D.iary-18 秋分

ノアは母を抱きしめていた。これがかつて、彼の世界の全てだった。


片刻の沈黙の中、心音と呼吸が彼の代わりに多くの言葉を語った。 だが最終的に、彼はゆっくりと手を離した。半歩下がり、母を見る。目の前の彼女の姿を、魂の最深部に焼き付けようとした。


そして、彼は口を開いた。優しい声で――。


「母さん、俺、もう行くよ」


母は呆然とし、目の涙が驚かされた湖面のように微かに震えた。


「……ここに、いられないの?」


彼女には分からなかった。子供は懐に戻ってきたのに、また背を向けて去ろうとしている。


ノアは手を伸ばし、そっと彼女の目尻の水痕を拭った。その動作は何かを壊すのを恐れるほど優しかった。 彼は振り返り、背後の少女を見た。目には安らぎと、気掛かりがあった。


再び母に向き直った時、彼の声は風雨の後の暁光のようだった――優しいが、もう誰にも止められない。


「待ってる人がいるんだ」 「今度は……俺があいつの傍にいてやらないと」


母は目の前の我が子を見つめた。嫌だ、行かないで、手放したくない――全ての感情が喉元に積み重なる。だがノアの瞳にある柔らかな光を見た時、それらの言葉は結局、音のない溜息へと変わった。


ノアは振り返り、あの見慣れた団地を、街の風景を、灯りを、正門を眺めた。最後に、彼は視線をあの永遠に「家」と呼ばれる方向に留め、静かに口を開いた。


「母さん、待ってる人がいるよ」 「母さん、身体に気を付けて」 「母さん……」


最後の一言が出る前に、母は手を伸ばし、優しく彼の髪をくしゃくしゃにし、自分の額を彼の額に押し当てた。 彼女の声は笑っていたが、別れによって苦味が滲み出ていた。


「あの子ったら……大きくなったわね」


「じゃあね……母さん」


これが、最後の優しい別れ。


セシリアが彼の傍らに歩み寄り、腕を上げ、彼の肩に置いた。


母は深く息を吸い、目の前のこの少女を見た。彼女は理解していた。何を言うべきか。そして理解していた、これが最後に言えることだと。


「この子、ちょっと怠け者ですけど……」


母の声は微かに渋っていたが、努めて明るく笑った。


「どうか、よろしくお願いします」


セシリアは静かに彼女を見つめ、ただ軽く頷いた。


一枚の葉が枝から落ちる。落日は黄金色に輝き、雨上がりの空気の中でゆっくりと回転する。


――秋分だ。


枯れ葉が地面に触れた時、額に残っていた温度が音もなく消失した。


彼女は目を上げた――風が吹き、落ち葉を巻き上げ、空っぽの街角には誰もいなかったかのように。 まるで先ほどの全てが、秋の風に吹かれて散った幻影だったかのように。


「道中、お気をつけて」


16:36。


背後から言葉が聞こえたが、ノアはもう二度と振り返らなかった。


「もう一度、見なくていいのですか?」


セシリアは静かに彼を見つめた。


「……見ない」


ノアは前方を見据えていた。雨上がりの路面は夕陽に長く引き伸ばされている。


「見たら、行けなくなるから」


今回、彼の口調に震えはなく、悲しみもなかった。ただ胸腔に残っていた最後の重い空気を、ゆっくりと吐き出しただけだ。


「行こう」


彼は呟いた。


「旅に。一緒に景色を見に行こうぜ」


セシリアは彼の目尻に残る最後の一滴の涙光を見た。彼女は進み出て、彼と肩を並べて立った。光と影が交錯する街角で、ただ静かに一言答えた。


「はい。一緒に、旅へ」


ノアは横を向いて彼女を見た。少女の瞳には吹き散らされた雲層と黄昏の金色の光が映っている。彼は手を伸ばし、常に傍らに寄り添っていたその手を握った。触れた瞬間、彼は浅く笑った。


