮かんでいる。
「The World’s Loneliest Whale」
その下に、小さく日本語訳のサブタイトルがある。
「世界一孤独なクジラ──52ヘルツで鳴く“誰にも届かない声”」
小さなサムネイル画像。黒い海の上に、たぶんクジラと思しき影が描かれている。記事をシェアした誰かのコメントには、「この話、しんどいけど好き」とだけ書かれていた。
彼の親指は、そのリンクの上で一瞬止まった。
タイトルの中の「孤独」という文字が、青白い光の中でわずかに濃く見える。サブタイトルの「52ヘルツ」という数字が、他の情報とは違う種類の記号として、彼の視界に引っかかる。聞き慣れない単位。ヘルツ。物理の授業でどこかで見た気がする符号。
そこまで考える前に、指はまた動き出していた。
タイムラインは続きを吐き出す。「今日のランチ」「仕事つらい」「推しが尊い」。絵文字。スタンプ。短い笑い声の文字列。「w」「笑」「草」。それらが、さっきのリンクをあっという間に画面の上方へ押し上げていく。
彼は、リンクをタップしなかった。タップしなかったことに気づくこともなく、ただ次の投稿へと視線を移していく。リンクは、スクロールの動きに巻き込まれ、画面の外へ消えていった。
部屋の中の音は変わらない。上階のシャワーの音が止まり、代わりにヘアドライヤーの低い振動が加わる。隣の部屋からは、小さくテレビの笑い声が漏れてくる。窓の外では、終電に近い電車が、ゆっくりと線路を走っていく。
彼の耳は、そのどれもを、はっきりとは聞き分けていない。音の存在だけが、薄く膜のように周囲を包んでいる。彼の世界の輪郭は、画面の四角の中の文字列と数字で決まっていた。
布団の上で、彼は横を向いた。スマートフォンを顔の前に持ち直し、親指の動きを止める。タイムラインの一番上には、更新のための小さな矢印のアイコンがある。それを引き下ろすと、新しい投稿が読み込まれる。世界のどこかで今まさに書かれた言葉が、数秒後には彼の画面に現れる。
彼は、それをするかどうかを、数秒だけ迷った。
迷ったことに気づいたときには、すでに矢印は引き下ろされていた。画面の上部に小さな「更新中」の表示が出て、ぐるぐると円が回る。やがて、新しい投稿が、またひとつ、ふたつと、上から降ってくる。
さっきのリンクは、もうタイムラインのかなり下の方に埋もれているはずだった。
彼の親指は、また一定のリズムで動き始める。
画面の中で、細いスクロールバーが、今自分がどのあたりを見ているのかを示している。それは、長いタイムラインの中の、ほんの短い一部を示す線だった。上と下の端は、彼には見えない。ただ、自分がいま触れているのが、その線のどのあたりなのかだけを知らせてくる。
部屋の壁は薄く、画面のガラスは厚く感じられた。
彼は、目を閉じてスマートフォンを胸の上に置いた。まぶたの裏には、文字の残像が並んでいる。「誰にも届かない」「生存報告」「既読スルー」。英語のタイトルの断片。「Loneliest」「Whale」。それらが、暗闇の中でばらばらに浮かび、やがてぼやけていく。
胸の上のスマートフォンは、小さな矩形の重さとして存在している。画面は消え、光はなくなったが、その中にはまだ、さっきまでのタイムラインが折りたたまれている。数えきれない投稿の列。そのどこかに、あのクジラの記事へのリンクも、一本の文字列として残っている。
彼は、そのことを知らない。知らないまま、胸の上の重さに呼吸を合わせる。吸う。吐く。そのたびに、スマートフォンがわずかに上下する。中のデータには何の影響も与えない変化。
海の深いところでは、別の呼吸が続いていた。
導管の中では、五十二ヘルツの声が、今日もどこかを滑っている。
地下の観測室のスクリーンには、その声が一本の線として浮かび上がっている。
都会の一室のタイムラインには、その線について語るかもしれないリンクが、一本の文として埋もれている。
それぞれの場所で、それぞれの線は、まだ互いの存在を知らないまま、ただ自分の軌道を進んでいた。
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