第3話 聖務庁、軋む音

 聖務庁・上層百八十メートル。


 礼拝フロアの天井は、空を模して作られているくせに、空よりも低かった。

 古い聖堂を真似たアーチとステンドグラス。そのずっと上には、観測断層のあとに組まれたメタフレームの網目があり、そこから漏れるわずかな自然光と、人工照明の色が混ざり合っている。


 ガラスの向こうにあるはずの空は、ここからは見えない。

 見えないかわりに、誰もが「天」を信じたふりをして、祭壇のほうを向く。


 クロノ・ヴァレンティは、その天井を一度だけ見上げてから、視線を下ろした。


 祭壇の前に、ひとりの男が跪いている。

 白い祭服の裾が静かに揺れていた。

 指を組んだ両手の上には、小さなロザリオ。


 司祭だった。


 「……また監査官が、神様より先にわたしのところへ?」


 振り返らないまま、司祭が言った。

 声は掠れているのに、冗談だけは崩さない。


 「神様は、私の勤務時間に責任を持ちませんので」


 クロノは、まっすぐ答えた。

 いつもの乾いた調子だ。

 祭壇から少し離れたベンチに腰を下ろす。背もたれの木は、長い年月で艶を失っている。


 「仕事です」


 「でしょうね。懺悔に来られるような顔ではありません」


 司祭はゆっくりと立ち上がり、膝の埃を払った。

 ステンドグラスから流れ込む赤い光が、目の下のクマを薄く染める。


 「白百合計画の監査報告なら、書類のほうがずっと早いはずですが」


 「書類で済むなら、ここには来ていません」


 クロノは、胸ポケットから薄いデータカードを取り出した。指先で弾くと、祭壇とベンチのあいだに小さなホログラムが立ち上がる。


 白百合計画・現行適用者の戦闘ログ。

 白咲百合香の心理評価グラフ。

 そして、その端に付け足されたばかりの、新しい波形。


 司祭の視線が、その一点で止まった。


 「……これは」


 「祈声ログ解析室が今朝あげてきたものです」


 クロノは事務的に続ける。


 「都市全域の祈声ノイズから、通常アルゴリズムでは弾かれる“浮遊波形”だけを抽出した。

  分類不能。発信源不明。危険度評価、保留」


 波形のひとつに指を伸ばす。

 高低が激しく、周期性がない。

 それでも、どこか一定の拍に合わせて鼓動しているように見える線。


 「これが、あのタグですか」


 司祭が小さくつぶやいた。

 ホログラムの端に表示された文字に目をやる。


 《仮識別:《湊》》


 「そうです。オペレーション室のメアリの趣味だそうで」


 クロノは、わずかに口角を動かすだけで笑いの形を作る。


 「“行き場のない水が集まる場所”。

  救済班の詩人枠には向いている」


 「いい名前をもらいましたね、その祈りは」


 司祭のほうの笑いは、もっと疲れている。

 それでも、言葉の端にだけ柔らかさが滲む。


 「この波形が、なにかの罪だと?」


 「少なくとも、既存のどの罪にも分類できない」


 クロノは波形一覧をスライドさせた。

 同じような線が、日付の違うログに何度も現れては消えている。


 「懺悔室からではない。

  都市全体のノイズの中から、こうして浮かんでくる」


 「誰かが、どこにも向けずに祈っている、ということですか」


 司祭の声が、すこしだけ低くなる。


 「それとも、懺悔と呼ぶには形を失いすぎた何か、でしょうか」


 「どちらか、あるいは両方」


 クロノは言い切った。


 「観測主義派の評価は、こうです。

  “新たな危険因子”」


 司祭は、短く息を吐いた。


 「やはり、そうおっしゃるのですね、あの人たちは」


 「“分類不能な祈りは、既存の救済プロトコルでは処理できない。

  ならば、より強力な刈り取り手段を用いるべきだ”」


 クロノは、会議録の一節を、そのまま読み上げた。


 「白百合計画の再起動案とセットで、議題に上がっています」


 「世界が壊れたときと、同じやり方ですね」


 司祭は祭壇の縁に片手を置いた。

 指先で木の彫刻をなぞる。


 「ひびの入った壁に、補強材を差し込み、

