第2話――「病弱皇女、母后と再会する」

(西暦1067年1月18日早朝、聖人アタナシオスの記憶の日)


 病弱な皇女イリニが、セルジューク・トルコに押されて劣勢に立たされたビザンティン帝国を建て直すため、雷槍を振るうお転婆娘ラフィーナを呼んだのだと気づいたのは、絹の天蓋の下で目を覚ましたこの瞬間だった。


 扉の向こうで、金具が小さく鳴った。誰かが控えめにノックをする音が、厚い木戸と石壁を通して、水に沈んだ鈴の音みたいに響いた。


 「イリニさま。お目覚めでいらっしゃいますか」


 女の声だった。低く落ち着いた響きが耳に届いた瞬間、胸元のガーディアン・コアが、衣の下でふっと熱を帯びた。知らない音の連なりが、石をひとつくぐり抜けてから意味に変わり、頭の内側へ流れ込んでくるような感覚がある。


 自分の世界の言葉ではないのに、祈りの歌に似た抑揚までも手に取るように分かる。この小さな核が、この世界の言葉を聞き慣れたものに変えてくれているのだと、ラフィーナは直感した。


 ラフィーナは、思わず息を飲んだ。イリニという名が、自分に向けられたことがはっきりと分かったからだ。


 胸元のガーディアン・コアが、衣の下でかすかに震えた。白い壁、冷たい教会、蝋燭の灯り。書物の文字をたどる細い手の像が、誰のものとも知れない記憶として頭の内側に流れ込んでくる。


 「……入って、いいよ」


 口をついて出たのは、やはりこの世界の言葉だった。舌の運びも、喉の響きも、さっき聞いた声と同じだ。自分の声なのに、どこか借りもののような違和感があった。


 金具が回り、扉が静かに開いた。


 年配の侍女が一人、部屋へ入ってきた。髪は灰色まじりの黒で、後ろで堅くひとつにまとめられている。濃紺の衣の上から、白い前掛けを締めていた。目尻に細かい皺が寄っているのに、身のこなしは驚くほど素早い。


「イリニさま、本当に……よかった。熱は、もう下がっておいでですか」


 侍女はベッドのそばまで来ると、祈るみたいに胸の前で指を組んだ。ラフィーナは、そっと自分の額へ手を当てた。少し重いけれど、焼けつくような熱はない。


 「大丈夫。少し、頭がくらくらするけれど」


 言いながら、ラフィーナは侍女の顔をじっと見た。心のどこかで、その名を知っている気がする。


 「……あなたは」


 「ゾエでございます、殿下。忘れてしまわれたのなら、病のせいにしておきましょう」


 ゾエと名乗った侍女は、冗談めかした口ぶりで微笑んだが、瞳の奥には、拭い切れない疲れと不安の影が差していた。


 「お父上のご容体もありますし、宮中は騒がしいのです。陛下がお倒れになってから、まだ日も浅うございますから」


 言葉の意味を理解するのに、一拍の間が必要だった。


 「……お父上」


 胸の中で、コンスタンティノス10世という名がゆっくり形を結んだ。


 胸元のガーディアン・コアがかすかにうなり、断片的な像とことばが頭の内側へ流れ込んでくる。


 長い戦と祈り、皇帝たちの即位と失脚、東から迫るトルコ人の影。西暦1067年に至るまでのこの帝国のおおまかな歩みだけが、薄い地図のように心の中に広がった。


 コンスタンティノス10世という名前が、父という呼び名と結びつく。喉の奥が、乾いた布で詰められたようにひりついた。


 「そう、父帝陛下は……」


 「昨夜もお話し申し上げましたが、覚えておいでにならないのですね。よろしいでしょう。今は、ゆっくりお休みになるのが一番です」


 ゾエは、ラフィーナの言葉をそっと遮り、額に手を当てた。粗い指先なのに、触れ方は驚くほど優しい。


「皇后陛下が、殿下のお目覚めをお待ちでございます。お身体が許すなら、午後にはお部屋までいらっしゃるそうです」


 皇后。エウドキア。


 ラフィーナは、胸元のガーディアン・コアがさきほど示した年号を思い出した。西暦1067年。この年のうちに父帝が崩御し、皇后が摂政として帝国の舵を握り始めるのだと、コアが淡々と告げていた。


 頭の奥のどこかで、アレクとアウリナの気配が遠く薄れたように揺れた。


 「……会いたい。立てると思う」


 ラフィーナは、布団の上から自分の手を握りしめた。指は細くて白く、アウレリア島で鍛えた筋肉はすっかり影を潜めている。この身体は、病弱な皇女のものだと、感触が告げていた。


