D.iary-7嵐の前の静けさと、背中合わせの体温
セシリアの判断と誘導の下、それは恐らくノアの人生において唯一、スーパーのおばちゃんたちとの食材選び競争に完勝した瞬間だった。
スーパーの自動ドアを出た途端、冷たい風が隙間から吹き込んできた。まるで蓄積された寒意を彼に浴びせかけるのを待ちきれないかのように。 湿った匂いが、一層濃くなっている。
(天気が崩れるな……早く帰ろう)
ノアは心の中でコマンドを入力したが、寒風は彼の決定になど一切の敬意を払わなかった。 風は上着の裾を巻き上げ、首筋から侵入し、彼の歩みを重く、硬直させていく。
だが、寒気が骨の髄まで滲み込もうとしたその時――あの馴染みのある温もりが、音もなく近づいてきた。 見えない障壁のように刺すような風を遮断し、身体の震えを少しずつ退かせていく。
ノアは振り返った。 背後のセシリアは、依然として無言で佇んでいる。 表情は普段通り静かだったが、二人の視線が軽く触れ合った瞬間――彼女の瞳が極めて僅かに逸らされた。
ノアは小さな声で言った。
「……ありがとう」
彼女の睫毛が微かに震える。分類不能な入力を受信したかのように。 やがて、彼女は低く応じた。
「これは単なる……貴方のステータスを維持するための最適解です」
口調は相変わらず平坦だったが、最後の半拍に、検知し難いほどの温度が浅く滲んでいた。
セシリアの助力もあり、一歩も立ち止まることなく、ノアは最速で帰宅した。 外はすでに早朝の静謐さを失い、薄暗くなった空が空気中に隠微な不安を散布している。
ノアは買ってきた食材をテーブルに置いた。今の彼には昼食の献立を考える余裕はない。 スマホを手に取り、母の状況を確認しようとした矢先、数件のメッセージが画面にポップアップした。
『今日は雨が降りそうね。ご飯は出前でもいいけど、外食するなら傘を忘れずに』 『出前でフライドチキンは禁止よ。不健康だから』 『お母さん今日傘持ってないから、帰るの遅くなるかも。家で待っててね、外うろつくんじゃないわよ』
母と子の心は繋がっているというが、子供の感情は往々にしてワンテンポ遅れ、愛情さえも一歩遅れて届くものだ。
ノアは視線を落とし、素早くスマホのロックを解除した。 親指がキーボードに触れたその瞬間、セシリアは鋭敏に何かを察知した。 画面の内容は見えない。だが、強張っていた少年の肩がゆっくりと弛緩していくのが見えた。
指先がタップし、止まり、またタップする。 空気中の不安は残存しているが、ノアの表情は密かに変化していた。心の深層に隠されていた焦燥が、少しずつ撫でつけられていく。
セシリアは瞬きをし、静かに彼の傍らに立った。 彼女には見えるが、理解できない。感知できるが、触れられない。
――なぜ、彼女には不可視の文字列だけで、彼の眉目が和らぐのか?
ノアがスマホを置いた直後、指先の余熱が散るよりも早く、静圧のような視線が彼に注がれていることに気付いた。 横を見ると――セシリアがその場に立ち、淡い金色の髪が室内の微弱な気流に揺れている。 彼女は言葉を発さず、過度なほどに専心的で、静謐な眼差しで彼を凝視していた。 まるで彼の呼吸数、瞬きの震え、微表情、あるいは脈拍のリズムから、何らかの解を導き出そうとしているかのように。
その分析的な沈黙は――背筋が粟立つほどだ。
ノアは軽く咳払いをし、率先してこの奇妙な膠着状態を破った。
「ちょっと見すぎだって」
彼は可能な限り自然な口調を装い、彼女の「スキャンモード」から自分を救い出そうと試みた。
「準備して飯作ろうぜ」
彼はテーブルの上の袋を指差して付け加えた。
「今日の食材、無駄にするわけにはいかないからな」
短い静止の後、彼女は瞬きをした――感知できないほど軽微な動作。 ロックオンの感覚が徐々に散っていく。彼女が能動的にサーチライトを収納したかのようだ。
「……申し訳ありません」
彼女の声には、無意識の躊躇いが微かに混じっていた。
「既定の取り決め(プロトコル)に従い、栄養配分と調理プロセスは私が担当します」
