第4話 下層区、ひらく裂け目

 下層区の朝は、上層より少しだけ遅れて始まる。


 夜勤明けの作業員がだるそうに歩き、安いエネルギードリンクの缶が路地の隅で転がる。排気口から吐き出された温風が、まだ冷えきらない闇と混ざって、薄い霧みたいな膜を街路に貼りつかせていた。


 その膜を押し分けるみたいにして、一軒の診療所の扉が開く。


 朝比奈湊が、出勤前の癖のような足どりで中に入ってきた。


 「おはようございます」


 声は相変わらず小さい。けれど、この狭い診療所には、必要なぶんだけきちんと届く。


 待合の椅子には、夜から座りっぱなしの男がひとり、丸まった背中をしてうつむいていた。顔色は悪い。隣のベッドでは、幼い子どもが点滴スタンドに繋がれたまま、疲れたみたいに眠っている。


 カルテの山に埋もれた女医が、ペンの先だけ動かしたまま言った。


 「……朝比奈くん。今日は何、壊れた?」


 決まり文句だった。


 「壊れてないですよ。たぶん」


 湊は、診療所の空気を一度だけ吸い込むように深呼吸してから、壁際の空いている椅子に腰を下ろした。それだけで、待合のざわめきが、わずかにトーンを落とす。


 誰も彼に話しかけない。

 彼も、誰に話しかけるでもない。


 ただ、そこにひとり分の“余白”が出来る。


 眠っていた子どもが、うっすらと目を開けた。点滴チューブに触れないように、慎重に身体を横向きにして、湊のほうをじっと見る。


 「……おじさん、また来た」


 小さな声だった。


 湊は、少し驚いたように瞬きをして、それから笑った。


 「うん。また来た」


 「病気じゃないのに?」


 「病気じゃないけど、ここ落ち着くから」


 子どもはしばらく考えるような顔をして、それから枕に顔をうずめた。


 「ふーん。ここ、注射のときだけイヤ」


 「それは、そう」


 湊の返事は短かった。その短さが、子どもを安心させる。


 女医はカルテから目を離さずに、ため息をひとつ吐いた。


 「まったく。あんた来ると、みんな声が一段階小さくなるの、どういう体質なのよ」


 「そんなに、うるさかったんですか?」


 「さっきまで、この部屋、戦場みたいだったわよ」


 女医はようやくペンを置いて、湊を見る。その目は、疲れてはいるが、観察する人間の目だった。


 「……ほら」


 彼女が顎で示した先で、夜から座りっぱなしだった男が、ゆっくりと背もたれに身を預ける。強張っていた肩が、少しだけ落ちていた。さっきまで額を押さえていた手も、膝の上にだらりと落ちている。