  “これで倒れません”と説明する。

  誰も、壁そのものがもう別のものになっているとは口にしない」


 クロノは天井を一瞬だけ見上げた。

 観測断層以前の青空を覚えている者は、もうほとんどいない。


 「白百合計画は、その補強材の一本ですよ」


 乾いた調子のまま言う。


 「そこに関わった自覚は、おありでしょう」


 「忘れたふりをするには、歳を取りすぎました」


 司祭は、かすかに笑った。


 「最初の一本を、わたしが差し出した。

  その事実だけは、書類からも、祈りからも消えません」


 クロノは、司祭の横顔を盗み見る。


 「……あの懺悔室の夜、ですか」


 その話は、記録としても噂としても、聖務庁の内部に残っている。


 娘を事故で亡くした女がいた。

 自分を責め続けるあまり、懺悔室に通い詰めた女がいた。


 《あの男が許されるなら、わたしはどうしたらいいんですか》


 司祭は、その声を、一番上のフォルダに置いた。

 それが白百合計画の「最初の案件」になった。


 「彼女を救いたかったんですよ」


 司祭は、自嘲を混ぜずに言った。


 「その一点だけは、本気だったと今でも思います。

  ただ、その“救い”がどんな形をしているのか、ろくに考えないまま、

  『迷子の魂を回収する部署』なんて言葉を口にした」


 「観測主義派が飛びついた」


 クロノは、その続きを短く挟む。


 「懺悔ログをデータベース化し、危険度を数値化し、

  再発率を算出し、処理対象を最適化する。

  彼らの好物です」


 「ええ。火のそばに燃料庫を建てたようなものです」


 司祭はロザリオを握りしめた。

 関節が白く浮かぶ。


 「そのあとに続く訓練プログラムと精神隔離プロトコルと、

  “最適な器”の選別名簿を見たときには、

  もう『やめよう』と言える人数ではありませんでした」


 「名簿の一番上に、白咲百合香の名前があった」


 クロノはホログラムを切り替える。


 若い頃の百合香の顔写真。

 今より少し幼い輪郭。

 それでも、瞳の奥の温度は読み取りにくい。


 「司祭。

  彼女を選んだことを、後悔していますか」


 その問いは、職務としてではなかった。

 ひとりの人間として投げた。


 司祭は少しのあいだ黙り、すぐには答えなかった。


 「……便利な言葉ですよね、“後悔”というのは」


 やがて、ゆっくりと口を開く。


 「している、と言えば、少しはきれいに聞こえる。

  していない、と言えば、化け物に見える。

  真実はそのどちらでもないのに」


 クロノは眉をわずかに動かした。


 「観測断層から数年後、

  都市の子どもたちの一部に“誤差”が見つかった、という報告書を読んだとき──」


 司祭は、話題をそっとずらす。


 「わたしは、自分の手がまたひとつ汚れる音を聞いた気がしました」


 「反応偏位の初期報告書ですね」


 クロノが補足する。


 「脳が先に動き、意識があとを追う。

  避ける前に、身体がもうそこにいない。

  撃つ前に、指がもう引き金を終えている」


 「ええ」


 司祭はうなずいた。


 「その文章を書いた教官がいました。

  彼は報告書の末尾に、こう書きましたよ。

  『これは、神が与えた新しい感覚かもしれない』」


 「白百合計画は、それを“福音”と解釈した」


 クロノは、言葉を切るように続ける。


 「反応偏位を持つ個体にガンカタ術式と精神隔離プログラムを流し込み、

  “迷子の魂の回収装置”として最適化する」


 「……止めそこねたんです」


 司祭は、はっきりと言った。


 「“これは危険だ”と言うには、あまりにも多くの懺悔が積み上がっていた。

  “これで救われる人もいる”と言い張るには、あまりにも多くの血が予測された。

  だから、どちらの旗も振らないまま、ここまで来てしまった」


 礼拝堂の端で、蝋燭の炎がひとつ消えた。

 芯だけが黒く残る。


 「白百合計画は止まらず、迷子の魂も減らず、

  彼女のような器を、わたしたちは“成功例”と呼ぶようになった」


