雷槍皇女ラフィーナのビザンツ再興記

ひまえび

第一章――「時渡り皇女、帝都に降り立つ」

第1話――「祠の石板、コンスタンチノープルの目覚め」

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🟦『雷槍皇女ラフィーナのビザンツ再興記』第一章脚注・備忘録

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 アウレリア島の祠の中は、外の蒸し暑さが嘘のようにひんやりとしていた。湿った石床から立ちのぼる冷たさが、裸足の裏をじわりと冷やす。梁の隙間から差し込む光が、うすい埃の粒を白く浮かび上がらせ、そのまっすぐな筋が、祠の中央に据えられた黒い石板を照らしていた。


 ラフィーナ〈13歳〉は、息を整えながら石板の前に立った。いつもなら、エルデン地方とソゴル、その奥のドラゴンの森が浮かび上がっているはずの場所に、今日は見慣れない文字がゆらゆらと揺れている。


 「……コンスタンチノープル……? しかも、1067年?今は確か1157年の3月だよね。90年も前なのか?」


 ソゴルの位置に、異国の名前と年号が、細い光の線で刻まれていた。黒い板の表面は、ガラスのようにつるりとしているのに、目を凝らすと、そこだけ水面みたいにかすかに波打っている。近づくと、石の冷気とは別の、静かなざわめきのような魔力の気配が指先にまとわりついた。


「ドラゴンの森じゃない……誰か、いたずらでもしたの?」


 呟きながら、ラフィーナはそっと手を伸ばした。湿った祠の空気に、自分の掌の熱がふっと溶けていく。指先が「コンスタンチノープル」の文字の上に重なった瞬間、板の表面がふにゃりと沈んだ。冷たい水に指を押し込んだときのような、ぬるりとした抵抗が皮膚に巻きつく。


 「えっ……」


 引き抜こうとしたときには、すでに遅かった。


 足もとの石床が、音もなく抜けたように軽くなる。胸の奥がふっと浮き、鼓動が一拍遅れて追いかけてきた。祠の湿った匂い、カカオの甘酸っぱさ、海から流れ込んでいた塩気が、一度に遠ざかっていく。耳の奥で、海鳴りと鳥の声が細くほどけ、代わりに、聞いたことのない鐘の響きが、遠くでぼんやりと鳴り始めた。


 視界は真っ暗にはならなかった。ただ、色と輪郭がぐしゃりと混ざり合い、光と影が渦を巻いて、ラフィーナの身体のまわりを回転させる。上と下の感覚がなくなり、どちらに倒れているのかも分からない。胃のあたりがくるりと裏返り、口の中に、鉄分の少し混じった苦い唾の味が広がった。


 その渦の中で、何かが身体を包み替えていく感触があった。


 海風に晒されたリネンのシャツではない、重たい布が肩にのしかかる。柔らかい毛布のようなものが背中を撫で、腰のあたりで金属の冷たい輪が、きゅっと肌に触れた。胸元のガーディアン・コアが、一瞬だけ熱を帯び、すぐに静かな鼓動へと落ち着いていく。耳たぶの内側には、細い金属の棒が縮こまり、ひんやりとした重みを戻していた。


 やがて、渦の速度がゆっくりと落ちた。


 代わりに、どこか遠くから人の声が押し寄せてくる。言葉は聞き慣れないのに、祈りと命令と雑談がごちゃ混ぜになったような、低いざわめきだ。子どもの甲高い笑い声、男たちの怒鳴り声、金属がこすれ合う耳障りな響きが、厚い壁を隔てて微かに届いている。


 背中の下に、柔らかいものがあった。


 ラフィーナは、ゆっくりと目を開けた。


 まず目に入ってきたのは、天井だった。粗い木の梁ではない。なめらかな白い漆喰の天井一面に、青と金の絵が描かれている。円形の枠の中に、翼を広げた天使たちと、王冠を戴いた男女が並び、その周りを葡萄の蔓や小さな花が、永遠に続く帯みたいに埋め尽くしていた。金箔が光を受けて、細かい魚の鱗のようにきらめく。


 鼻をくすぐったのは、香の匂いだった。


 海の塩気でも、焚き火の煙でもない。甘くて、少し苦く、喉の奥で細く残る。乾いた木と、蜂蜜と、樹脂を混ぜたような香りが、空気の隅々に染み込んでいる。そこに、灯された油ランプの焦げる匂いと、人の体温が混じって、ふわりと重たい空気を作っていた。