冷静な口調だが、なぜか先ほどよりも現実の温度に近づいて聞こえた。 そして彼女は、音もなく、滑らかに半歩前へ出る。 だが接近したその一瞬、彼女の視線が再びノアの横顔を掠めた。彼が本当に安定を取り戻したかを確認するように。 その一瞬の停止は、短いながらも確かに存在した。
「全部君に任せる必要はないよ。こう見えても、俺だって料理の腕はそこそこなんだぜ」
極めて稀なことに――。 彼女は完全に無視した。
セシリアはノアを素通りし、軽やかな歩みで食材が並ぶテーブルの横に立った。 冷たい蛍光灯の下で金色の髪を揺らしながら、野菜を見下ろして審視する。
次の瞬間、彼女は一本の指を上げた。 余計な動作はない。 余計なコマンドもない。 まるで不可視の秩序が、彼女の指先で覚醒したかのようだ。
選ばれた数種類の食材が微かに震え、意識を与えられたかのように自律移動を開始する。 洗浄、水切り、スライス、加熱、炒め――。
動作は鮮やかで無駄がなく、音一つ立てぬほど整然としており、交響楽を指揮するかのような優雅なリズムさえ帯びている。 わずか十分――高級レストランから運ばれてきたかのような精緻な料理が、彼の前に恭しく置かれた。 色艶は清らかで、盛り付けは幾何学的に整い、香りさえも冷静な正確さを漂わせている。
「完了(コンプリート)」
彼女の口調はいつも通り平坦だった。
目の前のあまりに完璧すぎる料理を見て、ノアはようやく箸をつけ、豚肉を一切れ口に運んだ。 次の瞬間、彼の表情が一瞬止まった。味に軽く足を取られたかのように。 それを見ていたセシリアは、彼が嚥下するとほぼ同時に口を開いた。背筋をわずかに伸ばし、抑制された自信を滲ませて。
「いかがですか? これは私がデータベースの記録に基づき復元した『第六紀』の名物料理です」
平穏な口調だが、そこには「高評価であるはずだ」という期待が隠え見えしていた。
「すごく美味いよ。でも……」
「でも?」
「よし、俺がレンコンとスペアリブのスープを作ってやるよ。それを飲めば分かる」
野菜を洗い、切り、調味料を配合する……各工程は決して速くはないが、堅実だ。 最も不器用な方法で、細部のひとつひとつを最高のものにしようとしているかのようだ。
セシリアは静かに見ていた。 少年が強がっているわけではなく、ただこの一食を、真に自分の手で作り上げたいのだと気付いたかのように。
最後の工程はスープの煮込み(シチューイング)。 静かな気泡の音の中で時間が引き伸ばされ、空気さえも温かく緩やかに煮詰められていくようだ。 その長い待ち時間の間に、窓の外で燻っていた雨がついに落ちてきた。
最初は数回の鈍い音。天幕を叩く予告のように。 続いて密な雨足が降り注ぎ、空の色を一瞬で暗く染め上げる。 まだ午後だというのに、窓の外は宵の口、あるいはもっと深い夜のようだ。
ベランダのカーテンが風に煽られ、ふわりと舞い上がっては落ちる。雨の前特有の湿った冷気を孕んで。
「……一雨降って止むような雨じゃなさそうだな」
ノアは外の灰と白が交錯する雨の幕を眺め、思わず嘆息した。
路面の水溜まりが疾走する車輪に巻き上げられ、乱雑な飛沫を散らす。 クラクション、急ブレーキ、タイヤが擦れる悲鳴が混じり合い、朝の安らぎを容易く引き裂く。 まるで都市全体が、この雨によって焦燥を催促されたかのようだ。
その時――圧力鍋の唐突な蒸気音が、彼の意識を室内へと引き戻した。 ノアは壁の掛け時計を一瞥した。
――十二時。
彼は眉をひそめ、スマホを手に取って再確認する。
十三時〇〇分。
「電池切れか?」
ノアは呟いたが、今はスープの完成時間の方が重要だ。 彼は二枚の布巾で圧力鍋の両側の取っ手を掴み、息を吸って、安定した手つきで持ち上げる。 予め用意しておいた大鉢に、スープをゆっくりと注ぎ込む。 熱気が立ち昇り、薄暗い午後と窓外の雨音の中に、静かに広がっていく。
セシリアの注視する眼差しが、微かに止まった。 雨音がふと一拍遅れ、また降り続いた。
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