 司祭の声には、怒りはなく、自分への嫌悪だけが薄くにじんでいた。


 クロノは、その言葉を受けてから口を開く。


 「……白百合計画再起動案は、ほぼ通ります」


 乾いた報告だった。


 「統計上、白咲百合香は有効です。

  危険度S級以上のターゲットの再発率ゼロ。

  観測主義派は、“この形式こそがこの世界に適応した正義だ”と主張している」


 「救済班の名義では、反対しかねますね」


 司祭は苦く笑った。


 「“こんなものは正義ではない”と言うのは簡単ですが、

  “ではどうするのか”と問われたとき、

  わたしたちの手には、祈りしかない」


 「だから、《湊》が利用される」


 クロノは、波形を呼び戻した。


 「“既存の枠組みから漏れたものが現れた。

  新しい刈り取り手段が必要だ”──

  あの連中は、そうやって枠を拡張する」


 司祭は、波形を見つめる。

 瞳に、炎のようなものは宿らない。ただ、深い疲労と、諦めきれない何かだけ。


 「彼らは、その“分からなさ”を恐れているのか。

  それとも、喜んでいるのか。

  どちらだと思います?」


 「どちらも、でしょう」


 クロノは即答した。


 「恐れながら、利用する。

  それが観測主義派です」


 司祭は目を閉じた。


 「ではあなたは、どこに立つおつもりですか、監査官」


 「どこにも立ちません」


 クロノは、ほんの少しだけ言葉を区切った。


 「数字を見る仕事をしている以上、数字の側にいるように見えるでしょうが──」


 彼は、白咲百合香の戦闘ログを呼び出した。

 《セラフィタ・ブロック》のラウンジ。

 チープなネオンと、壊れかけたシャンデリア。


 白い影が、弾丸と一緒に跳ねる。


 「こういうものを“成功例”と呼ぶ世界に、

  完全に馴染むつもりはありません」


 司祭は、その言葉に目を細めた。


 「では、境界に?」


 「ええ。境界線です」


 クロノは礼拝堂を見渡す。


 「祈りとプロトコルのあいだ。

  救済班と観測主義派のあいだ。

  白咲百合香の“沈黙”と、《湊》の“ノイズ”のあいだ」


 「一番、足場の悪い場所ですよ」


 司祭の声音は、どこかあきれたようで、少しだけ安堵も混ざっていた。


 「だからこそ、監査官という職位がある」


 クロノは肩をすくめる。


 「ひとつだけ、頼みがあります。司祭」


 「聞きましょう。

  罪の告白よりは、簡単だといいのですが」


 「白百合計画再起動の会議で、

  “白咲百合香はまだ完全には壊れていない”と、はっきり言ってください」


 司祭は思わずクロノを見た。


 「……どういう意味で?」


 「彼女のメンタルレポートに、『吐き気』という単語が残っている」


 クロノは、教官記録をホログラムに呼び出した。

 “空っぽな器ほど、割れやすい”という一文。


 「罪悪感でも後悔でもない。

  ただ、身体が先に反応する不快感。

  それをまだ“気持ち悪い”と感じているかぎり、

  彼女は完全な装置ではなく、“人間の残骸”です」


 「残骸、という表現を、彼女は聞いたら怒りませんかね」


 司祭は苦く笑う。


 「聞かせるつもりはありません」


 クロノは淡々と言った。


 「ただ、白百合計画の側が“完成品”として扱うことだけは、

  少し遅らせるべきだと思っています」


 「それで、なにか変わると?」


 「数ヶ月、もしくは数年。

  再起動の速度が、ほんの少し落ちるかもしれない」


 クロノは、わざと希望を大きく盛らなかった。


 「そのあいだに、《湊》の正体が、もう少しだけ顔を出してくれるかもしれない。

  それだけです」


 司祭は、しばらく黙っていた。

 やがて、短くうなずく。


 「会議では、言葉を選びましょう。

  救済班の代表としてではなく、

  最初に火種を渡してしまった愚かな司祭として」


 クロノは立ち上がった。


 「それで十分です」


 祭壇に投影されていたホログラムが、一斉に消える。

 残るのは、蝋燭の炎と、色の抜けたステンドグラスだけ。


