第2話 卒業式の裏側で

 校庭に流れる別れの歌が、冬の空に薄く溶けていく。

 私は自分の胸元を握りしめながら、卒業証書を抱えて歩いていた。


 今日で終わる――

 そう思っていた。

 いじめも、痛みも、息のしづらい毎日も。


 式の間、私はずっと前を向いたまま動かない舞台の文字を眺めていた。

「旅立ち」

 その言葉が自分とは無関係な、遠い世界の言葉みたいに感じられた。


 体育館を出ると、クラスメイトたちが写真を撮り、笑い合っていた。

 その輪の中心に、優斗の姿があった。

 いつも通り明るく、誰にでも優しい“彼”。


 私は遠くから見つめただけで、声をかける勇気などなかった。

 ただ、彼が笑っているのを見ると、それだけで胸が温かくなった。


 ――ようやく終わったんだ。

 彼に「ありがとう」と言うこともないまま、これでさよなら。


 そう思った瞬間だった。


 校舎裏のほうから、男女の笑い声が聞こえた。

 耳慣れた声。

 いじめていたメンバーのもの。


 私は足を止めた。

 行く必要はない。

 聞く必要もない。

 でも――身体が、勝手に動いた。


 柱の影からそっと覗くと、彼らは肩を揺らして笑っていた。

 その中心に立っていたのは――優斗。


「……まぁ、あいつ、ちょろかったよな」

「優斗が優しくするから、あいつ本気で頼ってたじゃん。ウケるんだけど」

「操るの上手くね? 佐伯って、ほんと外面いいわ」


 時間が、止まった。


 優斗が、笑った。


「だって、誰か一人が“味方っぽいこと”してた方が、あいつ苦しむだろ。

 ちょっと優しくすればすぐ信じるし、扱いやすかったよ」


 その言葉は、砕けたガラスみたいに胸に突き刺さった。


 喉が苦しくて、息ができなくなった。

 視界が歪む。

 足が震える。

 耳の奥で心臓の音が爆発するように鳴り響いた。


 私の――あの唯一の救いは。

 あの手の温かさは。

 あの言葉の優しさは。


 本物じゃなかった。


 私は何も言えず、何も考えられないまま、ただその場から逃げ出した。

 卒業証書を抱きしめて、息が切れるほど走った。


 その日、家で泣き続けた私は思った。

 “卒業”なんてしていない。

 終わったはずの地獄が、今まさに始まったのだと。


 優斗の言葉が、耳の奥で何度もこだました。

 操る。

 扱いやすい。

 ちょろい。


 あの優しさは、全部、嘘だった。


 その夜、布団に潜りながら私は初めて“憎しみ”という感情を知った。

 それはゆっくりと、確実に、私の中で育っていった。


 ――十年後、その憎しみが何になるのか。

 その時の私はまだ知らない。


 ただひとつだけ確かなのは、

 あの日、私はまだ“卒業”できていなかったということだけだった。

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