碧き枠の向こう、永遠の旅路

パラレル・ゲーマー

第1話

序章:筆跡の契約(西暦1025年)


 最後のひと筆が、私の瞳に光を灯した。

 乾ききっていない油絵具の匂い。窓から差し込む埃っぽい西日。そして、目の前で筆を置き、満足げに微笑む一人の老いた男。

 私の「生」は、そこから始まった。


「完成だ」


 男は枯れ木のような手で、私の頬――キャンバス上の絵具の層――に触れようとして、ためらって止めた。


「お前は美しい。私の魂のすべてを削り取って、そこに閉じ込めた」


 私はまだ言葉を持たなかったが、意志は既にあった。男の命が残り少ないことを悟っていた。彼の瞳は、燃え尽きる寸前の蝋燭のように揺らいでいたからだ。


「なぁ、私の傑作よ」


 男は咳き込みながら独りごちた。


「この絵具には、東方から取り寄せた特殊な鉱石を混ぜてある。千年、いや二千年は色褪せないだろう。お前は旅をするんだ。私の肉体が滅びた後も、遥か未来まで」


 私は、生まれたばかりの意識の中で冷ややかに思った。


(二千年? 人間ごときが。どうせ数十年で戦火に焼かれるか、カビに覆われて終わりでしょう)


 私の思考が伝わったわけではないだろうが、男はまるで会話をしているかのように続けた。


「人間は愚かだ。すぐに殺し合い、忘れ、壊す。……だがな、時折とてつもない輝きを見せることもある」


 男は、窓の外に広がる古都の街並みを見下ろした。


「二千年以上の旅をしてくれ。そして、見届けてほしい。人間という種がどこへ辿り着くのかを」


 私は心の中で嘲笑した。


(そんなに繁栄できるわけがないわ。もしそんな奇跡があるなら、一生見守ってあげるわよ。あんたの代わりにね)


 それが、私と「作者」との最初の契約だった。


第一章:愚者の檻(西暦2025年)


 契約から、ちょうど一千年。

 私は退屈で死にそうになっていた。いや、正確には精霊である私は死なないのだが、精神的な死という意味で。


 場所は、極東の島国、日本。東京と呼ばれる都市の美術館。

 防弾ガラスと温度管理されたケースの中、私は「中世の至宝」として展示されていた。


「見て、この青色。ラピスラズリだって。すごくない?」

「へー。あ、ちょっと待って、LINE来た」


 目の前を通り過ぎる人間たちの、なんと薄っぺらいことか。

 彼らは私を見ているようで見ていない。彼らの視線の先にあるのは、掌の中にある小さな光る板(スマートフォン)だけだ。


 この時代、西暦2025年の人類は、歴史上もっとも「愚か」に見えた。

 物質的には満たされているのに、精神は飢えている。

 世界中の情報が瞬時に手に入るのに、彼らは互いを理解しようとしない。

 画面の向こうの会ったこともない他者を罵倒し、自分たちで自分たちの首を絞めるような争いを繰り返している。


(ほらご覧なさい、作者。これが貴方が信じた未来の姿よ)


 夜、閉館した美術館の静寂の中で、私はため息をつく。

 ニュース映像が警備室のモニターから漏れ聞こえてくる。疫病、戦争、環境破壊。自分たちが住む星の寿命すら縮めている。


「滑稽ね」


 私は音のない声で呟く。


「あと百年も保たないわ。二千年の旅なんて、どだい無理な話だったのよ」


 彼らは自滅する――その確信があった。

 私はただ、その崩壊の様を特等席で眺める冷笑的な観測者に過ぎなかった。この時はまだ。


第二章:星の海へ(西暦3025年)


 振動が変わった。

 重力が消えた。


 あれから更に一千年。西暦3025年。

 私の予想は、心地よく裏切られた。


 私は今、美術館にはいない。

 窓の外に広がるのは、かつての青い空でも、灰色のビル群でもない。

 無限に広がる漆黒と、星々の海だ。


「区画E-4、重力制御安定。美術品保全プロトコル正常」


 無機質なアナウンスが響く。


 人類は滅びなかった。

 あの2025年の混沌、あの「愚かさ」こそが、彼らの起爆剤だったのだ。

 満たされない飢餓感が、彼らを地球という揺り籠から這い出させた。争うエネルギーは、生存圏を拡大する推進力へと変換された。


 私は今、恒星間移民船『アーク・ノヴァ』の最深部、人類の文化遺産を運ぶアーカイブ・ルームに飾られている。


 自動ドアが開き、一人の少女が入ってきた。

 銀色の髪に、肌に埋め込まれた微細な回路が光る。彼女はこの船の航海士だ。


「……おはよう、貴婦人」


 彼女は私の前で立ち止まり、ガラス越しに私を見つめた。その瞳には、かつての2025年の人間たちのような「濁り」がない。遥か彼方の星を見据える、透き通った意志がある。