 礼拝堂を出る直前、クロノは一度だけ振り返った。


 司祭がひとり、祭壇の前に立っている。

 祈りの言葉は口にしていない。

 誰かを思い出すときの顔をしていた。


 娘を失った女か。

 最初に銃を渡した少女か。

 それとも、まだ名前を持たないどこかの祈りか。


 クロノには、分からない。


 ただ、扉が閉まる瞬間、

 礼拝堂の空気のどこかで、

 かすかなノイズが生まれた気がした。


 祈りとも、溜め息ともつかない、

 分類不能の音。


 それは、まだ誰のログにも記録されていない。

 記録されるまでのわずかな時間だけ、

 この建物の中に、行き場を失ったまま浮かんでいた。


   *


 下層区は、都市の底だ。

 空気は重く、光は薄い。建物と建物の隙間に流れ込む排気と湿気が、どれも似たような灰色の臭いをしていた。


 そんな路地裏のはしっこに、診療所がある。

 新しくも古くもない白い看板。

 光量の足りないLEDが、ぎりぎり「開」の文字だけを照らしている。


 その扉を押し開けたのは、二十八歳の平凡な男──朝比奈湊だった。


 「……こんにちは」


 声は小さく、けれど不思議とよく通る。


 診療所には、数人の患者と、紙の山を前に戦うような顔をしている女医がひとり。

 白衣の袖をまくり上げ、カルテをひっくり返すように確認している。


 「朝比奈くん? 今日は何、壊れた?」

 女医は顔も上げずに言った。


 「壊れてないですよ。来ただけです」


 「来ただけで診療所寄る男なんて、あんたくらいよ」


 湊は、苦笑した。

 別にここに用があるわけじゃない。

 けれど、この場所に来ると人が勝手に寄ってくる。

 話しかけるわけでも、特別なことをするわけでもないのに、なぜか周囲が静かに落ち着き始める。


 いつの間にか、湊が椅子に座ると、

 患者たちのざわめきも少しだけやわらぐ。


 女医はペンを止めて、ようやく顔を上げた。


 「……はぁ。なんか、空気変わるわね、あんた来ると」


 「え、そうですか?」


 「そうよ。さっきまでこの部屋、戦争みたいに騒がしかった」


 湊は首をかしげる。

 自分では何もしていない。


 女医はため息をつきながら、椅子を回転させた。


 「ねぇ朝比奈くん、あんた仕事どうしたの? 今日は休み?」


 「いや……ちょっと遅番なんで」


 「遅番前に診療所に寄る社会人なんているかね」


 湊は答えに困った。

 理由は自分にも分からない。ただ──


 自分がここにいると、少しだけ誰かの負担が軽くなる。

 そんな気がするから、つい立ち寄ってしまう。


 壁際のベッドでは、おばあさんがうとうとしている。

 子どもの泣き声も、不思議と小さくなっていた。


 診療所の光が、湊の周りだけほんの少しだけ暖かく見えるのは気のせいだろうか。


 女医はカルテを閉じると、ぽつりと言った。


 「朝比奈くんってさ……“人が寄ってくる質(たち)”よね」


 「え?」


 「別にハンサムでも、話が上手いわけでもないのに」


 「褒めてます? それ」


 「褒めてるの。珍しいのよ、こういう空気持ってる人」


 湊は照れくさそうに笑った。


 そこへ、診療所の奥から青年が転がり込んできた。

 腕に派手な擦り傷。派手な声。


 「先生っ! また転んだ! 痛ぇ!」


 女医は即座に立ち上がり、消毒と包帯を手に取った。


 「またって何回目よ! あんた走るの禁止!」


 「すみません……」


 青年はしょんぼりと座った。

 痛みより怒られたショックが大きいらしい。


 湊はそっと近づき、笑った。


 「大丈夫か?」


 「あ、朝比奈さん……今日もここに?」


 「なんか来たくなってね。痛いの、少しはマシ?」


 青年は不思議そうに湊の顔を見つめ、それから小さくうなずいた。


 「……はい。なんか、落ち着きます」


 「そっか」


 湊はそれ以上踏み込まない。

 ただ、そこにいるだけだ。


 女医は包帯を巻きながら横目で湊を見た。


 「ね、ねぇ。あんた、ほんと変な男よ?」


