D.iary-19虚無へ落ちるアンカーと、地獄のような始まり
いつから眠っていたのだろうか。 ノアは深い微睡みの中から、ゆっくりと意識を取り戻した。
意識は果てしない虚無の中を漂っている。周囲を時折、微細な光の粒子が掠めていく。 まるで霧の中の灯火のように、静かに微弱な軌跡を描きながら。
「俺は、どこに……?」
唐突に、彼は何かを思い出したように、心臓を激しく収縮させた。
「セシリア!」
思考が時域(クロノスフィア)に波紋を広げ、呼喚が何もない虚空に反響する。
彼に応えたのは、反響音ではなく、光だった。 散らばっていた光の粒子が導かれるように集まり、ゆっくりと輪郭を形成し、虚無から生まれ、光の中から顕現する。
少女の姿が一歩一歩、浮かび上がる。 最初に降臨した時と同じように純粋で、静謐で、呼吸を忘れるほどに神聖な姿で。
「セシリア? 俺たち……まだ時域の中にいるのか?」
ノアは恐る恐る目の前の少女に呼びかけた。だが返ってきたのは、静寂のみ。
少女はゆっくりと彼の方へ歩いてくる。その足取りは極めて軽いが、冒涜を許さないある種の荘厳さを帯びていた。 彼女は彼の前で立ち止まり、指先でそっと彼の手を包んだ。
その瞬間、ノアは彼女の眼底にある感情を見た――それはどれほどの悲しみと憐憫だろうか。まるで神が身を屈め、定命の者を凝視するかのような。
馴染みのある温もりが掌から拡散していく。柔らかく、安撫するように、けれど抗えない力で彼を沈ませていく。 ノアの意識はその温度の中で揺らぎ、今にも永い眠りへと引きずり込まれそうになる。
彼は必死に目を開けた。声は夢の中のように軽い。
「……僕の天使……導いてくれ」
果てしない虚無の中で、ノアの両膝がゆっくりと落ちた。 彼は何らかの見えない力に引かれるように、身を屈めてくる天使を見上げた。
少女は身を屈めた。その姿は優しいが、儀式のような厳粛さを帯びていた。 彼女の額が、そっとノアの額に触れる――その接触は、光が深海を貫くようだった。
次の瞬間――意識の深淵が猛然と砕け散った。
ノアはカッと目を見開いた。無尽の眠りから現実に引き戻されたかのように。
彼はゆっくりと、あの温かい手を放し、立ち上がった。 胸が激しく起伏している。それは覚醒の証明だ。
「……君じゃ、ない」
声は穏やかだが、幻影を断ち切る鋭利な刃だった。
目の前の「天使」が、ふと笑った。 その笑顔は、ごく普通の少女が見せるような、柔らかく、真実味のある笑みだった。
「必ず、私を見つけて」
次の瞬間、光と影が崩壊を始めた。その言葉は、時域の深層で反響する最後の残響となった。
ノアは目を閉じ、深く息を吸った。混乱した思考を全て体内に押し戻すかのように。
「ふぅ――」
その濁った息を吐き出すと共に、彼は再び目を開けた。
そこにあるのは変わらず、あの静寂で、空虚で、果てしない時域だった。
彼は低く口を開いた。逝ってしまった夢の人へ向けてか、それとも未だ何処かで待つ彼女へ向けてか。
「……ありがとう」
彼は一歩、また一歩と前へ歩き出した。足音は虚無の中で響かないが、遥かな歳月を跨ぐかのように重い。 身の回りの光点は次第に希薄になり、蛍の森から零星の点綴へと変わり、最終的に――ただ一面の静かな空白だけが残った。
彼は止まった。ここは、彼の意識が消散する前の起点だ。
目の前の巨大な光球は依然として聳え立っている。ただ、もはや以前のような純白ではない。歳月に染められたかのように、薄い灰色を帯びている。
「セシリア……ここで待っていてくれたのか?」
低い呟きが落ちた瞬間、彼は鋭敏に背後の波動を察知した。 あの馴染みのある人影、かつて彼を強く握っていたあの温もりが、もう一度、静かに彼の背後に現れた。
ノアは振り返り、その虚幻だが親しい輪郭を見た。
