第3話 弁当
「美羽、一緒に弁当を食べようよ」
いくつかの授業が終わり、昼休みが始まった時、恵が笑顔で声をかけてきた。確かに、中学の時からずっと恵と一緒に弁当を食べている。
でも、今日は……。
「ごめん! 今日はちょっと予定があって」
わたしがそう言うと、恵は一瞬だけ目を丸くした。
「え……そうなんだ。珍しいね」
すぐに笑顔を作ったけれど、その声には少しだけ寂しさが混じっていた。
「うん、ほんとにごめん。明日は一緒に食べよう」
「……わかった。じゃあ、明日屋上でね」
恵は軽く手を振って、他の友達と一緒に教室を出ていった。
残されたわたしは、机の上に置いた弁当箱を見つめる。
――本当は一緒に食べたかった。
でも、ポケットの中のスマホが、わたしを別の場所へと縛りつけている。
昼休み。
紅葉が呼んでいる。
わたしは深く息を吐き、笑顔を貼りつけたまま立ち上がった。
教室のざわめきの中で、ただ一人、違う方向へ歩き出す。
辿り着いたのは、校舎裏の日が届かない薄暗い場所だった。
ここは、わたしたち以外誰も来ることは無く、ここで何かをしても、きっとバレることは無いだろう。
「あ、やっときた。逃げちゃったかと思ったよ」
そこには、神崎紅葉とその取り巻きの二人がいた。
紅葉は壁にもたれ、腕を組んでわたしを見下ろすように笑っている。昼の光が届かない校舎裏は、まるで彼女たちのために用意された舞台のようだった。
「……そんなこと、しないよ」
わたしは笑顔を貼りつけたまま答える。
だって、そうでもしないと、酷いことになることがわかりきっていたから。
「だよね、優しい優しい美羽なんだから、そんなことをしないよね」
紅葉はそうして、わたしのほうへ一歩、また一歩近づいてくる。
その足音が、薄暗い校舎裏に重く響いた。
「ねぇ、美羽。弁当は持ってきた」
「う、うん」
「出して」
「え?」
「出して」
目的がわからない。でも、紅葉の瞳は冗談ではないことを告げていた。
わたしは震える手で鞄を開き、弁当箱を取り出す。
「……ほら」
差し出すと、紅葉はゆっくりと受け取った。
「ははっ、やっぱり美羽は素直だね」
紅葉は弁当箱の蓋を開け、中身を覗き込む。
取り巻きの二人が覗き込みながら、わざとらしく笑った。
「へぇ、可愛いお弁当。お母さんが作ったの?」
「……うん」
「あっそ」
その声は、氷のように冷たかった。
次の瞬間、紅葉の手がわずかに動き、彩りが床に散った。白いご飯が視界の端で崩れ、卵焼きの黄色が暗い地面に沈む。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
でも、声は出せない。
ここで何かを言えば、もっと酷いことになるとわかっていたから。
「あれ? 何も言わないの? 愛しいお母さまが作った弁当を捨てられても、ただ黙っているだけで怒らないなんて、美羽は酷い子だね」
紅葉の言葉に、取り巻きの二人が声を合わせて笑った。
その笑い声は、校舎裏の薄暗い空気に響き渡り、わたしの胸をさらに締めつける。
「この場面を美羽の両親に見せたらどうなるのかな? わたしたちの大切な娘をいじめるなって言うのか。……それとも、何も言うことが出来ない美羽に失望するのか」
「なんで……こんなことをするの?」
わたしの声は震えていた。
紅葉は一瞬だけ目を細め、口元に冷たい笑みを浮かべる。
「なんで? 理由なんているかな? 私はただ、いじめたいからいじめてるだけ。……理由なんて、何一つないよ」
紅葉の声は氷のように冷たく、わたしの胸に突き刺さった。
取り巻きの二人がまた笑い声を上げる。その音は、校舎裏の薄暗い空気をさらに重くする。
――理由がない。
だからこそ、逃げ場もない。
わたしが何をしても、何を言っても、紅葉の気まぐれに踏みにじられるだけ。
「ねぇ、美羽。そんな顔しないでよ。笑ってみせて?」
紅葉はわざと優しい声で囁き、わたしの顎に指をかけて顔を上げさせる。
その瞳は、光を拒むように暗く沈んでいた。