 「頭痛、マシになりました?」


 女医が声を掛けると、男は驚いたみたいに顔を上げた。


 「あ……はい。なんか、さっきより……」


 「薬はまだ効かない時間よ。だからそれ、たぶんあの子のせい」


 女医はペン先で湊を指した。


 「え、俺?」


 湊は首をかしげた。


 「そう、あんた。ここ来ると、変なふうに空気が落ち着くのよ。患者が勝手に少しラクになる。私は助かるけど」


 男は湊を見た。湊は、困ったように笑う以外に、返し方を知らない。


 「……ありがとうございます」


 男はそれだけ言って、深々と頭を下げた。


 湊は、身を少し引いたように見えた。

 照れとも違う、どこか居心地の悪さが、その動きには混ざっている。


 「そんな、大したことしてないので」


 それは嘘ではなかった。

 湊は、自分がなにか“している”感覚を持ってはいない。


 ただ、この小さな診療所の空気が、彼を中心になめらかに回り始める。


 呼吸のリズム。椅子のきしむ音。子どもの寝息。女医のペンの走る音。

 それぞれが、すこしずつ互いの邪魔をしなくなっていく。


 上層のどこかにある祈声ログ解析室では、そのわずかな変化を、数値として拾う端末があったかもしれない。


 だが、この下層区には、そんなものはひとつもない。


 ここにあるのは、古い時計と、薬品の匂いと、安いLEDの光だけだ。


 「ねぇ、朝比奈くん」


 女医が、カルテを閉じながら言った。


 「前にも言ったけどさ。あんた、そうやって人の荷物持ってくれるわりに、自分の荷物は一個も誰に渡さないよね」


 湊は、少しだけ視線を落とした。


 「そんなことないですよ」


 「あるの。診療所はカウンセリングルームじゃないけど……それでも、見てたら分かるわよ」


 女医は椅子を回して、湊のほうへ身体ごと向き直る。


 「家族は?」


 「いますよ」


 「“いました”じゃなくて?」


 訊き方は乱暴だったが、声には棘がない。


 湊は一瞬だけ答えに詰まり、曖昧な笑いに逃げた。


 「……まぁ、いろいろと」


 「はい出た。“いろいろと”。便利な言葉よね」


 女医は両手を挙げて降参のジェスチャーをして見せた。


 「いいわよ、話したくないなら。それも権利だから」


 沈黙が、少しだけ長く診療所を満たした。


 沈黙は、ここでは珍しくない。

 でも今の沈黙は、さっきまでのものと質が違っていた。


 湊が、胸のあたりに手を当てる。


 どこか遠くで、ひとつ、薄い膜が裂けるような感覚があった。


 痛みではない。

 悲鳴でも、怒号でもない。


 ただ、どこかの誰かが、声にならないままうつむいている気配だけが、微かに滲んでくる。


 湊は、表情を変えなかった。

 変えないようにしているようにも見えた。


 女医は、その仕草を見逃さなかった。


 「……今、なにか来た?」


 「え?」


 「いま、胸んとこ押さえた。痛いとかじゃない顔してたけど」


 湊は、自分の手を見下ろした。


 無意識だった。


 「……なんか、ちょっとだけ、変な感じがして」


 「どんな?」


 「うーん……」


 言葉が出てこない。

 彼は、言葉にする前に誰かの話を優先させてしまう癖があった。


 「……誰かが遠くで泣いてるみたいな。そんな感じです」


 女医は目を細めた。


 「怖くはない?」


「怖くは、ないです」


 「じゃあ、ちゃんと生きてるほうのヤバさね」


 「生きてるほう、ですか」


 「死に引きずられる感じじゃないんでしょ。だったら、たぶん誰かの“今”のほう」


 女医は新品とは言いがたい白衣の袖をまくり直し、カルテの束をまた持ち上げた。


 「……ごめん。こっちも“今”を捌くので手一杯。朝比奈くんのその“変な感じ”までは診れないわ」


 「いえ、そんな。大したことじゃ」


 「大したことじゃない顔をしてる人ほど、あとで突然倒れるのよ」


 女医はぼやきながらも、どこかで安心しているようだった。