そして――彼は身体を預けるように倒れ込んだ。 長い旅の終点に身を投げるように、あるいは運命の懐に飛び込むように。
「行ってくるよ……セシリア」
アンカーに触れた刹那、ノアの胸がごっそりと刳り抜かれたようになった。
それは言葉にできない虚無――絶望、無力、深い孤寂が絡み合ったものだ。その痛みが、唐突に彼の心臓へと押し戻される。
呼吸する間もなく、思考する間もなく。
巨大な光球が彼をゆっくりと飲み込んでいく。
世界から色彩が褪せ、重苦しい灰色だけが残る。彼は分厚い鋼鉄の中に鋳込まれたかのように、意識を冷気に締め上げられ、身動きが取れない。
次の瞬間――灰色の影が砕けた。
光景が思考を超越した速度で切り替わり、一幅また一幅と宇宙の深淵から目の前へと捲り寄せられる。
彼は果てしない星の海に放り込まれたようだった: 暗い星雲を抜け、光芒が脈打つ赤紅色の恒星を掠める。 灼熱のコロナが噴き上がり、彼を火流に墜ちたかのように照らす。 無数の惑星が視界を閃光のように過ぎ去る――死に絶えたもの、荒れ果てたもの、宇宙には遺骸と沈黙しか残っていないかのように冷たい星々。
今回、ノアはもう墜落の方向を決めることができない。
目の前の光景がいかに急速に更迭されようとも、彼はいかなる時間にも触れることができない――入り口はなく、隙間もなく、「選択」そのものが剥奪されている。
彼はただ、あのアカシックなアンカーが沈み続け、より深く、より古い源流へと墜ちていくのに身を任せるしかなかった。
突然――目の前の光景が束縛を失ったかのように破裂し、流れる時間が目の前で開かれた。
ノアは無意識に指を伸ばした。
軽く触れる。世界は水面のように波紋を広げ――次の瞬間、彼は全身を時間の洪水の中へと徹底的に巻き込まれた。
包んでいた光の膜が少しずつ褪せ、ノアは地面に横たわっていた。 周囲を確認する間もなく、硫黄と焦げ臭さが混じった空気が猛然と鼻腔に灌ぎ込まれた。
灼熱。激痛。
想像を絶する重い巨岩が胸に圧し掛かっているようで、呼吸をするたびに、意識を奪おうとする闇と戦っている感覚だ――次の秒には、完全に押し潰されてしまいそうだ。
その時、一層の白い粒子がそっと彼を覆った。
温度が退き、痛みが散り、窒息の束縛が少しずつ溶解していく。
「はぁ……はぁ……」
久しく忘れていたスムーズな呼吸が身体に戻ってくる。 これはセシリアの守護だ。煉獄のような世界で、その翼があらゆる灼熱と重圧を追い払ってくれたのだ。
今、ノアはようやく顔を上げ、この世界をはっきりと見ることができた。
目の前の空は鉄錆に侵されたように濁った赤色をしており、無数に焼灼された後に残る傷痕のようだ。 身の下は剥き出しで亀裂の入った黒い岩石。死が凝結してできた大地のようだ。 厚い塵と灰霧が空気中に積み重なり、天地を一面の曖昧な暗色に繋げている。
視界に木はなく、風はなく、音もない――何も見えず、何も存在しない。
「ここは……地獄か?」
ノアは鋸歯状の岩に手をかけてゆっくりと立ち上がった。胸にはまだ先ほどの窒息の余韻が残っている。 鼻腔を刺す硫黄の臭いは鈍いナイフのように、現実を少しずつ彼の意識に刻み込んでいく。
――これは幻覚ではない。 ――ここは現実(リアル)だ。
そして彼は、この死寂に満ちた廃墟の中に、たった独りで降り立った。
「待ってろ――セシリア……必ず……必ず見つけ出すからな――!」
枯れた叫びが鉄錆の空を切り裂き、この荒れ果てた大地に木霊する。 しかし少年に応えるのは、死寂の風と沈黙する塵土だけ。
ノアは奥歯を噛み締め、一歩を踏み出した。 灰霧に飲み込まれたこの世界で、彼の背中は孤独だが、揺るぎない。
少年は終わりのない彼方へと旅立つ――未知へと踏み出し、そして再会の希望へと踏み出すために。
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