「これは必須項目だろ」


少女は顔を向けた。瞳にはノアの顔がある。彼の横顔を注視し、その声は紀元を越えてきたかのように柔らかかった。


「ハッピーエンド、見つけましたね」


16:42。


あの世界に別れを告げ、最後の一歩を踏み出した瞬間、旅は既に静かに始まっていた。


再び目を開けた時、目の前には変わらずあの白い線があった。虚空に永遠に浮遊する起点。セシリアの声が耳元で響き、いつもの平穏と澄明に戻っていた。


「全ての旅の始まりは、原始のアンカーに由来します。感情の爆発、共鳴、蓄積が、これらのアンカーを点灯させます」


彼女は言葉を切った。


「私は旅の記録者(レコーダー)です。それゆえ、本来の時間線に過度に干渉することはできません。干渉が深すぎれば、世界の因果構造を乱すことになります」


ノアは聞いていた。伏せた睫毛が微かに震え、思案するように言った。


「だから君は、極力自分の力を使わないようにしてるんだな」


セシリアは横顔を向け、応じた。


「正解です」


だがノアは突然笑った。気ままだが、決意を帯びていた。


「じゃあもし危険に遭ったらさ」


彼は彼女を見た。相変わらず明るい笑みだが、冗談めかしていながらも、目には揺るぎなさを宿している。


「俺が君を守ってやるよ」


セシリアは一瞬呆然とした。


守る?


彼女は視線を伏せた。第十三紀の記憶が彼女の基底でゆっくりと開かれる。それは光さえも逸散できない年代、果てしない暗闇、彼女でさえ演算しきれない静寂。 なのに目の前の少年は、何も知らない光の中でそんなことを口にする。


セシリアはそっと息を吐いた。それらの重い記憶を虚無へと散らすように。


「……守る、ですか」


彼女は低く呟き、視線はノアの横顔に落ちた。


「本当に……予測不可能な変数ですね」


「え?」


ノアはその虚無に溶けるような呟きを聞き取れず、ただセシリアの瞳の奥に、捉えがたい波紋が起きたのを見ただけだった。


「いいえ、何でも」


彼女は目を上げ、声はいつもの沈静に戻っていた。 そして、彼女は手を上げた。一層の柔らかな光がノアの身体を覆う。


「これは第一紀において、貴方の生命恒常性(ホメオスタシス)を維持する助けとなります」


ノアが答える間もなく、彼女は続けて言った。


「墜落(ダイブ)――始まります」


ほぼ同じ瞬間、あの馴染みのある平坦な光面が再び広がってきた。


ノアはそっと手を伸ばし、その上に触れた。身体は即座に、感情によって構成された深海へと引き込まれた。


今回は以前とは違う。 無数の色とりどりの光球が流星のように視界を掠め、捕らえる暇もないほど速く、残像だけが虚空に微弱な痕跡を引いていく。 それらは次第に疎らになり、沈静化し、一つまた一つと光芒が薄れ、透明へと回帰していく。


そして最終的に――目の前には一つの巨大な白い光球だけが残り、何もない深淵に静かに浮遊していた。


「あれが……最初の空白のアンカー」


それが、ノアの意識が闇に沈む前の最後の思考だった。


疲れた。 墜落前から心の奥底に埋まっていた倦怠感が、ついにこの瞬間に湧き上がり、彼全体を包み込んだ。彼はゆっくりと瞼を閉じ、辛うじて繋いでいたその手さえも、もう持ち上げる力はなかった。


『眠ってしまったのですか?』


その思考がふわりと浮かび、彼女の思考の中で微弱な波紋となって広がった。 彼女は振り返った。少年は既に深く眠っていたが、それでも彼女の手を繋いでいた。


セシリアはもう片方の手を上げ、指先でその最初のアンカーに軽く触れた。


「ゆっくり休んでください」


彼女は小声で言った。彼に応えるようでもあり、彼に代わって、墜落前のこの漂う静謐な刻(とき)を守るようでもあった。

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