第35話「本分と影」

ユリウス・グレイは夜明けとともに目を覚ました。

王宮の一室、書簡と報告書が積み上がる机に昨夜の油灯の匂いが残っている。

冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、彼は自分の役目を思い出す。

王太子付き諜報係。だがその実態は、もはや半ば飼い殺しに近かった。


――リディア様追放事件の際、余計な口を挟まねばよかったのだろうか。


そう思うこともある。けれどあのとき、王太子の処分があまりに早すぎたのは事実だった。

彼女――リディア・グレイス・マクレインが無実である証拠はいくつも見つけられた。

だが耳を貸す者はなく、ユリウスの異議も冷たく退けられた。


それでも職務は終わらない。彼は今日も諜報部を通じて集まる報告に目を通す。

北の国境から届いた報。兵の数が通常より減じているという。

王太子妃となったエリザベートの裁可で、補給費節約の名の下に兵力が削減されていた。


「……愚策だ」


呟きを誰も聞く者はいない。だが、これがただの倹約策でないことは彼には分かっていた。

ヴァルハルゼン王国の動きが不自然すぎる。

密偵の報告では、彼らは国境から兵を退かせる素振りを見せていた。

だが同時に、陰で兵糧を大量に買い集めているという。

退いているふりをしながら、一気に攻め込む準備をしているのではないか――。


「王太子妃は利用されている」


声に出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。証拠はまだ不十分。

だが論理の積み上げはひとつの結論に行き着いている。

エリザベートは知らず知らずのうちにヴァルハルゼンの思惑に絡め取られ、結果として自国の防衛を削いでいる。


このことについて誰かと相談しなくては。

もし事実だったら取り返しのつかないことになる。

だが誰と?

王太子は彼を信用していない。

むしろ耳障りな諫言として処分されるのが関の山だ。

諜報部の同僚たちも、既に新しい妃の寵を得ようと彼女に従順だ。


「孤立無援か……」


それでも彼は自分の考えを書き記す。

言葉を研ぎ澄まし、万が一に備えて。

それが歴史の中でほんの一欠片でも意味を持つことを願って。


窓の外では王都の街が朝を迎えていた。

活気ある市場のざわめき、衛兵の交代を告げる号鐘。

どれも変わらぬ日常に見える。

だがその下に、じわじわと国を侵す毒が流れ込んでいる。ユリウスにはそれが分かる。


――リディア様なら、どうなさるだろう。


ふと浮かんだ名に、自分で驚いた。

彼女はもう宮廷にはいない。

ただの追放者に過ぎない。


けれど、その追放劇はヴァルハルゼンの謀略だとユリウスは睨んでいる

エリザベートの方が扱いやすいと思ったのだろう。

だが、それだけではない。リディアでは都合が悪かったのだ。


そのリディアの冤罪を晴らすために協力することを、ユリウスはリディアの父ギルベルトと誓い合っている。

隣国の王に負けないためにも、それが必要なことだと思えた。


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一方その頃、王都の裏通りをリディアとガロが歩いていた。

それは、聖獣に関する情報を図書館で得たその帰り道。

簡素な外套をまとい、フードを深くかぶっている二人。

追放された身であるリディアは、知人に見つかるわけにはいかなかった。


二人は表通りに出る前に、人通りの少ない路地で足を止める。

ちょうどそのとき、背後から足音が近づいてきた。

リディアは反射的に身構えたが、現れたのは一人の青年だった。


端正な顔立ちに、冷静な光を湛えた瞳。彼女にとっては見覚えの薄い顔。

コソコソし過ぎても怪しまれるので、リディアは普通にすれ違おうとした。

しかし、青年の方は一瞬、目を見開いた。


「……リディア様?」


声は驚きと確信の入り混じったものだった。

ガロが一歩前に出て、さりげなく彼女を庇う。


「あなたは?」


「ユリウス・グレイと申します。王太子付きの調査官です。……あなたが王都に戻られていたとは」


リディアは警戒を解かぬまま、青年を見つめ返した。

だが、ユリウスの方も困惑し、周囲を気にして落ち着かない様子だ。


「ここでは目立ちます。どうか、今宵、少しお時間をいただけませんか。お伝えすべきことがあるのです」


リディアは一瞬ためらったが、隣のガロが小さくうなずいた。

その表情に背を押されるようにして、彼女は静かに答える。


「……分かりました。お話を伺いましょう」


ユリウスの目に、わずかな期待が宿った。

孤独な調査官と追放された元貴族。二人の道が、いま交差した。

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