 頬には、冷たい布の感触があった。横を向くと、白い麻の枕カバーがすぐそこにある。糸が細かく詰まっていて、アウレリア島の粗いリネンとは違う、しっとりした滑らかさが皮膚につきまとった。頭の下の枕はふかふかで、羽毛が詰まっているのか、少し動くだけで中身がさわさわと音を立てる。


 身体にかけられているのは、厚手の布団だった。赤と紺と金の糸で幾何学模様が刺繍され、ところどころに小さな十字や葡萄の房があしらわれている。重みがあるのに、内側はほんのりと温かく、さっきまで祠で感じていた石の冷えとは別のぬくもりが、胸から足先までを包んでいた。指先で縁をつまむと、絹のようなつるりとした感触と、下に隠れた綿の柔らかさが、一緒に指にまとわりつく。


 ラフィーナは、上体を少し起こした。


 自分の着ているものが変わっている。


 粗織りのチュニックではなく、薄い麻と絹を重ねた長い寝間着だ。襟元には細かい刺繍が走り、袖口には金糸で縁取りがしてある。胸元にはいつものガーディアン・コアが、まるで最初からそこにあった宝石のように収まっていた。石の冷たさが、布越しにもはっきりと伝わってくる。


 足元に視線を落とすと、床は磨かれた石だった。灰色と白の大理石が市松模様に組み合わされ、光を受けてうっすらと艶を返している。裸足をそっと降ろすと、ひんやりとした温度がふくらはぎまで駆け上がった。靴も草履もない感触が、今ここが自分の家ではないことを、いやでも教えてくる。


 部屋の壁は厚く、その一面には大きな布が掛けられていた。深い青の布に、黄金の糸で都市の図が刺繍されている。高くそびえる城壁、湾に並ぶ船の列、尖った屋根の教会。青い布から立ちのぼるのは、布地の乾いた匂いと、長く飾られてきた埃の気配だ。


 右側の壁には、背の高い木製の扉があった。扉の隙間の向こうから、人の話し声がくぐもって聞こえる。耳を澄ますと、ラフィーナの知らない言葉が混じり合い、リズムだけがこちらへ届いてくる。「キュリオス」「バシレウス」といった音の塊が、ときどき、はっきりと耳を打った。


 窓の方からは、別の音がした。


 鳥の鳴き声。アウレリア島の森の鳥とは違う、高くてよく通る泣き声だ。遠くで波が砕ける音、たくさんの人が一度に歩く足音、荷馬車の軋む音。どこかで金属が叩かれるカン、と澄んだ響きも混じっている。


 ラフィーナは、窓の方へと視線を向けた。


 窓枠は厚い石で縁どられ、その内側に木製の格子がはまっている。隙間から差し込む光は、祠の天井から落ちていた光よりもはるかに明るく、白く、乾いていた。風が入り込み、絹のカーテンをふわりと持ち上げる。その風は、潮とタールと人と獣の匂いを一度に運んでくる。港の匂いだ、とラフィーナは直感した。


 「……ここは……」


 自分の声が、思ったよりも小さく、柔らかく部屋の中に溶けた。厚い壁に反射して、かすかな響きだけが戻ってくる。喉の奥には、さっきまで嗅いでいた香と油の匂いが張りついていて、息を吸うたびに微かに甘く苦い味がした。


 ラフィーナは、無意識に耳たぶに指をやった。そこにはいつも通り、ひんやりとした金属の棒が巻き付いている。指先で軽く弾くと、かすかな震えが耳から首筋へ伝わり、身体の内側に「まだここにいる」と知らせてきた。


 祠の冷たい石、ドラゴンの森の焦げた匂い、アウレリア島の湿った風。さっきまで当たり前だったそれらは、今は遠い夢みたいにぼやけている。代わりに、香と油と海と人の匂いが、この部屋の空気を満たしていた。


 ラフィーナは、胸元の石にそっと手を当てた。ガーディアン・コアの脈動は落ち着いているが、その奥で、何かが静かに方向を指し示している気がした。


 「……コンスタンチノープル、なの?」


 呟いたその言葉は、誰にも届かないまま、絹の天蓋と金の天使たちの下で、小さくほどけていった。

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