12話
史帆の死から1か月。
学校は少しずつ通常運転へ戻っていった。
……だが、
昂輝だけは戻らなかった。
授業中はぼんやり。
休み時間は席に座ったまま。
笑うことが少なく、食欲も落ちている。
(俺は……また失った)
その思考の底に、
雅が毎日注ぎ込む「優しい毒」が沈んでいた。
『橘くんは悪くない』
『事故は誰にも止められないよ』
『私はずっとそばにいるから』
『ほら、大丈夫でしょ?』
この“優しい声”が、昂輝の世界のほとんどになりつつあった。
ある放課後。
雅は昇降口で昂輝を待っていた。
「橘くん、今日も一緒に帰ろ?」
「あ……うん」
答える声は弱い。
でも“雅がいたら安心する”という気持ちが、昂輝の足を自然と彼女の方へ向かわせる。
歩きながら、雅が言う。
「最近、寝れてる?」
「……あんまり」
「だよね。夜、また私の部屋来ればいいよ」
軽い口調。
しかし意味は重い。
昂輝は無意識に、雅を頼ってしまう。
「……雅がいないと怖くなるんだ」
「うん。知ってるよ」
雅はそっと微笑んだ。
「だから私はここにいるんだよ」
その笑顔には母性があり、恋があり、狂気があった。
昂輝は気づかない。
(雅は、俺のことを支えてくれる唯一の人だ……)
それが雅の狙いだった。
学校では、二人の距離に違和感を覚える声が増え始めていた。
「橘、最近建部さんとしか話してないよな」
「前はもっとみんなと喋ってたのに……」
「なんか……建部さん、橘を離さない感じじゃない?」
「いや橘の方も、離れたくないっぽいけど……?」
教師も動く。
「橘。カウンセラーに行ってみないか?」
「……大丈夫です」
その横で、雅が静かに微笑む。
「先生、橘くんは私がサポートしています。
家でも一緒なので、安心してください」
柔らかく、論理的で、丁寧。
教師は反論できない。
(家でも一緒?)
と思った教師はいたが、
「孤児院で一緒なんです」
と言われれば、それ以上は踏み込めない。
(……完璧)
(大人なんて、優しい声と“問題ありません”で簡単に黙る)
雅は心の奥で冷たく笑った。
クラスメイトが話しかけても、昂輝は反応が薄かった。
「橘、一緒に帰らね?」
「……悪い。今日はいいや」
「橘、体育の準備忘れてるぞ」
「あ……ごめん」
返事はする。
だが心はここにいない。
その“空白部分”を埋めるのは──雅だけ。
(橘くんが誰と話してもいいよ)
(でも、心の隙間は全部私が埋める)
(それが“私の役目”なんだよ)
雅は計算して言葉を選ぶ。
「橘くん、さ……
史帆ちゃんのこと、思い出したりする?」
「……する」
「そっか。でもね、思い出してもいいけど……苦しむ必要はないよ」
「……苦しむ必要……?」
「うん。だって事故だよ?
橘くんが悪いわけじゃない」
昂輝は唇を噛む。
「でも……俺のそばの人は、いつも……」
雅はその言葉を遮った。
「じゃあ私も死んじゃうの?」
「っ……!」
「橘くんの“そばにいる人は不幸になる”って考えなら、
私はもう死んでるはずだよ」
昂輝は、はっとした。
「……雅は……死なないだろ……」
雅は優しく笑う。
「うん。橘くんのそばにいる限り、絶対に死なないよ」
(絶対に死なないよ──だって、死ぬ気なんてないしね)
(死ぬのは“私のじゃまをする人間”だけ)
その夜。
昂輝は眠れずに、また雅の部屋をノックした。
「雅……起きてる?」
「うん。どうしたの?」
「……一緒に……いてほしい」
雅はすぐに布団を整え、隣に座った。
「大丈夫。怖い夢でも見そうだった?」
「……うん。なんか……ひとりだと、息苦しくて」
雅はその言葉に満足した。
(よく言えたね)
(じゃあ報酬あげないと)
「おいで」
そっと手を伸ばす。
昂輝は子供のころのように、雅の胸元へ額を預けた。
雅はその頭を抱き寄せる。
(これでいい。
これがゴールじゃない。
でもこれは“入り口”)
(橘くんの世界は、私だけでいい)
雅は翌日、学校ですぐに“次の手”を打つ。
昼休み、クラスメイトの女子グループに柔らかく微笑んで言う。
「ねぇ、橘くん……まだ辛そうだから、あまり刺激しないであげてほしいな」
「え、うん……」
「そ、そうだよね……わかった……」
男子にも言う。
「橘くん……人混みにいると苦しくなるらしくて。
そっとしておいてあげてほしいの」
「そ、そっか……悪かったな……」
教師にも言う。
「先生、橘くんは無理をさせると逆効果だから……」
「わ、わかった……気を付けよう」
──こうして、“全員が自然と距離を置く状況”が完成する。
(うん、これでいい)
(橘くんには私がいればそれでいい)
(他はいらない)
ある日。
校舎裏で二人きりになったとき。
「雅……」
「なに?」
「なんか……最近……」
一瞬、言葉を選んだあと──
「お前がいないと……落ち着かないんだ」
雅は胸の奥で歓喜の炎が燃えるのを感じた。
(やっとだ……)
(それが聞きたかった。ずっと)
しかし表情は柔らかなまま。
「嬉しいな。
……私もだよ」
「え?」
「橘くんがいないと……私も落ち着かない」
風が吹いた。
髪が揺れ、二人の間の距離が自然に縮む。
(これが“正しい距離”)
(あなたが苦しいとき、抱きしめる距離)
(あなたが泣くとき、涙が落ちる距離)
(あなたが私を必要とするとき──すぐに触れられる距離)
雅はそっと昂輝の手を握った。
「ねぇ橘くん……」
「……雅……?」
「これからも、私と一緒にいてね」
それは告白ではない。
契約のような言葉だった。
昂輝は──迷わず頷いた。
「……うん。
お前が……必要だよ」
雅は満足した。
(うん……それでいい)
(“史帆ちゃんが奪った”と思っていた場所は……)
(ちゃんと“私のもの”に戻った)
雅は静かに計画を立てていた。
(あと一年……高校を卒業したら)
(橘くんと一緒に暮らす)
(孤児院は18歳で出ることになる)
(そのとき──)
(橘くんはきっと、自分の意思で“私を選ぶ”)
実際には雅が誘導しているだけだ。
だが昂輝は気づかない。
(大丈夫。あなたには未来がある)
(それは“私と生きる未来”)
雅は優しく、しかし絶対に揺るがない声で言った。
「橘くん。
……一緒に生きていこうね」
「……雅……頼む。
俺を……ひとりにしないでくれ」
「ひとりにしないよ」
雅はそっと、昂輝の指を絡めた。
「ずっと、一緒にいるから」
その指の絡まりは、
やがて“結婚指輪の代わり”になり、
未来の“束縛の象徴”になる。
(あなたはもう、私のものだよ)
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