第4話 尻象の探究はじまる

文政十五年、六月も下旬。

江戸城では、朝昼晩と同じくらいの頻度で、

「昨夜はどれくらい揺れた」「いや、あれは尻のせいではない」といった会話が飛び交うようになっていた。

もはや気象ではない。

完全に“尻象”である。

台所では味噌汁より早く噂が立ちのぼり、

廊下では足音より先に「地震」「尻」という言葉が走る。

「大奥の方角だけ、障子が鳴っておったらしいぞ」「あれはもう“尻門”と言ってよいのでは」「江戸城にそんな方角はない」

誰も確かなことはわからない。

ただ——殿がお美代の尻を撫でていた刻限から、

大奥と御殿の一部だけが、あり得ぬ揺れに襲われたことだけは、

城中のほぼ全員が身をもって知ることになっていた。



その日の午前。

御座の間には、林忠英の作った地震計と、

尻震の記録をまとめた帳面が、うず高く積まれていた。

「よし、そろそろ尻震をきちんと定めねばならぬ」

いつになく真面目な顔をしている——尻の話に限っては——将軍、徳川家斉。

向かいには若年寄・林忠英、脇には小納戸頭取・美濃部茂育、

少し離れたところに御側御用取次・水野忠篤が、

それぞれ別の帳面を抱えて控えている。

「この数日の尻震を見よ、林」

家斉は、尻震帳を気持ちよさそうにめくりながら言った。

「お美代の尻のときは“どすん”と一息に来る。

 某年配の方の尻では、“ぷるぷる”と小刻みに来る。

 昨夜にいたっては——」

林が渋々引き取った。

「昨夜は、まず亥刻に御座の間で小さく揺れ、

 さらに一刻ほどたった子刻に、

 なぜか奥の廊下だけ“ぐわん”と揺れております」

美濃部が、すっと別の帳面を開く。

「その亥刻の揺れのとき、殿はお美代様とご同座。

 子刻の揺れのときは、殿はすでにお休みで、

 どの尻にも触れておられませぬな」

家斉は腕を組んだ。

「つまりこういうことか。

 揺れる尻の中には、“あとから揺れる尻”がある。」

林が、真面目な顔のまま補足する。

「触れたときに揺れず、

 のちのち、城の別のところで揺れが出る尻……

 いわば“遅れて届く尻震”」

「……遅震(ちしん)じゃな」

殿がすぐに名前を付けた。

「いや、そこまで尻に寄せなくとも……」

林は頭を抱えたが、家斉の筆はもう走り出している。

《尻震の定め

 一、触れた途端にどかんと揺れる尻を“本震尻”とす

 二、触れんとする前に、先に小刻みに揺れの前ぶれを出す尻を“前震尻”とす

 三、触れたのち、しばらくしてから廊下や別の間を揺らす尻を“余震尻”とす

 四、前震・本震・余震、そろい踏みする尻を“乱れ尻”とす 》

林は、書かれたものを見て顔色を変えた。

「殿、“乱れ尻”という呼び名はいかがなものかと……」

「なに、尻が乱れておるのではない、揺れが乱れておるのじゃ」

「どちらにせよ、記録に残すには……」

家斉は楽しげな表情を真剣な面持ちに変え、答えた。

「真実を詳らかに残すことで、後の世の尻道が発展する。これは今の世に生きるものの義務じゃ。」

真面目に考えるとそうだな、とか期待した自分が愚かであった。あと、そんな義務は尻の穴に突っ込んだまま出さないでほしい、と林は頭が痛くなった。

美濃部は、そんな二人のやり取りを静かに眺めながら、

自分の帳面にさらさらと別のことを書き付けていた。

《本震尻:景気よし

 前震尻:商いの前ぶれ多し

 余震尻:後からじわじわ効き目あり

 ——金の流れとの因果、要観察》

「美濃部、何を書いておる」

「いえ、尻震と金の出入りとの“つながり”でございます」

「ほう?」

家斉の目がきらりと輝いた。

「お美代の尻のときは一度でどかんと揺れ、

 その翌日には実家からどかんと献金が来る。

 ある方の尻は、揺れは小さいが、

 なぜか数日のうちに祝い事が続く……」

水野が、口の端だけで笑った。

「つまり、尻の揺れ方で“福の届き方”も違うと」

「さようにございます」

美濃部は静かに頷く。

「本震尻は一撃で大きな福。

余震尻は、後から噛み締めるように効いて参る。

前震尻は、買い時・売り時を知らせる尻……かもしれませぬ」

「よいぞ、美濃部!

 尻は天下の鏡、福の信もまた尻にあり!」

林は、本当に心配そうな顔をした。

(……この調子で行くと、

いずれ“尻で相場を読む将軍”などと呼ばれるのではないか……)



その日のうちに、

御座の間の畳には一枚の大きな紙が広げられた。

中心には、大きく丸が描かれている。

その周りに、“尻”“尻”“尻”“尻”……と、

やたら「尻」の字が並ぶ。

誰の尻であるかも書いてある。

よく見ると、尻と揺れの対応がよくわかるよう、

異変を整理するための肝要な点がきちんとまとめられている。

——のだが、なによりまず尻の形ばかり目に入ってしまう、

たいへんうるさい表である。

「これが“尻震度表”じゃ!」

家斉は胸を張った。

「尻を形で分け、揺れ方で分け、

さらに前震・本震・余震の有無で分ける。

これで、どの尻がどのような揺れとなるのかの疑問が……

一瞬で解ケツよ!」

「殿、“解決”のケツを改めて強調なさるのはやめていただきたい……」

林は呟きつつも、

その表の有用性を無視できない自分を自覚していた。

「たとえば、この“太鼓型尻”。

 叩けば“ドン”と鳴るような形じゃが——」

家斉が指差す。

「揺れもまた、短く太い“ドン揺れ”である。

 前震少なく、本震一発、余震わずか。

 合戦前の鬨の声のような揺れじゃな」

「武家向きですな」

美濃部が、帳面に小さく書き込む。

「この“瓢箪型尻”は、どうでございましょう」

水野が、別の丸を指さした。

「ほっそり締まりつつ、要所がふくらんでおる。

 揺れもまた、最初は小揺れで、

 後から“ぐわんぐわん”と長く効く」

「商家に良さそうですな。

 最初は小さく、あとから利が膨らむ」

水野は、したたかに笑う。

「では、この“前が張って後ろが控えめな尻”は?」

「それは前震がやたら多い。

 触る前に、なぜか廊下が“こつこつ”揺れる。

 いわば“予告尻”であるな」

「予告尻……」

林は筆を置いて、額を押さえた。

「尻の分類が、だんだん揺れの分類から離れていく気がいたします」

「何を言うか。

 尻こそ、揺れと人心の交わる場よ!揺れの分類だけで終わらず、人の世の営みまで明らかにすることがこの尻学の使命よ。」

家斉の中では、すでに立派な学問になっていた。

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