D.iary-8料理の賭けと、「家」という名の味
「ほら、リア。俺の自信作を食べてみてくれ」
ノアは湯気が立つスープを慎重に運び、キッチンから食卓へ向かった。 白熱灯の光が立ち上る白霧の中で拡散する。どこにでもある、ありふれた家庭料理だ。
セシリアは静かにそれを注視した。 彼女が先ほど作成した「第六紀の名物料理」と比較して――このスープの色艶は若干くすんでいる。 盛り付けには美的配慮が欠落している。 香りも最適化や制御を経ておらず、ただ最も一般的な人間の料理の匂いを放っているだけだ。
色調の不均一、芳香拡散の不安定性、食材切断の粗さ(ラフネス)が高数値……。 様々な「劣位性(デメリット)」が彼女の脳内で列挙される。 視線がノアの顔に落ちる――不器用だが、そこには全霊の真剣さと温度があった。 少女は指をスープへと伸ばした。
「カトラリーを使った方がいいよ」ノアが小声で注意した。
理解不能。 判断――これは「人間の食事礼儀(マナー)」であるが、その必要性は理解できない。 だが、彼女はノアの表情を見て、また半秒停止した。
……遵守(コンプライアンス)が、より適切か。
彼女は伸ばしかけた指をゆっくりと戻し、いささかぎこちない動作で傍らのレンゲを手に取った。 レンゲを握る動作は、未知で微妙なプロセスを実行しているかのようだ。
「……了解。カトラリーを使用します」
ノアは目の前の少女が、少し硬い動作でレンゲを口元へ運ぶのを見守った。
セシリアは一口含んだ。 次の瞬間、分析プログラムがほぼ本能的に起動する。 塩分濃度、加熱具合、油脂含有量。 全ての指標が彼女の脳内で高速に配列、分類、判定される。 その不安定な香りが舌先で静かに広がる。調味は拙いが、均衡(バランス)を追求しようとしている。 その誤謬(エラー)さえもが、ある種の「温度」を帯びていた。 彼女はそっとレンゲを置いた。
「……味は、予測と完全には一致しません」
良し悪しではない。だが、それが彼女が今提示できる最も真実なフィードバックだった。
「このスープの味は君の名物料理には敵わないだろうけど、これは俺だけの味だからな」
ノアは笑った。口調は軽いが、揺るぎない。
「君の料理は確かに美味い。けど……中には君の味がしない。君の感情がないんだ」
空気が軽く叩かれたような感覚。
――自分の料理には、「感情」がない? ――味覚フィードバックシステムは一貫性の最適を示しているが……。 ――ノアは「品質(クオリティ)」を評価しているのではなく、ある種の……非定量化要素について論じているのか?
彼女は目を上げ、真っ直ぐにノアを見た。
「……感情成分はレシピ要件に含まれていません」
「ちょっと怒った?」ノアが小首を傾げる。
「怒っていません。感情変動指数は正常範囲内です。貴方の判断は不正確です」 その言葉はあまりに速く、標準的すぎて、何かを証明しようとしているかのようだった。
ノアは軽く笑い、指摘はせずにレンゲを置き、椅子の背もたれに体を預けた。
「じゃあ、賭けをしよう」
セシリアは微かに眉をひそめた。「賭け、ですか?」
「君の次の料理で」
ノアは彼女を見据えた。 「スマートアシストなし、システム調味なし、自動化プロセスなし。君自身の感覚だけで作ってみてくれ」
少女は呆然とした。完全に理解できていないようだ。
「……私自身、だけで?」
「ああ」ノアは頷く。「怒ってないって言っただろ? なら証明してみてくれ――君の料理は冷たい計算じゃなくて、君自身の手で作ったものだってことを」
彼女はノアの表情を見た。そこには嘲弄はなく、ただ静かな期待があった。 最終的に、彼女は小さく頷いた。
「……了解。賭け(ベット)、成立です」
彼女は一拍置き、説明のような、あるいは言い訳のような一言を付け加えた。
「それに、私は本当に怒っていません」
ノアは更に明らかに笑った。「信じるよ」
キッチンには水音と、包丁がまな板を叩く微細な反響音だけが残った。 セシリアはコンロの前に立っていた。彼女の指先が食材の上で停止する。 二秒の静止――尋常ではないタイムラグ。 彼女はお玉一杯分を鍋に入れ、また止まる。眉をひそめる。 「感覚」で適量かどうかを判断しようと試みるが、彼女には「感覚」が何なのか不明瞭だ。 その判断の最中、彼女は初めて無意識の小さな動作を見せた。
お玉で鍋の縁をコツン、と叩いたのだ。
その後、彼女は野菜を切り始めた。動作は依然として流暢だが、もはや全ての切り幅が厳密に等間隔ではない。 数枚の厚みが不均一になり、途中でセシリアは手を止め、その不揃いな二枚を見つめ、視線をわずかに収縮させた。
――システムはこの誤差を許容しない。
彼女は深く息を吸い込み、切り続けた。
加熱。炎が踊る。記憶の中の手順が再現されていく。 ノアは目の前の、少し不器用だが一糸乱れぬ少女を注視していた。 窓外の雨音は激しさを増し、眼前の日常こそがノアの答えだった。
なぜ幻想的な冒険を拒絶したのか。ノアも夜中にこっそり自問したことがあった。 だが、あの決定を下した瞬間、答えは変わっていなかった。
これからの人生が水のように平坦だとしても、彼はこの安逸な幸福を大切にしたい。
だが、この平凡な日常は、不変なのだろうか?