 「え、また?」


 「いい意味でよ。朝比奈くんと話すと、患者がだいたい落ち着くのよ。私の仕事が楽になりすぎる」


 「それは……助けになれてるなら嬉しいですけど」


 「助かってるわよ。でもね……」


 女医は、ほんの一瞬だけ言葉を止めた。


 「……あんた、自分のことは誰にも言わないのね」


 湊は少し驚いた。


 「え?」


 「家族のこととか、仕事のこととか。誰かに甘えたり、頼ったりする気配がない」


 湊は、笑って誤魔化した。


 「いや、そんなことないですよ」


 「あるってば。優しい人ほどそうなの。誰かの荷物を持ってあげるのに、自分の荷物は地面に落としっぱなし、みたいな」


 湊はうつむいた。


 言われて初めて気づいたが、

 本当に自分の重さを誰かに渡したことはなかった。


 でも、それを特別なことと思ったこともなかった。


 「……大丈夫ですよ。俺は」


 「ぜんぜん大丈夫じゃない顔してるじゃない」


 女医の声が、少しだけ柔らかくなった。


 湊は返す言葉が見つからず、黙ってしまった。


 診療所の外の風が、古い窓をゆらした。

 ガタリ、と金属の枠が鳴る。


 そのとき。


 湊の胸の奥に、

 言葉にならない“ざわめき”が、ふっと立ち上がった。


 理由はない。

 痛みでもなく、恐怖でもない。


 だけど、どこか遠い場所で、

 誰かが泣いているような気がした。


 女医が、それを見て小さく眉を寄せた。


 「朝比奈くん……いま、どうしたの?」


 「……いや。なんでも」


 湊は笑った。

 だがその笑顔の奥に、わずかな影が滲んでいる。


 彼自身まだ気づいていない。

 このとき診療所の天井の向こう──

 街のどこかでは、祈声ログが“分類不能波形”を記録していた。


 それが誰のものか。

 まだ誰も知らない。


 ただ、湊の“優しさの核”がふと揺れた瞬間、

 世界のどこかの沈黙が、ほんの微細に破れた。


   *


 都市の夜は、深く沈んでいた。

 照明の整備が追いつかない区画では光の方が少数派で、暗闇のほうが日常だった。


 リリィは、聖務庁の外壁に沿って静かに歩いていた。

 コートの裾だけが、風に触れて微かに揺れる。


 《リリィ、聞こえる?》


 メアリの声が通信の向こうから届く。

 いつもの淡々とした調子だが、わずかにノイズが走った。


 「通信良好。位置は特定できてる?」


 《うん。ターゲット、対象“ロウ”──逃走中の元白百合協力者。

 そっちに向かってる。危険度A。武装あり》


 リリィは、空気の流れが少し変わったのを感じた。

 この都市の夜は、死臭の形をして近づいてくる。


 靴音を消して路地に入ると、金属の匂いが濃くなった。


 ロウは、かつて白百合計画の技術班の一員だった。

 内部情報を盗み、観測主義派の“監査ライン”を迂回して逃げ出した。

 その理由については、庁内で意見が割れている。


 ──救済派は、「彼は限界だった」と言った。

 ──観測主義派は、「裏切り者」と断じた。


 リリィはどちらにも加担しない。

 任務は、回収か排除。

 それだけだ。


   *


 路地裏の奥に、ロウはいた。


 痩せた顔。焦燥の影。

 手には簡易の電磁銃。

 瞳孔が開ききっている。薬か恐怖か、あるいは両方だ。


 リリィが一歩踏み出すと──


 「来るな……来るなよ、白百合!」


 叫びながら銃を構える。

 声には祈りと怨嗟が混じった“濁った音(ノイズ)”があった。

 リリィは祈声聴取でそれを拾い上げる。


 恐怖。後悔。絶望。

 そのどれもが波形に断続的に混ざる。


 メアリの声が、冷静に入る。


 《射線注意。彼、引き金軽いタイプだよ。呼吸乱れてる》


 「……了解」


 リリィは背中に回したネメシスを抜いた。

 ロウが反射的に撃つ。

 電磁弾が弧を描き、彼女のすぐ横の壁を焦がす。


 だが、リリィはもうそこにいなかった。


 身体が選んだ。

 次の“最適解”。


 影の中を滑り、視界が二度きり揺れるほどの速度で距離を詰める。