「私は美羽のこと、個人としては嫌いじゃないんだ。だから、言うことを聞いてくれるよね」
わたしの心情は、笑うどころじゃなくて、胸の奥で何かが静かに軋んでいて、母の弁当を踏みにじられた痛みと、紅葉の冷たい瞳に射抜かれる恐怖が重なり、呼吸が浅くなる。
(笑わなきゃ。そうしないと、もっと酷いことになる)
無理やり口角を上げると、紅葉は満足そうに目を細めた。
「そうそう、美羽はそうやって笑っていればいいんだよ。可愛い顔が台無しになるからね」
取り巻きの二人がまた笑い声を上げる。
その音が、校舎裏の薄暗い空気をさらに重くしていく。
「じゃ、食べていいよ」
「え?」
「だから、食べていいよって言ってるんだよ」
食べて、いい……? それは、何のことを言っているんだろうか。
意味がわからなかった。けれど、紅葉の視線が示す先を見て、胸の奥が冷たくなる。
床に散った彩り――白い粒と黄色の欠片が、暗い地面に沈んでいた。
「別に食べなくてもいいよ。その時は、どうなるかわかっているよね?」
紅葉の声は甘く響くのに、耳に刺さるような冷たさを含んでいた。
取り巻きの二人が期待するようにこちらを見て、わざとらしく笑う。
「ああ、それに、食べないと愛しいお母さまが悲しむよ。せっかく、お母さまが弁当を作ってくれるほど幸せな家庭に生まれたんだから、無駄にしたら可哀想でしょ?」
もう、わたしには選択肢が残されていなかった。
「あははっ、マジ?」
「めっちゃ受けるんですけど!」
指先が震え、視線が床に落ちる。
冷たい感触が舌に触れた瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
味なんて、もうわからない。ただ、温かさが消えていく感覚だけが残った。
「うわ、本当に食べた! やばっ!」
「ねぇ紅葉、これ最高じゃん!」
取り巻きの二人が声を上げ、笑いながらわたしを指差す。
「ごめんね、本当はこんなことしたくないんだけど、仕方が無かったんだ。それに、別に逃げていいんだよ。美羽が幸せで温かい家から出てこなければ、こんな仕打ち受けないんだから」
確かに、そうかもしれない。
わたしが家から出なければ、紅葉たちに会うことが無いし、こうやっていじめられることは無くなる。
でも、そうしてしまうと、両親や恵、友達たちを不安にさせてしまう。
わたしが笑って「大丈夫だよ」と言えなくなったら、きっとみんな心配する。
その顔を思い浮かべるだけで、胸の奥が痛んだ。
「……逃げないよ」
震える声でそう答えると、紅葉から表情が消える。
「あっそ」
紅葉の声は淡々としていて、さっきまでの嘲笑すら消えていた。
その無表情が、逆にわたしの心を強く締めつける。
取り巻きの二人も一瞬だけ黙り込み、紅葉の顔色をうかがうように視線を交わす。
校舎裏の空気が、さらに重く沈んでいく。
「なら、こうしても文句は言わないよね」
次の瞬間、世界が揺れた。
体の奥に重い感覚が走り、息が詰まる。
視界が一瞬、白く弾けたように感じた。
「……っ」
声を出そうとしても、喉が固く閉ざされていた。
紅葉は無表情のまま、わたしを見下ろしている。
「ねぇ、美羽。まだ笑える?」
その言葉は、刃物より鋭く胸に突き刺さる。
わたしは必死に口角を上げようとするけれど、顔が引きつってしまう。
「美羽が笑うまで、続けるから。覚悟してね」
紅葉の言葉が、冷たい刃のように空気を裂いた。
わたしは必死に笑顔を作ろうとするけれど、顔が引きつるだけで、紅葉の目はそれを見逃さない。
「……やっぱり、簡単には笑えないんだね」
そうして、紅葉はわたしのことを優しく包み込む。
「ごめんね。こんなこと、本当はしたくないんだよ」
その声は、柔らかいのにどこか空虚だった。
わたしは何も言えず、ただ視線を落とす。
床に散った彩りが、暗い影の中で静かに沈んでいる。
「だから、さっさと壊れてよ」
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