 湊は、診療所の光を一度見回した。

 蛍光灯より少しだけ色温度の低いLEDが、壁の黄ばみをやんわりと照らしている。


 ここにいると、誰かが少しラクになる。

 それなら、それでいいと彼は思っていた。


 世界のどこかで、沈黙がまたひとつ、細く裂けていることを知らないまま。


 彼の胸の奥で揺れた、言葉にならないざわめきは、

 聖務庁のシステムに届くことなく消えていった。


 “今”だけは。


   *


 上層百階──祈声ログ解析室。


 ここは、聖務庁の中で最も静かで、最も騒がしい場所だ。

 静か、というのは人間がほとんど喋らないという意味で──

 騒がしい、というのは、壁一面に貼りついた光学グリッドが常に泣き叫んでいるからだ。


 祈り、嘆き、告白、拒絶。

 都市全域で発せられる“音にならない声”が波形として解析室に流れ込み、

 サーバーは一日で人間の数十年分の感情を浴びている。


 そんな混沌の中央に、

 メアリ・ガルブレイスは缶コーヒーを開けもせず机に置いた。


 「……ねぇ、ルクス。これ、何?」


 問いというより、“もう限界”に近い声だった。


 ルクスは手元の端末を叩きながら、眉ひとつ動かさない。


 「現象。以上」


 「説明になってないんだけど!」


 ルクスはやれやれと肩をすくめた。


 「じゃあ言うけどさ。今朝から《浮遊波形》が通常の五百倍」


 「五百倍!?」


 メアリの声が跳ねる。

 解析室では叫んでも誰も気にしない。


 「ねぇ、それって……都市崩壊前の“断層前兆”のとき以来じゃない?」


 「似てるけど、違う」


 ルクスは波形を拡大した。

 乱雑に見える線は、ある一点でまとまっていた。


 “中心”。


 そこだけ波形の密度が異様に高い。


 「これ、誰かの祈声源と同期してる。特定はできてないけど、ログ上の仮識別は──」


 《湊》


 メアリは息をのんだ。


 「……昨日の《分類不能波形》?」


 「そう。なんかね、あれ……動いてる」


 「動く?」


 「波形が、対象本人の感情じゃない“場所”で発火してるの。

  普通の祈声は本人の心理変動と同期するけど……これは接触型じゃなくて“受信型”。」


 メアリは立ち上がった。

 その目は、監査官クロノに提出する報告書の最悪の形を思い出していた。


 「じゃあ……だれかの“祈り”じゃなくて、

  《だれかの痛みを拾ってる》ってこと?」


 「まぁ、雑に言うとそう」


 ルクスはコーヒーを開けて、ため息といっしょに一口飲む。


 「やばいでしょ」


 「やばい。超やばい。笑えない」


 メアリはすぐに端末を叩き、内部回線でクロノを呼び出した。


 ──応答なし。


 「……また遮断されてる。司祭のせい?」


 「多分ね。上層で“白百合再起動”の話が本決まりになりかけてるから、

  司祭あの人、独断で回線切ってるっぽい」


 「もう……!」


 メアリは苛立ちを隠さず、机に軽く拳を落とした。


 「ねぇルクス。

  もし《湊》の波形がほんとに受信型だったら……

  白百合計画の“対流モデル”崩れるよ」


 ルクスはわずかに目を伏せた。


 「崩れる。

  百合香みたいな反応偏位型は、“世界のノイズより速く動く個体”。

  でも《湊》は逆。

  “世界のノイズに引き寄せられる個体”。」


 メアリは唇を噛んだ。


 「……正反対じゃん」


 「そうだよ。

  白百合の“刈り取り”が攻性なら、

  湊の波形は“吸引”。

  祈声ネットワークの“空白”を埋める方向に働いてる」


 「空白……?」


 その単語は解析室の冷たい空気を変えた。


 ルクスは画面をスライドし、都市の祈声マップを表示した。


 上層の高層部は網目が細かく、

 下層区は穴だらけだった。


 その穴のひとつが──

 ゆっくり、確実に収縮している。


 湊がいる診療所の位置だった。


 メアリの全身から血の気が引く。


 「あ……の人、なにしてんの……?」


