6話

学生証事件から数日。

 史帆はことあるごとに昂輝へ話しかけるようになっていた。


 授業前、ノートを開きながら。


「橘くんってさ、字きれいだよね。私、授業ノートめっちゃ汚いんだけど……」


「そんなことないよ。ほら、見せてみ?」


「え、恥ずかしい!……でも、見て?」


 恥ずかしそうに差し出してくるノートは本当に文字が踊っていて、思わず笑いがこぼれた。


「ダメだこれ。ぜんぜん読めない」


「ひどい! でも、確かに読めないけど!」


 そんな他愛ないやり取りが続く。


 帰りの昇降口。


「橘くんって部活入ってないの?」


「うん。体力はあるけど、時間使いすぎるの嫌でさ」


「わかる……私も帰りたいタイプ」


 気がつけば、二人は朝も昼も放課後も笑い合っていた。


 周囲から見れば、

“仲のいい男女”

という自然な関係だった。


 もちろん雅は、それを知っていた。


雅は距離を保ちながら、二人のやり取りを“丁寧に観察”していた。


 物陰から覗くわけではない。

 廊下を歩けば自然と視界に入るし、クラスにいればすぐ分かる。


(また話してる……)


(今日も、史帆ちゃん……橘くんを笑わせてる)


 その度に胸の奥で、小さな波紋が広がる。


 雅はいつも笑顔だった。

 第三者が見れば何も異常はない。

 ただ静かに友達を見守っているようにしか見えない。


 しかし雅の心の内側は、ほんの少しずつ熱を帯び始めていた。


(……嫌だ、とは思ってない)


(橘くんは優しいから、話しかけられたら返すのは当たり前)


(でも……)


 “でも”の後に続く言葉は、まだはっきり形にならない。

 形にしたら、戻れなくなる気がした。


(……私が知らない笑顔、見せないでよ)


 雅は、その感情を飲み込んだ。


ある日の昼休み。

 史帆が弁当を持って雅の席に来た。


「雅ちゃん、一緒に食べよ!」


「……いいの?」


「もちろん! 橘くんも一緒に食べよーって誘ってきたから、みんなで!」


 雅の胸が一瞬ざわつく。


(……橘くん“も”?)


(史帆ちゃんからじゃなくて……橘くんから……?)


 けれど、そんな気持ちは表に出さない。


「うん。行こっか」


 そして、教室の隅の四人掛けの机に三人が集まった。


 史帆が明るく言う。


「ねえねえ雅ちゃん、橘くんってさ、小さい頃どんな子だったの? やっぱり今と同じ優しい感じ?」


 雅の箸が一瞬止まる。


(私より……橘くんに興味ある?)


(……やだ)


 そんな感情を押し殺し、微笑む。


「うん。ずっと優しいよ。変わらないの」


「へぇ〜いいなぁ幼馴染……!絶対大切にしなきゃだね」


(“大切”にしてるよ。誰よりも)


 心の中で呟いた言葉は、ほんの少し冷たかった。


 昂輝はそんな二人を見て、楽しそうに笑う。


「二人とも仲良くていいな。なんか嬉しいわ」


 その言葉に、史帆は素直に笑い、雅も笑顔を作る。


 しかし雅の胸の奥では、別の感情が増え始めていた。


(……史帆ちゃん、橘くんと話すの好きなんだ)


(話し方が違う……私の時より……楽しそう)


 その違いに、雅は敏感だった。


二学期が始まる前──

 学校では文化祭の準備が動き出した。


 教室に文化祭テーマの紙が貼られ、実行委員が動き、各クラスの話し合いが始まる。


「うちのクラス、ダンス喫茶ってどう?」

「え、制服で踊る系?絶対ウケるじゃん!」

「カップルで踊るのアリにしようよ!」


 その言葉を聞いた瞬間、史帆が首をかしげた。


「カップルで踊るとさ……なんかあるんだっけ?」


 女子の一人が笑いながら答えた。


「知らないの?

 “文化祭で一緒に踊ったカップルは、一生添い遂げられる”っていう噂!」


「えっ、なにそれロマンチック!」


 女子たちはキャアキャアとはしゃぐ。

 男子は照れ笑いしながら「ダセェよ」と言いつつ興味深そうに聞いている。


 雅は──その会話を聞きながら、静かに心の中で反応した。


(一生、添い遂げる……)


(橘くんと、踊ると……一生……)


 その言葉は、甘い毒のように雅の胸の奥へ染み込んだ。


 すると、史帆がぽつりと呟く。


「……いいなぁ、これ」


「え?史帆ちゃん?」


「いつか……誰かと踊るの、ちょっと憧れるかも」


 雅の心に、

 鋭い棘が刺さった。


(誰か……?)


(“誰か”って……誰?)


 史帆の言葉は、ほんのつぶやき程度の軽いものだった。

 それを聞いて昂輝も微笑む。


「文化祭で踊るとか、青春っぽいよな」


「ね!橘くん、誰か誘ったりしないの?」


「え、いや……しないだろ普通……」


「え〜絶対モテるって!」


 史帆の明るい声が、雅の耳に刺さる。


(……なんでそんなに橘くんの話をするの?)


(橘くんと踊りたいの……?)


(……だめ)


(絶対に、だめ)


 雅は気づいていなかった。

 自分の中にある“恋心”など、とうに狂気の色に染まっていることを。


文化祭準備の後、史帆は帰り道で昂輝にこう言った。


「橘くんって……ほんと優しいね」


「いや、普通だよ」


「普通じゃないよ。私、けっこう好きだよ。橘くんみたいな人」


 何気ない一言。

 ただの友達に向けた褒め言葉。


 けれど昇降口の影で聞いてしまった雅は──


(……“好き”)


(今、好きって言った?)


 胸がざわめきではなく、

“警告”

として震え始めるのを感じた。


(この子……橘くんのこと……)


(奪う気なんて……ないよね……?)


 雅は静かに笑う。


 ただし、その笑顔は

もう“普通の女の子”が浮かべる笑顔ではなかった。

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