D.iary-17その瞬間の選択と、書き換えられた運命

彼は猛然と、傍らの母を突き飛ばした。黒い傘が弾かれて手から離れ、地面に落ちて開いた。


世界は何者かの見えない手によって一時停止ボタンを押されたようだった。白い光は空気中で静止し、人影はずぶ濡れの路面に逆さに映り、雨水は半空で細い線となっている。


この凝固した瞬間、母を突き飛ばしたもう一人の自分を見て――ノアは躊躇った。


「もし今止まれば、俺はまた母さんに傘を差してやれるんじゃないか」 「もし今止まれば、俺はまた母さんと飯が食えるんじゃないか」 「もし今止まれば、俺はあいつの影に成り代われるんじゃないか」 「もし今止まれば、かつての幸福な日常は手の届くところにあるんじゃないか」


無数の「たぶん」、無数の「もしも」。全ての答えは指呼の先にあり、けれど遥か彼方にある。


この瞬間、彼は自分自身に問いかけた――何度も、何度も。


そして――ノアは彼の目を見た。


その自分と全く同じ目の中には、恐怖も、彷徨いもない。あるのは一種の決然、全ての重荷をついに下ろしたかのような釈然。 そして……口元に浮かぶ、隠しきれない苦み。


その瞬間、ノアの脳裏にふと母の声が響いた。


――『愛してる。いつだって、どこにいたって』


ノアは笑った。やるせないが、心からの降伏だった。


16:21。


彼は次に迎えるのは、生命の終点である闇だと思った。だが白い光が全てを飲み込む直前、突如として何らかの力が猛然と彼の肩にぶつかり、彼を激しく突き飛ばした――方向は、まさに母がいる側へ。


「誰だ――?」


彼はよろめきながら突き飛ばされ、勢いよく振り返った。


あるのは斜めに降り注ぐ雨幕だけ。水霧に砕かれたヘッドライトだけ。ただその一瞬――彼はぼやけた影を見たような気がしたが、次の雨粒が落ちると共に、跡形もなく消え失せた。


『確実な観測がなされない限り、波動関数は収縮しない』


16:22。


セシリアはノアがもう一人の自分を突き飛ばし、そのまま一切の保留なく、雨幕と車灯の間に立ちはだかるのを見た。


――これが、彼の選択か?


心拍が悲鳴を上げ、呼吸が乱れ、全ての生理パラメータが彼に「行くな」と告げているのに。


次の瞬間――彼女は腕を上げた。空気中の塵を払うかのように軽く。


「……選んだのですか。自らの手で、この幸福を返還することを」


彼女は低く呟いた。彼に問うようでもあり、自分自身に問うようでもあった。


その手が上がった瞬間、制御不能になっていたトラックが突如として運命に軌道を掴まれたかのように――巨大な車体がノアの横を奇怪に擦り抜け、理不尽な偏向を伴い、雨水と甲高いブレーキ音の中で、ゆっくりと路肩に停止した。


16:23。


運転手は慌てて運転席から飛び降り、靴底を雨水に滑らせながら、ほとんど転がるように事故現場へ駆け寄った。 彼は周囲を見回した――血痕はない、倒れた人もいない。あるのは道端に落ちて転がり、雨の中で震えている一本の黒い傘だけ。


さらにその先、彼は見た。 ――地面でしっかりと寄り添っている、あの母子を。 雨水が彼らの髪の先、指先から流れ落ちているが、彼らを引き離すものは何一つなかった。


彼は腰を屈め、その傘を拾い上げた。指先はまだ震えていたが、雨幕の中で傘を開いた。 そして、彼は何も言わず、ただ母子の傍らへ歩み寄り、慎重にその傘を彼らの頭上に差し掛けた。


土砂降りの雨が傘の布を叩き、鈍く密な音を立てる。


母はすぐに先程の恐怖から我に返った。まず深く息を吸って心を落ち着け、濡れた地面に手をついて身を起こした。 雨足は変わらない。彼女は手を伸ばし、運転手の震える手から傘を受け取った。運転手は申し訳なさそうな顔で、病院へ送ると繰り返したが、母はただ軽く手を振った。


「お互い様よ」


彼女の声は大きくはなかったが、緩やかさの中に落ち着きがあった。


運転手は一瞬呆然とし、謝罪と心配の言葉は結局何も口に出せなかった。彼はただ黙って背を向け、運転席に戻った。 曇った車窓越しに、助手席に置かれた包装の綺麗なケーキの箱が見えた――上には『誕生日おめでとう、愛しい子へ』と書かれている。