 「何もしてないと思うよ」


 ルクスは淡々と答えた。


 「ただ“そこにいる”だけで、

  祈声ノイズの欠損部に波形が満ちていく。

  本来なら死者の祈声や断層の残響が埋める領域をね」


 「……それって、

  《都市の沈黙が裂ける》ってことじゃん」


 「そう」


 解析室の照明が、低く唸るように揺れた。


 「そしてそれは、白百合計画にとって致命的。

  “沈黙”があるから刈り取りの方向性が固定されるのに……

  それを勝手に埋められちゃ、計算モデル崩壊」


 「……クロノ、早く聞いて……」


 メアリは空回りする呼び出し回線を見つめた。


 そのとき、解析室の一番奥で警告音が鳴り始めた。


 《祈声ログ:異常集中地点を検知──

  対象:下層区ブロックC‐12

  波形発火率:通常比 1200%》


 「千二百……!?」


 メアリはモニターに駆け寄り、

 波形密度の中心に表示された小さな光点を見つめた。


 《MINATO ASAHINA》


 ルクスはしずかに言った。


 「これ……リリィに通知したほうがいいね」


 メアリは一瞬迷った。


 「でも、まだ確証が……」


 「確証いらないよ。

  “彼の近くで何かが始まった”──

  それだけの事実で十分」


 ルクスの声には確かな熱があった。


 「白百合計画の“沈黙モデル”を壊せるのは、

  あの子しかいないんだから」


 メアリは震えた指で通信コマンドを叩く。


 《白咲百合香──緊急通知。

  対象周辺で祈声波形の急上昇。

  推定危険度、未定。

  視認・接触は不可。

  ただし──》


 通信が跳ね、ノイズが走り、

 最後の一文だけがリリィの端末へ転送された。


 《“あなたの沈黙が揺れる可能性あり”》


 都市の底を吹き抜ける風は、いつも鉄の匂いがした。

 下層区ブロックC──夜の路地は、明かりより影のほうが多い。


 リリィは、屋上の縁に膝をついたまま周囲の気流を読んでいた。

 風向き、微細な振動、遠くの金属音。

 それらはすべて“殺意の反射音”を拾うための材料だ。


 ターゲットはまだ見えない。

 しかし、この区画には何かが“起きている”。


 ネメシスの安全装置を静かに外したとき──

 通信端末が、かすかな電子音を鳴らした。


 《白咲百合香──緊急通知。

  対象周辺で祈声波形の急上昇。

  推定危険度、未定。

  視認・接触は不可。

  ただし──》


 ノイズが一瞬挟まり、

 最後の一文だけが鮮明に響く。


 《“あなたの沈黙が揺れる可能性あり”》


  *


 風が止まった。


 世界の音が、ひと呼吸だけ遅れて戻ってくる。


 リリィは目を細めた。


 「……沈黙、が……?」


 自分の内部に“揺れ”という言葉を結びつけるのは正しくなかった。

 リリィの中には沈黙しかない。

 罪悪感も後悔も、祈りも憎悪も、

 誰かの声も──

 “揺れるほどの重さ”はもう残っていない。


沈黙は、ただあるだけだ。

 硬い金属板のように。


 だが。


 胸の奥で、

 ほんの一瞬だけ、

 金属が指先で軽く叩かれたような感覚があった。


 ……チリ。


 音でもない。

 振動でもない。

 ただ、“存在”だけが薄く触れた。


 リリィは、瞬間的に立ち上がった。


 「……誰?」


 返答はない。

 もちろん、《湊》ではない。

 男の顔も知らない。声すら聞いたことがない。


 ただ一つ分かるのは──

 その揺れは“殺意”でも“罪”でもなかった。


 誰かが泣いていた。


 リリィは、そう錯覚した。


 次の瞬間、

 路地の奥で金属が跳ねるような衝撃音が走った。


 「ターゲット接近、か……」


 無意識にネメシスを構えた瞬間、

 視界の端で、祈声ノイズが弾けた。


 高密度。

 血の匂いに似た緊張。

 しかし、その奥に──

 また、微かな“ざわめき”。


 湊の波形はどこにいる?

 なぜ触れる?


