第2話 通知
わたし、白石美羽は、半年前に高校生になったばかりの一年生だ。
クラスではいつも笑顔で、誰にでも声をかける。困っている子がいれば自然に手を差し伸べるし、先生からも「頼りになる」と言われる。そういう自分を、みんなは「人気者」と呼んでくれる。
――でも、それは表の顔。
放課後の教室や、誰もいない屋上、そしてトイレの中。そこではわたしは、ただの無力な学生でだ。
神崎紅葉。クラスで一匹オオカミと呼ばれる彼女が、わたしを支配している。
それは、辛くて苦しいことだったけど、誰にも言うことが出来ず、気付かれることすら許されなかった。
何故なら、紅葉はクラスメイトたちが必死に隠していることを使って、わたしのことを脅していたからだ。
もし、それらが全て表に解き放たれてしまうと、きっとみんなが疑心暗鬼になり、このクラスは崩壊する。
それがわかっているから、わたしはずっと耐えることしか出来なかった。
「美羽、どうしたの?」
振り返ると、篠宮恵が心配そうに覗き込んでいた。
彼女はわたしの親友で、いつも隣にいてくれる。強くて明るい親友だけど、――だからこそ、言えない。
わたしが紅葉に支配されていることも、放課後のトイレで水を浴びせられていることも。
もし打ち明ければ、紅葉はすぐに恵の秘密を暴く。彼女が必死に隠している家庭の事情を、クラス中に広めてしまう。
「ううん、なんでもないよ」
わたしは笑顔を作り、恵の肩を軽く叩いた。
その笑顔が偽物だと、彼女は気づいているかもしれない。けれど、問い詰めることはしない。
恵はただ、少し寂しそうに笑って「そっか」と答えた。
胸が痛む。
わたしは正義感が強いとみんなに言われるけれど、本当はただの臆病者だ。
友達を守るために、黙って耐えるしかできない臆病者。
その沈黙が、わたしを少しずつ壊していく。
――――――――――――――――――――――――
「美羽、おはよー!」
「おはよう、美羽」
「うん、みんな今日も元気だね」
教室に入ると、いつものように声が飛んでくる。わたしは笑顔で返し、机に鞄を置いた。
誰にでも声をかけ、誰にでも優しくする。それが「白石美羽」という役割。
今までもずっとやって来たことだったけど、今はそれから外れることが許されない。
だって……。
「あ、神崎さん。おはよう」
「……」
紅葉は返事をしない。窓際の席に座ったまま、視線を外へ向けている。
けれど、その瞳は一瞬だけこちらに向けられ、わたしの心臓を冷たく締めつけた。
「あ。美羽。宿題を教えてくれない?」
「え? また? 教えてあげるけど、本当は自分でやらないと駄目だよ」
「ははは……ごめんって」
そんなことを考えていると、友達がわたしに宿題を教えてもらおうとして、ノートを持ちながらやって来た。
わたしは笑顔を崩さずにノートを開き、丁寧に説明する。
「ここは公式を使えば簡単に解けるよ。……ほら、こうやって」
「さすが美羽! 本当に助かる!」
「ほんと、次は無いよ」
「二人ともな」
「「え?」」
背後から声がして、わたしたちは同時に振り返った。
「せ、先生……」
「はぁ、椎名はもっとまじめに宿題をしろ。白石は、友人を助けるのもいいが、たまには自分の力で解かしてやれ」
「は、はい」
「じゃ、朝礼を始めるぞ」
みんなが立ち上がり、担任の声に合わせて朝礼が始まった。
これが、いつも通り、何の変哲もない一日の始まり。
「美羽、災難だったね」
「まぁ、わたしが悪いから仕方がないよ」
「ほら、美羽はそうやってすぐ自分を責めるんだから」
篠宮恵が少し眉をひそめて、わたしの肩を軽く叩いた。
「自責は美徳じゃないよ。美羽もちょっとは自分のことを優先したらいいのに」