母は腰を曲げ、巨大な感情の衝撃から未だ立ち直れていないノアを抱え起こし、彼の肩の雨粒を優しく払い落とした。その動作は往時と変わらず優しかった。


彼女は先ほど事故が起きかけた道路の中央を振り返った――そこには何もない。


そして、彼女は低い声で言った。


「行こ。家に帰ろ」


16:31。


母と子は互いに支え合い、よろめきながら団地の入り口まで歩いた。雨音は止み、軒先から滴る水滴だけが残っている。母は身を屈めてノアの耳元で何かを低く囁いた。ノアは何度も何度も振り返り、目には心配と名残惜しさが溢れていたが、最終的には言いつけ通り一人で階段を上がっていった。


人影が建物の中に消える最後の一瞬、彼は自分の肩を触り、呆然とあの空っぽの路口を振り返った。


母は団地の鉄柵の外に立ち、微動だにしなかった。雨上がりの特有の清冽な風が、彼女の鬢を軽く掠める。彼女はゆっくりと振り返り、目の前の空き地を見つめた。まるでそこに、まだ誰かの体温が残っているかのように。


彼女は静かに口を開いた。


「母さんに見せて」


風が起きた。


ノアは目の前の母を見つめ、もう涙を流す必要はなかった。次の瞬間、彼は猛然と前へ出て、彼女を強く抱きしめた。両腕を回した瞬間、顕現レイヤーが音もなく解除された。


雨上がりの風が二人の間を吹き抜けるが、ノアは自分が世界で最も暖かく、最も強固な懐に包まれていることだけを感じていた。母の服は濡れて冷たくなっていたが、その抱擁はいつにも増して彼を安心させた。


「なんで……母さん、どうして分かったの?」


少年の声が震えて問いかけた。 母はすぐには答えず、ただ手を上げ、彼の乱れた髪の塊を優しく揉んだ。痛くないように、優しい動作で。


「自分の子が分からない母親なんて……いるわけないでしょ」


彼女の声は柔らかいが、揺るぎなかった。


セシリアはノアの背後の空気の中に静かに立ち、世界と見えない薄霧を一枚隔てているようだった。 彼女はその強く抱き合う母子を見つめ、ノアが母の肩に顔を埋めるのを見つめ、彼の久しぶりの笑顔を見つめた。


雨上がりの光が雲の切れ間から落ち、ノアの背中に落ち、彼女の指先にも落ちた。


「……その笑顔、久しぶりですね」


彼女は低く呟き、瞳の色が風に吹かれて幾分揺らいだようだった。


突然、ノアの母の声が静かな空気を貫いた。


「もうお一方も、どうぞ出てらしてください」


セシリアは呆然とした。予測、分析、リスクフィルタリングに使用される全てのモジュールが、その一瞬で一時停止ボタンを押されたかのようになった。


なぜ?


その問いが初めて論理推導の慣性を突き破り、彼女は自身の困惑を真に感じ取った。 彼女は無意識に否定しようとした――自分は見られるべきではない、この「家族式」の温度の中に組み込まれるべきではない、と。


だがノアが振り返り、ほとんど気付かないほどの、しかし無比に確信に満ちた頷きで彼女に応えた時――セシリアはかつてない何かが起きていることを感じた。世界が初めて、能動的に彼女へ手を差し伸べてきたのだ。


姿が空気から徐々に析出する。光が彼女の輪郭を思い出したかのように。雨上がりの雲層が完全に裂け、日光が遮るものなく彼女の肩を照らし、本来無機質だったその縁に温度を鍍金した。


ノアの母は目の前に突然現れた少女を見た。驚きが彼女の目に閃く――本能的で、自然的で、何の忌避もない。 だが、少女がノアを見つめる澄んだ眼差しを見て、驚きは安堵の眼差しへと変わった。ノアの母は静かに口を開いた。


「ご苦労様」


少女は静かにそこに立っていた。天の果ての太陽は誰かにそっと支えられているかのように雲の間に掛かり、最後の一抹の金色の残照を彼女に注いでいる。 光が落ちたその瞬間、優しい紅霞が織りなす薄いベールを、彼女に羽織らせたようだった。


セシリアは瞳を上げ、口角をゆっくりと緩めた――柔らかく、静かで、黄昏の全てが彼女によって完成されたかのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る