 頭が整理をする前に、身体が最適解を選んだ。


 リリィは屋上から落ちた。

 足場を踏む音すらない。

 影が路地へ吸い込まれるように滑り落ちる。


 着地と同時に、空気が切り裂かれた。


 ──銃声。


 銃弾が壁をうがつ。粉塵が舞う。

 だがリリィはもうそこにいない。


 身体が勝手に動く。

 反応偏位。

 意識より先に足が選び、腕が選び、

 死角へと流れ込む。


 ターゲットは一人。

 乱れた呼吸。上擦った足音。

 脈拍の速度が、祈声ノイズに混ざって聞こえる。


 《白百合──来るな! 来るな!》


 リリィは動きを止めず、視線だけで把握した。

 タンクトップ姿の男。

 筋肉はあるが動きが雑。

 薬物反応、軽度。


 絶望の波形は、ロウとは違う鋭さで、

 “自分自身を罰したい人間”特有の割れ方をしている。


 男が再び撃つ。

 火花だけがリリィの頬をかすめた。


 「も、もう誰も殺したくねぇんだ……!

  だからおまえらが来る前に……終わらせたかったのに……!」


 言葉の端々に“罪の祈り”が混ざる。

 祈声聴取では、それは“青白いノイズ”として視えた。


 ──苦しい。

 ──終わらせたい。

──でも死にたくない。


 その矛盾が波形の中でひび割れる。


 だがその奥に、

 リリィは微かに別の音を感じていた。


 ……チリ。


 まただ。


 湊の波形に似た“揺れ”。

 殺意でも罪悪感でもない、

 《他人の痛みを拾う》方向の振動。


 ターゲットが動くより早く、

 リリィの足が闇を裂く。


 肩口を撃たれる寸前、

 彼女の体はもう横に滑り落ちていた。


 その瞬間、世界が軸を外し、光だけが先に回った。

 路地の逆光が斜めに裂け、男の影が焼けたフィルムの端みたいに揺れる。

 半回転の途中、粉塵が光を噛み、時間の継ぎ目だけがわずかに延びた。


 その回転の終わりで、

 リリィは男の死角へ“落ちる”ように収まっていた。


 ネメシスが閃いた。


 「……やめて。あなたまで、苦しまないで」


 撃鉄が戻る音は小さく、

 だが世界の中心に響いた。


 一発。


 男の腕が弾かれ、銃が地面を跳ねた。


 悲鳴。


 男は膝から崩れ落ちた。


 リリィは歩み寄る。


 射殺ではなく“停止”。

 彼の祈声は暴れていたが、

 ロウと違い、死へ向かう線ではなかった。


 「どうして……どうして、おまえ……手加減なんて……」


 リリィは答えない。

ただ立っているだけだ。


 胸の奥の沈黙が、また……揺れた。


 “誰かが泣いている感覚”。

 湊の波形と同じ“方向”。


 リリィは、まるで呼吸を忘れたように動きを止めた。


 「……なに、これ」


 沈黙が沈黙でなくなる瞬間を──

 彼女は生まれて初めて体験していた。


 男は涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら言った。


 「おまえ……白百合なのに……なんで……」


 リリィは、その問いに答えられなかった。


 なぜか分からない。

 ただ──“苦しむ音”が胸に刺さっただけ。


 祈声聴取ではなく。

 反応偏位でもなく。

 《百合香》のどこか残っていた“破片”が、

 外から触れられたように疼いた。


 通信回線が復旧し、

 メアリの声が飛び込む。


 《リリィ!? そっちの状況どうなってるの?》


 リリィはゆっくり息を吸った。


 「……任務完了。ターゲットは生存。回収要請」


 《生かしたの!? めずら……いや、理由はあとで聞く。

   それより──

   《湊》の波形が、そっちの区画に同期しはじめてる》


 リリィは顔を上げた。