 「では、少しずつ起き上がりましょう。侍医もすぐ参ります」


 ゾエはそう言うと、枕を高くし、ラフィーナの背に腕を差し入れた。羽毛の枕が形を変え、上体がゆっくりと起きる。世界がわずかに揺れたが、吐き気はこなかった。


 視線の高さが変わると、部屋の景色も違って見えた。壁にかかった都市図のタペストリーの下には、低い木の机が置かれ、その上に細いロウソクと、革装丁の書物が何冊か積まれている。書物の背には、見慣れない文字が金の線で刻まれていたが、不思議と読むことができた。


 「『詩篇』『預言者イザヤ』『ローマ人への書』……」


 小さく読み上げると、ゾエが目を瞬かせた。


 「おや、殿下。こんなにはっきりと読まれるのは久しぶりでございます。いつもは目を通しておいででも、すぐにお疲れになって」


 さきほどコアが見せた光景からしても、以前のイリニは、本を読む体力さえろくになかったのだと分かる。ラフィーナは、胸のどこかにうずく申し訳なさを覚えながらも、この身体の持ち主が重ねてきた日々を、静かに受け取った。


 「ゾエ。今日は何日なの」


 「西暦1067年1月18日、聖人アタナシオスの記憶の日でございます。陛下がお倒れになってから、5日目でございますね」


 西暦1067年1月18日。父帝が重い病で床に伏してから5日目の朝。帝都全体がまだ不安の影を引きずっているのだと、ラフィーナにも分かった。


 ラフィーナはうなずき、窓の方へ視線を向けた。格子越しに見える空は、薄く雲がかかり、海からの光を鈍く返している。港の方角からは、鐘の音が低く響いてきた。死者のための鐘なのか、日課の祈りを告げる鐘なのか、今の彼女には分からない。


 やがて、若い侍女が二人、洗面用の水と衣服を運んできた。ゾエが手短に指示を飛ばし、ラフィーナはその手を借りて顔を洗い、薄い汗を拭った。冷たい水が頬を滑り落ちる感触は、アウレリア島の小川と変わらないのに、そこに混じる香の匂いと油の気配が、ここが別の世界だことを何度も思い出させた。


 「皇后陛下の前にお出ましになる以上、少しはお召し替えを」


 ゾエはそう言って、衣桁に掛かった濃い葡萄色のドレスを広げた。細い金糸の刺繍が胸元と袖口に走り、腰には薄い革の帯が通されている。


「これは……重そうだね」


「病み上がりには少々。しかし、殿下は〈ポルフィロゲニト〉でおいでですから」


 生まれながらの紫衣の皇女、という意味の言葉が、自然と理解できた。ラフィーナは、少しだけ胸を張った。自分に与えられた立場を、使えるだけ使うしかないと分かっていた。


 衣を身にまとい、腰帯を締めると、鏡台の前に座らされた。磨かれた青銅の鏡が、そこに映る自分の顔を揺らしている。


 黒髪は肩のあたりでゆるく波打ち、ゾエの手で後ろへまとめられていく。眼は大きく、灰色がかった緑で、アウレリア島で見慣れた自分とどこか似ていた。頬は少し痩せているが、骨ばってはいない。


 「イリニ・ラフィーナ・ドゥーカイナ」


 ラフィーナは、小声で自分のフルネームを繰り返した。イリニは平和、ラフィーナは雷と海の娘としての自分。二つの名が胸の中で重なり、ゆっくりとひとつに溶けていく。


 胸元のガーディアン・コアが、布の下でわずかに脈動した。ここにいるのは間違いなく自分であり、同時に、この国にとっては病弱な末皇女なのだと、その鼓動が告げていた。


 程なくして、扉の外があわただしくなった。


 「皇后陛下がお見えです」


 衛兵の声が響き、ゾエと侍女たちが一斉に控えの位置へ下がる。ラフィーナは深く息を吸い、背筋を伸ばした。


 扉が開くと、香の匂いが一段と濃くなった。


 先に入ってきたのは、金糸で縁取られた白い衣を着た助祭と、黒衣の宦官だった。その後ろから、一人の女性が姿を現した。


 エウドキア皇后であった。


 豊かな栗色の髪を頭頂でまとめ、黄金の冠をいただいている。衣は深い青で、胸元と裾に小さな十字と葡萄の房がびっしりと刺繍されていた。顔立ちは整っているが、目の下には薄い隈が浮かび、数日眠れていないことを隠そうともしない。


