5話
橘昂輝が「つばさの家」に来てから、もう何年も経っていた。
季節は何度も巡った。
小さかった体は伸び、声は低くなり、手は骨ばって男らしくなった。
孤児院の近くの公立中学を卒業した昂輝は、同じ市内にある県立高校へと進学した。
雅もまた、当然のように同じ高校に入学した。
それは偶然ではない。
雅の中では、最初から「そうなる以外の選択肢は存在しない」ことになっていた。
(だって、私は昂輝くんのそばにいるために生きてるんだから)
彼女の人生設計は、いつだってそれだけで埋め尽くされていた。
高校の校舎は、古いがどこか落ち着いた雰囲気があった。
春風に揺れる桜の花びらが、昇降口から続く階段にひらひらと舞い落ちている。
四月。
一年の頃からの積み重ねがある同級生たちにとって、二年生への進級はそこまで大きな変化ではない。
けれど昂輝にとって、二年の春は少しだけ特別だった。
理由は単純だ。
一年のときよりも、心に余裕が生まれていたからだ。
中学の頃より人と接することが上手くなった。
火事の記憶は今でも夢に出るし、消えることはない。
それでも、「誰かを助けたい」という気持ちを支えに、日々をまっすぐに生きてきた。
今ではクラスでも話しかけやすいタイプの男子として、それなりの立ち位置を築いている。
「なぁ橘、体育の後の水泳、死ぬほど疲れない?」
「わかる。あれのあとに数学は鬼だろ」
そんなくだけた会話を交わせる友達もできた。
そして隣には、いつも雅がいる。
建部雅は、中学の頃からすでに評判は高かった。
成績は常に上位。
容姿も整っていて、背は平均より少し高く、すらりと長い手足。
艶のある黒髪は肩甲骨あたりまで伸び、ゆるく巻かれた前髪が大人びた雰囲気を出している。
何より、笑ったときの表情が柔らかく、周囲を安心させた。
「建部さんってさ、なんか大人っぽいよね」
「でも話すと意外とちょっと天然じゃね?」
「わかる、それも含めて可愛いんだよ」
男子からの評価は言うまでもなく高く、女子からも羨望の目で見られるタイプだった。
だが、その“完璧さ”は努力の結晶だ。
どんなときも姿勢を崩さない。
成績を維持するために、夜遅くまで勉強する。
言葉遣いには気を配り、誰に対しても穏やかな態度を心がける。
(昂輝くんの隣にいても、不自然じゃないように)
(“釣り合わない”なんて言わせないように)
そう心の中で何度も何度も繰り返してきた。
雅にとって、化粧も髪型も服装も、すべては「昂輝の隣に立つための準備」に過ぎない。
周囲から向けられる好意的な視線も、告白の言葉も──
本質的にはどうでもいい。
(全部いらない。
私がほしいのは、たった一人の視線だけ)
始業式の日の朝。
新しいクラスが発表される掲示板の前で、昂輝と雅は一緒に自分たちの名前を探した。
「あ、あった。二年B組だって」
「……私も、B組だよ」
「やった。じゃあ今年も同じクラスだな」
昂輝が嬉しそうに言う。
雅の胸はその言葉ひとつで満たされた。
(“じゃあ今年も”って言ってくれるんだ)
(私が隣にいることを、当たり前みたいに言ってくれる……)
それは雅にとって、何より甘い毒だった。
「席どうなるかなー。去年みたいに近いといいな」
何気なく言った昂輝の一言にも、雅は内心ざわめく。
(近い、じゃなくて、隣がいい)
(できれば一生、隣がいい)
そんな欲望を飲み込んで、雅は柔らかく笑う。
「うん。近かったら、ノート見せてあげるよ」
「マジ?助かるわー。数学とかマジで嫌いだし」
「ふふ、そう言うと思った」
他人から見れば、男女の仲の良いクラスメイト。
もしくは、幼馴染。
このとき、誰が想像できただろうか。
この笑顔の奥に潜んだ感情が、いずれ誰かの命を奪うほどの濃度を持っていることなどと。
二年B組の教室には、すでに何人かの生徒が入っていた。
窓側の席から順に埋まり、それぞれが友達と談笑している。
「席は出席番号順だから……えっと、橘がここで、建部が……その斜め前か」
クラス表を確認した雅が小さく頷く。
(悪くない……ううん、むしろいい)
斜め前という位置は、振り返ればすぐ目が合う距離だ。
話しかける理由はいくらでも作れる。
ノートを貸したり、プリントを渡したり。
自然に隣に行くことだってできる。
(今年も、ちゃんと隣にいられる)
その安堵に胸を撫で下ろした瞬間、
「ねぇねぇ、席隣だね!よろしく!」
明るい声が教室に響いた。
その声の方向を見ると、
教卓近くの席で、女の子が元気に笑っていた。
肩までのふんわりした茶色の髪。
ぱっちりとした目。
華やかではないが、柔らかな雰囲気をまとった“普通に可愛い”女の子。
彼女が──中村史帆だった。
中村史帆は、特別目立つタイプではないが、クラスに一人いると場が和むような空気を持っていた。
笑うと目尻がくしゃっと下がり、少し舌足らずな喋り方をする。
背丈は平均くらいで、スタイルも普通。
けれど、その“普通さ”が、かえって親しみやすさを生み出している。
「私、中村史帆。中学は五中だったんだけど、橘くんは?」
「あ、俺は三中」
「そっか、近いね。あ、呼び方どうしよ?橘くんでいい?」