 沈黙が、うっすらと震えた。


 遠くで──

 灯りも音も届かないはずの場所で──

 “誰かが泣いている”気配がした。


 それが、

 彼女がまだ知らない青年・朝比奈湊であることを、

 リリィはまだ知らない。


 ただ、胸の奥で揺れた“微かなノイズ”だけが、

 彼女をそちらへ引き寄せようとしていた。


   *


 路地に落ちた静寂は、銃声の残響とは別の気配を孕んでいた。


 リリィは、倒れた男の呼吸が安定していくのを確認すると、通信チャンネルをいったん閉じ、夜気を胸に吸い込んだ。


 ……湊。


 名前を知らない青年の波形が、

 なぜ自分の“沈黙”に触れたのか分からない。


 分からないのに──胸の奥だけ、確かに揺れた。


 その揺れを押し殺すように、リリィは屋上の縁へ視線を向けた。

 波形の余韻が、あの方向からやって来たように感じた。


 だが、それだけだ。

 視認はできない。

 輪郭も掴めない。


 感情でも、祈りでも、罪でもない。


 ──“だれかの泣き声の影”。


 説明のつかない感覚が、沈黙の底にひっそり残っていた。


 「……分析に回すべき、か」


 リリィは小さく呟き、ターゲットの拘束信号を送る。

 救護班のドローンが数分以内に到着するはずだった。


 だが、端末の画面は別の通知へと切り替わる。


 《祈声ログ:続行監視指示

  対象 波形の発火率:上昇中

  ※接触禁止を継続せよ》


 「……禁止、ね」


 異様に強い指示だった。

 司祭直属ルートで書き換えられた命令だとすぐ分かった。


 (近づくな、ということ)


 白百合には珍しい制限だった。

 刈り取り対象ではない相手に、接触制限が出るのはおかしい。


 「……なにを、恐れてるの?」


 リリィは端末を閉じた。

 沈黙が胸の奥でかすかに震え、それ以上の答えは出てこない。


 そのとき──


 路地の反対側の空気が、ほんのわずかに“沈む”気配があった。


 リリィは即座に振り返る。

 敵意はない。

 殺意波形もない。


 だが、なにかが“ここではない場所”から落ちてきたような静かな圧。


 ……ノイズ。


 湊の波形に似た、あの“ざわめき”。

 だが、さっきより遠い。

 まるで、誰かが急いで歩き去っていく足音だけを残したような──そんな痕跡。


 リリィは路地の闇を見つめ、息を浅くした。


 「……どこにいるの」


 返事はない。

 当然だ。

 問いは音にならずに霧へ溶けて消えた。


   *


 救護ドローンがターゲットを引き上げたあと、

 リリィは高架下の影に身を潜め、波形の余韻を静かに追った。


 湊の波形は、都市の祈声ネットワークから漏れ落ちる“空白”を埋める方向へ流れていた。

 刈り取りでもなく、拒絶でもなく。


 ──補完。


 そんな性質、理論上は存在しない。


 「……本当に、なに者?」


 リリィ自身、“沈黙”という壊れた領域に落ちた身だ。

 だからこそ感じる。


 沈黙の外側に、“裂け目”が生まれつつある。


 湊という青年が歩く場所に、

 都市の祈声が微かに吸われ、集まり、形を変えようとしていた。


 まるで──沈黙が、沈黙のままでいられなくなるみたいに。


 リリィは、胸を押さえた。


 そこにあるのは、ただの空洞のはずだった。


 「……揺れる、なんて」


 そんなこと、あり得ない。


   *


 《白咲百合香──次任務準備。

  回収後、司祭区画への移動を指示》


 「司祭区画……?」


 珍しい呼び出しだった。

 通常、白百合は監査官の許可ラインを通じて任務管理される。

 司祭が直に指揮系統へ触れることは、重大案件のときだけだ。


 (湊──)