「次は、ケンタウルス座α星系よ。貴方が描かれた地球からは、もう何光年も離れてしまった」


 彼女は微笑む。


「でも、私たちは進むわ。貴方を連れて。どこまでも」


 私は木枠の奥で、千年前の嘲笑を撤回した。


(これだから……これだから人類は面白いのよ)


 彼らは脆い。宇宙線一つで死ぬような脆弱な肉体だ。

 だが、その魂は私が知るどんな鉱石よりも強靭だった。


「約束を守るわ」と、私は思った。

 二千年どころではない。あなたたちが星の海を泳ぎ切る、その最果てまで、私は付き合うことにしよう。


第三章:エントロピーの彼方で(西暦12025年)


 旅は、さらに続いた。

 作者よ、聞いて驚くがいい。

 私たちが今どこにいるのか、あなたには想像もつかないだろう。


 人類は肉体を捨てた。あるいは、より高次のエネルギー体へと進化した。

 かつての「人間」の形をしている者は、もう少ない。ある者は機械と融合し、ある者は意識だけの存在となり、銀河のネットワークそのものとなった。


 だが、彼らは私を捨てなかった。

 物理的な実体を持つ「絵画」である私は、彼らにとっての「原点」であり、失ってはならない「アンカー」だったのだ。


 そして今、宇宙は終わりの時を迎えようとしていた。

 『熱的死』。エントロピーの増大。

 全ての星が燃え尽き、宇宙が冷たく静寂な無へと帰する、物理法則の逃れられぬ結末。


 しかし人類は、その運命にすら抗おうとしていた。


「演算完了。特異点生成プロセス開始」


 私の目の前――それは巨大なダイソン球殻の内部にある、祭壇のような場所――に、かつての人類の姿を模した意識体が集まっていた。

 彼らは宇宙の寿命そのものを書き換えようとしていた。

 崩壊する宇宙のエネルギーを一点に凝縮し、新たなビッグバンを人為的に引き起こそうというのだ。


 それは神への冒涜か、あるいは神を超える偉業か。


 意識体の一つが、私に語りかけてきた。声ではなく、直接的な思念として。


『見ていてくれ。古き観測者よ。我々が生まれた意味を』


 私は理解した。

 なぜこの広い宇宙で、あんなにも脆弱で愚かな「生命」が生まれたのか。


 冷たく死にゆく宇宙にとって、生命とは「熱」であり、「混沌」であり、そして「可能性」そのものだったのだ。

 静寂に向かう流れに逆らい、再び火を灯すための、宇宙自身が生み出した抗体。

 それが人類だった。


(ああ……)


 私は油絵具の肌を震わせた。

 2025年に見た、あの混沌としたエネルギー。あれは無駄ではなかった。

 あの無秩序な熱量こそが、今、凍りつく宇宙を再点火する種火なのだ。


 空間が歪む。

 視界が白光に包まれる。

 私のカンバスも枠も原子レベルで分解され始める。だが、恐怖はない。


 私はついに、約束を果たしたのだから。


終章:円環の中で


 光の中で、私は懐かしい気配を感じた。

 筆の匂い。埃っぽい西日。


「どうだった?」


 あの老いた男、作者がそこにいた。時間は円環となり、始まりと終わりが重なる場所。


 私は、今の私自身の言葉で答えた。


「ええ、最高の旅だったわ」


 私は誇らしげに、消えゆく意識の中で微笑んだ。


「人間は愚かで、無様で、そして……宇宙を救うほどに美しかった」


「そうか」


 男は満足げに頷いた。


「なら、次の絵を描こうか」


 新しい宇宙が生まれる。

 そこにはまた、愚かで愛おしい命が芽吹くだろう。

 私はその全ての物語を知っている。


 碧き枠の向こう、私の旅はまだ終わらない。

 永遠に、彼らを見守り続けるのだから。


あとがき

「1000年生きてる」を聞いてて書きました。

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碧き枠の向こう、永遠の旅路 パラレル・ゲーマー @karip

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