「うん、橘で大丈夫」
史帆は人懐っこく笑って、机の上に筆箱をポンと置いた。
「あ、えっと……よろしくね」
昂輝は少し照れながら会釈する。
その様子を、雅は少し離れた席から静かに見つめていた。
(あの子……)
胸の奥で、微かなざわつきが生まれる。
まだそれは、嫉妬と呼べるほど鮮明なものではなかった。
ただ、“勘”のようなものが働く。
(この子は……きっと、昂輝くんとよく話すようになる)
(そういうタイプの子だ)
笑顔が自然で、距離を詰めるのが上手そうな子。
人の懐に入り込むのが得意そうな子。
建部雅の直感は鋭い。
自分の居場所を守るために、常に周囲の人間関係を観察してきたからだ。
(なら、最初に押さえておかないと)
雅はゆっくりと席を立つ。
休み時間。
教室のざわめきの中、雅は自然な流れを装って史帆の近くへ歩いていった。
「ねえ、中村さん」
雅が声をかけると、史帆はぱっと顔を上げた。
「ん?あ、建部さんだ。どうしたの?」
「同じクラスだし、これからよろしくね。
さっき、橘くんと楽しそうに話してたから……」
「うん!あ、建部さんも橘くんと知り合い?」
その言葉に、雅の胸がふっと軽くなる。
(“も”……)
(そう、私も“橘くんの知り合い”なんだ)
雅は微笑む。
「うん。小さい頃から一緒に育った、幼馴染みたいなものかな」
「えっ、幼馴染!?いいなぁ〜、なんか漫画みたい!」
史帆は目を輝かせる。
その反応は素直で、悪意がない。
だからこそ、雅の中には二つの感情が同時に生まれた。
一つは──少しだけ嬉しい感覚。
幼馴染という言葉に、特別な響きがあることを知っているから。
もう一つは──
これから先、彼女がどれだけ“昂輝”という名前を口にするのかという、微かな不安。
「あ、よかったら“雅”って呼んで。建部って、なんか堅苦しいし」
「じゃあ、雅ちゃん?私のことも“史帆”って呼び捨てでいいよ」
「ふふ、うん。史帆ちゃん」
表面上は、女の子同士の微笑ましい会話。
けれど、雅の胸の奥では別の計算が静かに回っていた。
(仲良くしておいた方がいい)
(敵に回すより、近くに置いた方が──やりやすい)
雅は、自分の笑顔がほんの少しだけ冷たくなっていることに気づかないふりをした。
史帆と昂輝の「決定的な出会い」は、その日の放課後に訪れた。
昇降口。
帰り支度をしている生徒たちの足音と、靴箱を開ける音が混ざり合う中。
「あれ?」
史帆は床に落ちているカードを見つけた。
拾い上げると、それは学生証だった。
プラスチックのカードの中には、
真面目そうな顔で写る男子生徒の写真と名前。
「……タチバナ、コウキ……」
それが、橘昂輝の学生証だった。
史帆がカードを見つめていると、
昇降口の少し先から走ってくる足音が聞こえる。
「あれ、俺の学生証どこだ……!?」
焦った声。
振り向くと、そこに昂輝がいた。
史帆はカードを掲げて、笑顔で声をかける。
「探してるの、これ?」
カードを渡す瞬間、二人の指先が少しだけ触れた。
「あ、ありがとう!助かった……
これなくしたら、事務室でめっちゃ怒られるところだった」
「だよね。写真も撮り直しだしね」
ふふっと笑う史帆。
昂輝も、釣られるように笑った。
その笑顔を見たとき、史帆の胸が少しだけ高鳴った。
(あ、この人……笑うとけっこうかわいい)
特別イケメンというほどではない。
けれど、優しそうな目と、少し照れたような笑い方に、どこか安心感があった。
「中村さんだっけ。ありがとね」
「うん。橘くん、けっこううっかり?」
「いや、普段はちゃんとしてる……はず。たぶん」
「“たぶん”って言っちゃうあたり怪しいね」
そんな軽口を交わしながら、二人の距離は自然と縮まっていく。
それは──
本当に、ただの些細な出来事だった。
けれど、その些細な出来事が、これからの運命を大きく動かすきっかけになる。
昇降口から見える廊下の陰。
そこに立っている影が一つあった。
建部雅だ。
手には、帰り支度を整えたカバン。
足は止まっている。
目だけが動かず、じっと昇降口の二人を見つめていた。
学生証を渡し、笑い合うふたり。
楽しそうな空気。
自然な距離感。
雅の胸の奥で、何かが微かに軋んだ。
(……あの子)
朝、初めて挨拶を交わした女の子。
自分に対しても人懐っこく笑い、距離を詰めてきた子。
その子が、今。
昂輝と笑い合っている。
胸の奥に、冷たい針のようなものが刺さる。
それはまだ、はっきりとした痛みではない。
ただ、ざらりとした違和感と、不快感を伴う小さな刺傷だった。
(……なんだろう、この感じ)
雅は自分の胸に手を当てた。
(別に……話したくないわけじゃない)
(橘くんは優しいから、誰と話しててもおかしくない)
(わかってる。わかってるけど──)
それでも。
脳裏に、ひとつの言葉が浮かんでしまう。
(邪魔、しないでほしい)
その瞬間、雅の瞳に、ほんの一瞬だけ影が差した。
本人さえ気づかないその影が、
やがて人ひとりの命を飲み込むほど大きくなるとは、
まだ誰も知らない。
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