「ははは……でも、苦しいわけじゃないよ。だって、みんなが笑顔でいてくれるなら、それで十分なんだからさ」
「はぁ、美羽は中学の時からずっとそう。ま、それが美羽のいいところなんだけどさ」
ほんとに、これはわたしの本心なんだ。
だって、友達が笑顔だったら、自分も笑顔になることが出来るでしょ。
だから、わたしがずっといじめに耐えていることは、わたし自身が望んだことなんだ。
「そこ、朝礼中に離さないように」
「は、はい」
そうして、朝礼は滞りも無く進んでいった。
今日の授業やここ最近の治安など、先生が注意事項を話していく。
生徒たちは半分眠そうに聞き流し、誰かが小さく欠伸をした。
わたしも同じように頷きながら、心の奥では別のことを考えている。
――放課後、また呼び出されるのだろうか。
そんな予感が胸の奥で重く沈んでいく。
「これで朝礼を終わるぞ。……あ、ついでに一つ。宿題は自分の力でするようにな」
先生の言葉に、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れた。
そうして、友達が机を集まって雑談を始める。
昨日のテレビの話、部活の愚痴、週末の予定――どれも他愛もない話題。
わたしも笑顔で相槌を打ち、自然に輪の中へ入っていく。
「ねえ、美羽。週末って空いてる? 一緒に映画でも行かない?」
「え、映画? いいね。何見るの?」
「ホラー! 絶対面白いって!」
「えぇ……わたし、怖いの苦手なんだけど」
「大丈夫だって。……多分ね」
「多分って、全然安心できないんだけど!」
わたしが苦笑すると、みんながどっと笑い声を上げた。
「じゃあ、美羽のためにコメディにする?」
「それなら安心して見られるね」
「でも結局、ホラーの方が盛り上がるんだよなぁ」
表では、わたしは今までと何一つ変わっていない。いつも通り、友達と他愛もない話をして、いとも通り、みんなと笑う。
「そういえば、美羽って最近何かハマってるものある?」
「え? うーん……特にはないかな。強いて言えば、甘いもの?」
「やっぱり! この前購買でシュークリーム買ってたでしょ」
「見られてたんだ……恥ずかしいなぁ」
また笑い声が広がる。
わたしは笑顔で返しながら、机の上に広がるノートを閉じた。
――こうして過ごす時間は、何よりも大切な日常。
けれど、ふと視線を横にずらすと、窓際の紅葉が目に入る。
彼女は頬杖をつき、外を眺めている。
その横顔は無表情なのに、わたしには冷たい視線が重なって見えた。
胸の奥が冷たく沈んでいく。
チャイムが鳴れば、次は一時間目。
でも、わたしにとっては放課後の予感の方がずっと重くのしかかっていた。
「美羽、次の授業の教室に行こうよ」
恵の声に我に返り、わたしは笑顔で頷いた。
しかし、その瞬間――ポケットに入れていたスマホが僅かに振動した。
「あ、ごめん。先に行っといて」
恵にそう告げて、わたしは机の影でスマホを取り出した。
画面には、短い通知が一つだけ浮かんでいる。
――昼休み。わかってるよね?
神崎紅葉からの短いその一文だけで、心臓が強く跳ねた。
指先が震え、スマホを握る手に力が入る。
「……うん」
誰にも聞こえない声で呟き、わたしは画面を閉じた。
周囲ではまだ友達の笑い声が響いている。
恵が廊下の方へ歩いていく背中を見ながら、わたしは深く息を吐いた。
――逃げられない。
それはもう、わたしの日常の一部になってしまっている。
笑顔を貼りつけたまま立ち上がり、机の上のノートを抱えて教室を出る。
チャイムが鳴り、一時間目の授業が始まろうとしていた。
でも、わたしの心はすでに昼休みへと縛られていた。
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