 脳裏に浮かんだ名前を、リリィは振り払うように瞬きをした。


 「……いや。関係ない」


 繋がりがあるとすれば、

 自分がそれを“感じた”という、ただ一点だけ。


 それすら、本当は錯覚かもしれない。


 だが──


 歩き出さなければ、胸の奥の“微かな揺れ”が、なぜか静まらなかった。


   *


 下層区の片隅。


 湊は診療所を閉める準備をしながら、

 さっき胸に走ったざわめきのことを思い返していた。


 あれは痛みではなかった。

 かすかな悲しみの影。

 風に触れた布みたいに、薄く震えていた。


 「……誰なんだろう」


 湊は自分でも驚くほど、自然にその言葉を口にしていた。


 普段なら、そんな他者への踏み込みは避ける。

 関われば、背負うことが増える。

 背負えば、自分が崩れる。


 だから距離を置いて生きてきた。


 なのに──

 今は妙に胸の奥が落ちつかなくて、

 かすかな涙のにおいのような気配が、どこかから流れてくる気がした。


 「変だな……」


 その瞬間、

 診療所の外で、壊れかけの街灯がひとつだけ揺れた。


 光が、小さく震える。


 気温のせいではない。

 電圧の不安定でもない。


 湊の胸が、ほんのわずかに脈を跳ねさせた。


 (また……誰かが泣いてる)


 けれど、その声は──

 誰かを“助けてほしい”と呼ぶ涙ではなく、


 ──“誰かを助けたい”と願うほうの、

 とても静かで、深い揺れだった。


 湊は、喉の奥で息をつめた。


 「……行かないと」


 理由なんてどこにもなかった。


 ただ、胸の奥で裂け目がひらくみたいに、

 “誰かの沈黙に触れた”感覚だけが残っていた。


 湊は診療所の扉を閉め、夜の下層区へ歩き出した。


 その先にいる相手の名も知らないまま。


 彼の歩く方向と──

 リリィが向かう道の “軌跡” が、

 ゆっくりと、まったく別の場所で重なりはじめていることを知らずに。


   *


 下層区ブロックC──夜は完全に沈みきっていた。


 高架下のコンクリートは昼間に吸い込んだ熱を手放しきれず、湿ったぬくもりを足元にまとわりつかせている。街灯はところどころ切れていて、光の輪と輪のあいだには、手を伸ばしても届かない暗がりが挟まっていた。