 「やめろ……やめろ……!」


 ロウの声は震えていた。

 彼の“矛盾”が波形の中で暴れている。


 ──生きたいのに、捕まりたくない。

 ──捕まりたくないのに、助けてほしい。


 その相反が音になって、リリィの耳に刺さる。


 「ロウ、武器を捨てて」

 リリィは淡々と言う。


 「無理だ……俺は、戻れない……」


 次の瞬間、ロウは銃をリリィの額に向けた。


 引き金を引く前に。

 ネメシスに、リリィの細く白い指が淡く映える。


 一発。

 ロウの腕が折れるように動きを止める。


 悲鳴が夜に跳ねる。


 リリィは一歩近づき、銃口をそっと降ろした。


 「苦しまないように、お願いします」


 最後にロウが言った言葉は、それだけだった。


 ネメシスの二発目が、音もなく終わらせる。


   *


 血の匂いは風に流され、すぐに消えた。

 だが、リリィの胸の奥には、さっきのロウの音が残っていた。


 メアリが落ち着いた声を返す。


 《回収班、向かわせる。リリィ、お疲れ──》


 通信が途切れた。

 細いノイズが混ざり、すぐに沈黙に変わる。


 「メアリ?」


 返答はない。

 代わりに別回線が割り込む。


 《白咲百合香。所属監査局、クロノ・ヴァレンティだ》


 クロノ。

 あの静かな声の監査官。


 「……何の用ですか」


 《報告したいことがある。内部回線の一部が、司祭によって“手動で遮断”された》


 リリィはわずかに眉を動かした。


 司祭。

 彼女にネメシスを渡した男。

 優しい顔をして、どこかに深い影を持つ大人。


 《白百合計画の“再起動”が決まりかけている。観測主義派が強引に押し通そうとしている》


 「……わたしに関係のあること?」


 《大いにある。おまえは白百合計画の“中心素材”だからだ》


 言葉だけは静かだったが、そこに揺らぎはなかった。


 リリィはゆっくり息を吸った。


 「……司祭は?」


 《反対している。だが彼には権限がない。

 それに──》


 クロノは一拍置いた。


 《司祭は、“始まりの案件”をまだ手放せていない》


 その言葉に、胸の奥がひくりと揺れた。


 ──始まりの案件。

 最初にリリィが撃ち殺した、あの男。

 娘を失った母親の懺悔。


 司祭はその案件を、今でも懺悔室の最深部に封じたままにしている。

 当時の映像ログも、ほとんど彼の手によって塗りつぶされた。


 クロノが続ける。


 《あれは単なる懺悔案件ではない。司祭は“意味”を知っている》


 「……どんな意味?」


 《今はまだ言えない》


 クロノの声には、それ以上を語らない固さがあった。


 リリィは無言でネメシスをホルスターに戻した。


   *


 歩き出すと、また胸の奥であの“ざわめき”がかすかに鳴った。

 廃工場で拾った分類不能波形

 メアリがつけた仮タグ。


 ロウの音とも違う。

 恐怖とも罪悪感とも違う。


 ただ優しさだけが、むき出しになった波形。


 リリィは、その揺れに気づかないふりをした。

 気づいてしまうと、何かが壊れそうだった。


   *


 聖務庁の懺悔フロアでは、

 司祭が薄暗い室内でひとり、祈りの言葉をつぶやいていた。


 彼の手元には、古いロザリオ。

 あの夜、リリィの名を奪った夜から、一度も手放したことのないもの。


 司祭は静かに目を閉じた。


 「……百合香。

 すまない。

 すまない……」


 その声は、祈りというより“告白”に近かった。


 司祭の懺悔が、祈声回線に微かに混ざる。

 だが、庁内のどの解析端末にも、それは“個人ログ”として弾かれて届かない。


 ただひとつだけ──

 どこか遠くの下層区で、診療所の椅子に座る青年の胸の奥に、

 微細な波形として響いた。


 湊は、胸に手を添えて小さく息を吸った。


 理由は分からない。

 けれど、誰かが泣いているような気がした。


 その夜、世界の沈黙がまた一つ、細く裂けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る