 「イリニ」


 皇后は、床に膝をついた娘の前まで来ると、その肩に手を置いた。指先が微かに震えていたが、声は静かだった。


 「私の小さなイリニ・ラフィーナ。やっと目を開けてくれたのね」


 ラフィーナは、皇后を見上げた。近くで見るエウドキアの瞳は、琥珀色だ。涙で少し赤くなったその目に、自分の姿が小さく映っていた。


 「……お母さま」


 言葉を口にした瞬間、胸の奥を何か熱いものが突き上げた。胸元のガーディアン・コアが震え、病床のベッド脇で聖歌を聞かせる声や、眠るまで髪を梳く指先の像が一気に流れ込んでくる。


 母の手のぬくもりだけが、自分のもののような確かさで残った。


「ごめんなさい。お父上のおそばにも行けなくて」


 自然に出た言葉に、自分でも驚いた。エウドキアの瞳が大きく見開かれ、すぐに柔らかな陰りが宿る。


「いいのです。あなたは病んでいた。神も陛下も、それをお責めにはならないでしょう」


 皇后はそう言いながら、ラフィーナの額に口づけを落とした。香の匂いと、母親の生身の匂いが混じり合い、胸の奥で絡まった。


 短い沈黙のあと、ラフィーナはそっと口を開いた。


 「お母さま。これから、帝国はどうなるのですか」


 部屋の空気が、わずかに固くなった。助祭と宦官が視線を交わし、ゾエが小さく息を呑む。


 「イリニ。あなたがそんなことを問うのは、初めてですね」


 エウドキアの声は、わずかに驚きを含んでいた。


 「夢を見ました。東の方で、兵が足りずに困っている人たちの夢です。農民が剣を持たされ、鎧もなく、家を離れて行くのを見ました」


 それは、ラフィーナの頭の中で組み立てた仮の説明だった。しかし、ガーディアン・コアから聞いたビザンツの衰えの始まりと、それを支える農民兵の疲弊は、夢と言い張ってもさほど嘘にはならない。


 エウドキアは、しばらく娘の瞳をじっと見つめていた。


「神が、お前に何かを示されたのかもしれませんね」


 やがて皇后は、静かにそう答えた。


 「帝国は、今、岐路に立っています。財は薄く、軍は弱くなり、東ではトルコ人が土地を奪おうとしている。あなたには、まだ重い話でしょう」


「でも、私も皇女です」


 ラフィーナは、間髪を入れずに言葉を挟んだ。


「お父上の娘であり、お母さまの娘です。何も知らないまま眠っているより、少しでも知っていたいです」


 エウドキアの口もとに、かすかな笑みが浮かんだ。それは、悲しみと誇りが入り混じった笑みだった。


「……分かりました。イリニ・ラフィーナ。あなたがそう望むなら、少しずつ話していきましょう。ただし、体をこわしては元も子もありません。今日はここまで」


 皇后は立ち上がりながら、宦官に視線を向けた。


「ミカエルには、妹が目を覚ましたと伝えなさい。あの子にも、いずれは妹と話をさせねばなりません」


 ミカエル7世。兄の名が、現実の響きを伴って部屋に落ちた。


 エウドキアはもう一度ラフィーナの肩に手を置き、そっと握った。


「休みなさい、私の娘。あなたが目を覚ましてくれたことだけでも、今日は神に感謝できます」


 皇后が出ていくと、部屋には再び香と静けさが戻った。ゾエがそっと近づき、カーテンを半分だけ閉める。光が柔らかくなり、壁の天使たちの輪郭が少しぼやけた。


 ラフィーナは、深く息を吐いた。


 病床の父を抱えた帝国。財政の危機。東方の敵。兄と母。そして、自分は病弱な末皇女。


 そのすべてが、今や自分の肩にうっすらとのしかかっている。


 窓の隙間から、港の光が細い帯になって床を横切った。遠くで鳴る鐘の音が、一打ごとに時間の流れを刻んでいる。


 ラフィーナは、胸元のガーディアン・コアに指を当てた。


 ここから月に1度だけ、時間の外へ抜け出せる。世界を見渡し、過去と未来を歩き、交易もできる。そのことを思い出すと、胸の中に冷たい計算と、熱い焦りが同時に湧き上がった。


「今すぐ使うのは、まだ早い」


 自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。


 この帝都がどう動いているのか。誰が味方で、誰が敵なのか。それを見極めるまでは、切り札を切るわけにはいかない。


 ラフィーナ――いや、イリニ・ラフィーナ・ドゥーカイナ〈13〉は、指先に伝わる石の鼓動を確かめながら、静かに目を閉じた。


 次にこの石の力を借りるとき、自分がどんな一手を選ぶのかを思い描きながら、彼女は初めての昼の眠りへと身を預けた。

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