 その暗がりを、二つの影が別々の方向から歩いていた。


 ひとつは、診療所から帰る途中の男──朝比奈湊。

 もうひとつは、任務を終え、司祭区画への帰還指示を無視するでも従うでもなく、一度だけ下層の空気を吸いに回り道をしている白いコートの女──リリィ。


 二人のあいだには、まだ一本の路地分の距離があった。


 湊はポケットに片手を突っ込み、胸のあたりをもう片方の手で押さえていた。

 さっきから、そこだけが妙に“うるさい”。


 誰かが泣いている。

 誰かが、誰かを助けたいと願っている。


 ──そんな“気配”だけが、胸骨の裏側でくすぶっていた。


 「……どこだろ」


 声に出した瞬間、その問いは霧に変わって夜気に溶けた。

 返事はない。

 ただ、進むべき方向だけが、かすかに温度を持っている。


 湊は足を止めない。


 曲がり角をひとつ抜ける。

 その先で、ひとりの女の影が、屋上から降りてきたばかりの猫のような身のこなしで路地を横切った。


 白いコート。

 光源の少ない場所では、輪郭しか見えない。


 湊は、ほんの一瞬だけ視線をそちらへ向けた。

 女は、湊のほうを見ない。

 ただ、風向きを読むみたいに短く立ち止まり、それから別の路地へ消えていく。


 すれ違いですらなかった。

 光の輪と輪のあいだ、互いの影がギリギリ触れない距離で、二つの存在は別々の夜を歩いていく。


 それでも。


 湊の胸のざわめきは、その瞬間だけ少しだけ輪郭を持った。

 “あそこだ”──

 言葉にならない指差しが、心の中でひとつだけ方向を示した。


 だが、彼は追わない。

 追いかける理由を、まだ持っていない。


 リリィも同じだった。


 一瞬、空気が変わった。

 沈黙の外側から、なにか柔らかいものが触れてきた。


 ──チリ。


 胸の奥の金属板が、また指先で叩かれたみたいに震えた。

 彼女は振り返らない。

 振り返ったところで、任務にはならない。


 ただ、足音だけがほんのわずかに遅くなる。


 「……どこにいるの」


 誰にも聞こえない声で、リリィはつぶやいた。


 返事はない。

 だが、夜気の中で一瞬だけ、祈りでも懺悔でもない“ノイズ”がふっと立ち上がった。


 都市の底で、沈黙に最初の“ほころび”が入った瞬間だった。


  *


 聖務庁・祈声ログ解析室。


 壁一面のグリッドに、下層区ブロックCのマップが浮かび上がっていた。

 光点がいくつも瞬いては消え、そのうちのふたつが異様に強く輝いている。


 ひとつは、白百合の識別コード。

 《SHIRASAKI YURIKA / LILY》


 もうひとつは、仮識別タグ。

 《MINATO ASAHINA / “湊”》


 ゼファーは、モニターに片肘をつきながらその重なり方を見ていた。


 「……マジかよ」


 隣でキーボードを叩いていたメアリが、顔だけこちらに向ける。


 「なに、“マジかよ”?」


 「重なった」


 ゼファーは短く答えた。


 「白咲百合香の沈黙波形と、《湊》の分類不能波形。

  さっきの下層区の路地で、一瞬だけ──完全に同期した」


 メアリの表情から血の気が引く。

 彼女は椅子を引き寄せ、ゼファーのコンソールを覗き込んだ。


 画面上では、二つの波形が一瞬だけぴたりと重なり、

 そのあとすぐ、別々の方向へ分かれていく。


 「……接触したの?」


 「してない。ログ上の位置情報じゃ、二十メートル以上離れてる」


 ゼファーは首を振った。


 「視認も会話も、何もない。ただ“近くにいた”だけ。

  それでこれだけの同期が出るのは……正直、見たことない」


 メアリは唇を噛み、端末に指を走らせた。


 《ログ種別:特例保存

  タイトル:沈黙と湊の第一次干渉

  アクセス権限:監査局/司祭/祈声解析主任》


 保存コマンドを叩く。

 画面の端に、小さな鍵アイコンが灯った。


 「クロノには?」


 ゼファーが尋ねると、メアリは苦笑した。


 「もちろん送る。どうせまた、“数字だけを見ればいい話じゃない”とか言うんだろうけど」


 言いながらも、その声には少しだけ安堵が混ざっていた。


 「でもこれは、さすがに“数字だけ”でも充分ヤバい」


 ゼファーはモニターを指で軽く叩いた。


 「白百合の沈黙モデルと、《湊》の吸引モデルが初めて触れた夜。

  この瞬間から先は、多分もう──」


 「元の世界には戻れない?」


 メアリが続きを言う。


 ゼファーは肩をすくめた。


 「戻れちゃったら、そのほうが怖い」


 二人のあいだに、短い沈黙が落ちた。


 解析室の照明が低く唸り、壁のグリッドがまた祈声を流し込み始める。

 都市全体のざわめきは相変わらずだ。


 けれど、その中にひとつだけ、

 さっきまで存在しなかった“パターン”が刻み込まれている。


 沈黙と、分類不能波形

 二つの線が交差した痕跡。


 メアリはモニターを見つめたまま、ぽつりと言った。


 「……ねぇゼファー。記録名、もうひとつタグ追加しない?」


 「なにを?」


 「“この世界のひび割れ”」


 ゼファーは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。


 「詩人かよ。……いいね」


 新しいタグが、ログの隅にそっと書き足される。


 その夜、誰もまだ気づいていなかった。


 下層区ブロックCの暗い路地で、

 沈黙に入った小さなヒビが、

 やがて都市全体を横断する“裂け目”に育っていくことを。


 そしてその始まりに、

 ひとりの白い殺し屋と、

 ひとりの平凡な青年の名前が並んで記録されたことを。


 それは、まだすべてが“知らないまま”でいられた、

 最後の夜だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る