ポンコツOL、九尾の狐とルームメイトになる

緑月文人

第1話

「うわあああ、最悪、仕事辞めたい。ていうか、もう死にたい……」

 私は地獄の底をさまよう亡者のごとき陰鬱な声で愚痴をこぼしつつ、夜道を歩く。


 毎日の仕事とそれに伴う人間関係のトラブル、それによって削られていく心。

 肉体的な疲労と精神的な疲労によって、足がふらつく。

 いつものことだ。――いや、今日は夕食をとるために入った飲食店で飲んだアルコールのせいもあって、ふらつきがいつもよりひどい。

 飲めばこの陰鬱な気持ちも少しは晴れるかも――そう思ったのが失敗だった。もともと私は酒がそれほど好きでもないし、たいして強くもない。


 周囲を見渡しても、目に映るのは夜の闇に包まれた田舎の風景ばかり。アスファルトで覆われた道のほかは、田畑とまばらにたたずむ数軒の民家だけ。

 陰鬱な気分で暗闇の中に民家を眺めていると、まるで夜の海に沈んだ墓石のように見えてますます気がめいった。


「あっ……」

 後悔にさいなまれながら歩いていると、ふらついた足が自重を支えきれずに転んでしまう。

「いっつう……ああ、もう本当最悪」

 私は道路に手をついてどうにか立ち上がろうとして……目を見開く。

「……え?」

 眼前――数メートル離れた場所にたたずむ人影。

 はじめはただの通行人かと思ったが、違う。全体的はシルエットは確かに『人影』だが、その姿を形作る一つ一つは明らかに常人のそれではない。


 死装束を連想させる白い着物を着たやせこけた体とは対照的に、頭部はずんぐりと大きい。

 おどろおろどしく乱れた黒い蓬髪。ギラギラとしていながら、どこか陰惨な眼光をたたえた落ちくぼんだ大きなまなこ。

 そして何より――水死体を連想させるほど、いびつに膨れ上がった顔と青黒い皮膚。


「ひっ……」

 座り込んだままの私はかすれた悲鳴をこぼしながら、後ずさろうとする……が足が動かない。

 がくがくと震えながらも逃げることができない私を見つめて、眼前の『それ』はにたり……と実際に音が聞こえてきそうなほど厭らしく嗤った。

 嗤いながら私に近づいていく。節くれだった手には、よく見ると縄を携えている。

 ゆっくりとその縄を私の首に近づける。

 あれで自分の首を絞めるつもりなのだろうか――肉体と同じように、恐怖で麻痺したように固まる精神の片隅で、妙に冷静な思考が浮かんだ。


 ぽうっ。

 凝然と動けない私の視界に、青白い炎がともった。

 月明かりよりもなお、冴え冴えと透き通ったその火炎は縄をあっさり焼き切った。続いてその縄を持っていた手をも焼き尽くしていく。


「ぎああああっ!」


 眼前の『それ』は悲鳴を上げてのけぞった。そのままじたばたともがきながらも、なおも私に手を伸ばそうとし――

 ふわり、と眼前に何かが広がった。

 純白の花弁のようにも、火炎のようにも見えるゆらめく何か。

 放射状に広がる何本もの大きな尻尾。そう気づいた時は、尾の群れがぱしりと地面を打った。すると先ほどの炎よりもさらにまばゆい火炎が生まれて『それ』を包み込んでいく。


「いぎやあああっ!」


 耳をつんざくような金属質の悲鳴を上げて『それ』は地面に倒れ伏した。

 痙攣するようにもがきながら、緩やかに消失していく『それ』を、私は茫然と眺めていた。

 いや、見ていたのは私だけではない。――『それ』を焼き尽くした『何か』もだ。

 尾の群れをなびくように揺らめかせながら、私を守るように佇立する一匹の獣。


 いまだ消えていない白い炎に照らされて、その姿がよく見える。

 犬に似ているが、全体的にほっそりしている。体つきに反して、尻尾の方はふさふさとした毛に包まれて豊麗だ。


「犬……じゃない。狐?」

「……おや、見えるのかい?」


 茫然とへたり込んだままの私が思わずつぶやくと、涼やかな声が聞こえた。

 振り向いた獣――狐の切れ長の大きな眼が私をとらえる。

 その中の紅玉のように透明で色鮮やかな瞳は、縦に切れ込みを入れたように細長い瞳孔を宿している。


 私が思わず瞬きをすると、その姿は解けるように掻き消えてしまう。代わりにその場には、ほっそりとした長身の女性が立っていた。

 結い上げもせずにまっすぐ垂らした髪は、冴え冴えとした銀白色。上品な細面の中で切れ長の大きな眼がよく目立つ。その中の瞳は澄んだ紅玉色で瞳孔は細長い。――さっきの狐と同じだ。

 身にまとうのは上品なブルーグレイのパンツスーツ。私も来ているのはパンツスーツだが、なんというかこの女性の方がかっちり着こなしている。


 私が呆けたように見とれていると、女性は手を差し伸べてくれる。

 白魚のようなという古めかしい表現が、この上なくしっくりと似合いそうな白い繊手。


「立てるかい?家まで送っていくよ」

「あ……はい」

 いまだ呆けながらも私は頷いてその手を取って、何とか立ち上がる。

 ほっそりとしているが力強くて暖かい手に支えられるようにして、私は帰路につく。


「……ここです。ありがとうございます」

 住んでいるアパートの一室にたどり着いて、私は女性にお礼を言う。

「あの、中にどうぞ。お茶でも淹れます」

「いや、そんな……」


 部屋のカギを開けながら言うと、女性が恐縮したように言いよどむ。


「大丈夫です。助けていただいたお礼もしたいし。それに……」

 といいかけて、私は視界がふらりと傾いて暗転していくのを感じた。

「あ、れ……?」


 冷ややかな暗闇に沈みかける視界とは裏腹に、体はふわりと柔らかい感触に包まれる。

 どうやら女性が抱き留めてくれたらしい。女性と比べて小柄な私の体はすっぽりと優しいぬくもりに包まれる。

 ああ、さっきから助けられっぱなしだ。お礼をしないと……。


 などと考える意識も徐々に暗闇に沈み込んでいく。女性が何か言っているようだがうまく聞き取れない。どうしよう。早く何とかしないと。早く……。


 底なし沼にずぶずぶと沈み込んでいくように、私は意識を失った。



チュン……。チュン。

 薄闇の中でまどろむ中で、朝を告げる鳥の声がとぎれとぎれに聞こえてくる。

「うー。会社……。行きたくないけど、いかないと……」

 亡者のように呻きながら、私は目を開けてベッドから身を起しかけて……。

「……あ、今日は土曜日だった」

 つぶやくと同時に、脱力して再び横たわる。

 そういえば昨日の夜は妙な夢を見た気がする。お化けに襲われる夢……などと我ながら子供じみている。

 そう思いながら、私は再び惰眠をむさぼろうと目を閉じて……。


「やあ、おはよう。目が覚めたかい?」

 早朝の空気よりも清澄な声をかけられて、再び目を開く。

 鈴を転がすような、という古風な表現が似合いそうな澄みきった声に、残っていた眠気が完全に吹き飛んでしまう。

 私が向けた視線の先には、パンツスーツがよく似合う、中世的で玲瓏とした女性の姿があった。

 ――私を昨夜、助けてくれた女性だ。

 



 





 

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