キッチンには、鍋の中の最後の一煮立ちの音だけが残った。 セシリアはその瞬間、動作を止めた。
彼女は料理を見下ろした――色艶は不完全、盛り付けもいささか雑で、立ち昇る湯気の形状さえデータベースにある「理想状態」とは異なる。
指先が空中で微かに停止した。 確認するかのように。これで……「完成」なのか?
雨が窓を叩き、彼女の代わりに答えを出したようだった。
「答えは、もう出てるよ」
雷鳴。だがセシリアにはノアの声がはっきりと聞こえた。
動作が感知できぬほど微かに止まる。 彼女は顔を上げた。 その色彩を帯びた瞳が一瞬空白になる。「答え」という単語の意味を再校正(リキャリブレーション)するかのように。 そして、彼女は再びその料理を見た。
不完全。 非標準。 モデル予測と不一致。
だがこれは確かに、彼女自身の、唯一無二の――答え。 感情を纏った日常。これが彼の答えなのか?
「――受信(レシーブ)」 「貴方の『答え』、記録しました」
セシリアは、今向かいに座り、余計な塩味を「君の味がする」と言って笑うこの馬鹿な少年を見た。 今のように、彼が心から世界を一椀のスープに縮小することを望むような夜は、あとどれくらいあるのだろうか?
冷たい風が重い湿気を孕んで窓を叩く。一度、また一度。 まるで未だ到来せぬ狂暴な何かを予告するかのように。 遠くの街灯が点灯するが、空気中の湿った霧に飲み込まれ、黄色い光の輪郭しか残らない。 都市は暴雨の中で長く息を吸い込んでいる――窒息しそうな重圧が、世界の均衡を急激に崩していく。
時計は止まったままだが、時間は流れている。 待機(ウェイト)。まだ待機を試行中。
ログ、時間、17:52。
母からの返信が遅れている。ノアは捜索のための外出を選択。私は追従を選択。 環境湿度上昇。風速および風向は昨日の予測モデルと合致。 ノアはいかなる遮蔽物も携帯していない。リスク値増加。 進行ルート起動。総距離二キロ――履歴軌跡およびGISに基づき、ノアは自宅から母の勤務先までのルートを鮮明に記憶している。一歩一歩が私の予測座標とほぼ完全に重合。 体温維持システム自動アクティブ化。ノアの中核体温(コア温度)を安定維持。 前方ターゲット識別完了――五十メートル以内にターゲット人物出現。
待機――それは恐らく、誤った解答(エラー)。
感情模倣システムに混乱発生。未知の変数と推測。 マッチング。分析結果――『未練』と呼称される感情ユニット。判断に深刻な影響。
感情模倣システム――オフ。
彼の答えは既に知った。退場の刻(とき)かもしれない。
18:00。
俺は時間を見た。母さんの退勤から既に一時間が経過している。理屈で言えば、普段ならとっくに家に着いている時間だ。 不安が心に蔓延する。クラクション、雷鳴、様々な雑音が風に混じって襲いかかってくる。 跳ね上がる水飛沫は既に靴底を浸しているが、寒さはやって来ない。 身に纏うこの馴染みのある温もりで、俺はセシリアがすぐ後ろにいることを知る。 だが礼を言うのは後にしよう。母さんの会社は目の前だ。この道路の向かい側。
見慣れた灰緑色のコートが視界に入った。道路の向かいで母さんが手を振っている。
「さようなら」
聞こえた。彼女の声は相変わらず軽く、大雨の中に落ちる一枚の羽根のようだった。 振り返った時、そこには消えゆく光の輪郭だけが見えた。
「なんで?」
答えはとっくに知っていた。これは彼女にとって最良の退場タイミングなのかもしれない。 薄暗い街灯が俺の顔を照らす。目元の雨水がこの微光を映し、苦味を帯びる。 体の温もりが徐々に消散していく。母さんが俺の方へ歩いてくるのが見える。
俺は一歩踏み出す。目の前にあるのが、俺の選んだ日常だと知っているから。
白い光が俺の横を閃光のように通り過ぎる。 母さんが俺に向かって走ってくるのが見える。 体の温もりが完全に消失し、寒気が四肢に蔓延する。
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