意地悪

「あなたの肩に毛布をかけてあげることすら出来ないのに」


その一言だけが、湯気みたいに細く揺れて、すぐに静けさへ溶けていった。


彼はキッチンでお湯を落としながら、ちらりと彼女のほうを見る。

決して重く言ったわけじゃない。

でも、その背中の丸まり方で、心の向きがなんとなく伝わってしまう。


マグカップを二つ。

ひとつには彼女の好きなアールグレイ。

もうひとつには彼のホットミルク。

どちらも、こぼれないようにゆっくり手前に置く。


「はい、これ。あったかいうちに」

彼は彼女の手が届く場所へそっと滑らせた。

自分が動くほうがずっと早いし、安全だし、彼女が苦労する場面は作りたくない。


「毛布なくても、これで十分あったまるよ」

そう言う声は、やさしくて、でもどこか控えめで。


彼女は右手でマグを包み込むように持ち上げる。

その仕草を邪魔しないように、彼は少しだけ身を引いた。

ふたりの間に、ほのかなベルガモットの香りが漂う。


「……ありがとう」

ぽつりと落ちた声には、照れと、悔しさと、ちょっとした安心が滲んでいた。


彼は特に励ますようなことは言わない。

ただ、湯気の向こうから目だけを細めて笑う。

その笑い方がいつも彼女を救う。


できないことは、たしかに増えた。

けれど、彼がさりげなく先回りしてくれる日常のひとつひとつが、

“意地悪じゃないやさしさ”として積もっていく。


カップを置いたとき、彼女はふっと息をついた。

ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


「毛布より、これのほうが好きかも」

そう言うと、彼は「でしょ」と息を漏らして笑った。


暖房の静かな音だけが聞こえる夜。

ふたりの間に、ゆっくりとした温度が広がっていく。

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