第5話 銀の亀の背に乗って

 まくのような水面みなもを抜けた瞬間、世界が変わりました。重かった空気がすっと軽くなり、足もとがしっとりとしたこけに沈みます。息を吸うと、冷たい岩の匂いと、わずかな水の香りが混ざっていました。

 わたくしの耳の奥がじんと冷やされます。空気が変わると、思考の重さまでどこか置いてきたようでした。門の外とは違う鼓動が、大地の奥からゆっくり響いてきます。さかいを越えるとは、こういうことなのだと静かに理解しました。


宗田そうださん!」

 声がして、ルルさんが駆けてこられます。


 柔らかそうな茶色の髪が、湿った日を受けて波のように揺れています。青龍の力で年相応の少女になられたとはいえ、まだ華奢きゃしゃです。白く光を返す肌と、小首を傾げる癖が、わたくしの目には少し幼く映ります。


「よかった……通れたのですね」

「ええ。どうやら"資格あり"だったようで」


 少し待つと、岩尾さんが現れました。


「おお、お待たせ!」

 岩尾さんは背が高く、肩幅も広い方です。筋肉の量も多そうですが、足取りは軽やかでさすが武道家でいらっしゃいます。荒削りな顔立ちの奥に、訓練された獣のような鋭さと、意外なほど繊細な目の光があります。


 彼は顔を上げて笑い、ほっとした様子で言いました。

「自信なかったけど、宝珠があったから通れたらしい。冷や冷やしたぜ」

 胸元から白い光をそっと取り出して見せます。

「シロのおかげだな」


 白虎の双珠そうじゅの片割れ――あれが今も、わずかに輝いていました。

 岩尾さんが白虎の双珠を手に取って見るときはいつも、とても優しく深い目をなさいます。

 白虎のシロさんを思うのはもちろんでしょう。

 でもあのまなざしに含まれるかすかな甘さ、あれは人を恋う色です。"砂漠の天使"アシャさんを想うまなざし。


「……あとはラウス」

 ルルさんが小さくつぶやかれます。その言葉に、三人は自然と門のほうを振り返りました。


 けれど、どれほど待っても、あの方の姿は現れませんでした。沈黙ばかりが流れ、門は静寂を保ったままです。


 やがて、地面の奥から低い声が響きました。

「熊は、資格がなかったから来ない」


 三人が驚いて声の主を探すと、岩壁の陰から、ゆっくりと巨大な亀の姿が現れました。鈍い銀色の甲羅、岩のような体――ザラタン様でした。


「資格が……なかった?」

 ルルさんが目を丸くされます。

「うむ。資格のない者は、門に拒まれるだけじゃ」


 岩尾さんが思わず言葉を返します。

「資格って、なんなんだよ。ラウスが何か悪いことしたのか?」

「そうではない。"あかし"が足りなかっただけじゃ」


 わたくしは黙って考えました。

 ――資格とは、おそらく"聖獣との関わりの深さ"を測るものなのでしょう。


「わたくしは、玄武様の遠縁にあたります」

 静かに言いました。

「それで通されたのかもしれません。眷属として、ほんのわずかに認められたのだと思います」

「俺は、白虎の宝珠」岩尾さんが言います。

「わたしは、青龍の加護だって言われました」ルルさんが続けます。


「ならば」わたくしが言いました。「なにかしら聖獣とのつながりを示すものが必要なのでしょう」

「ラウス様が、それに気づかれるかどうか、ですね」


 静寂。

 岩尾さんが腕を組み、ぼそりとつぶやきました。

「もしなんとか気づいたとして。シロのとこか、朱雀のグンザじっちゃんのとこに行くか、どっちかだな」

「青龍はないですね」わたくしがそう断じると、岩尾さんがすかさず言いました。

「あいつ、龍の逆鱗げきりんを殴ったからな」

「そうでした……」ルルさんが思い出し笑いをされます。


「ファルクが最初に通らず待機したのは、これを見越してのことだったか」岩尾さんがポツリと言います。

 わたくしも「おそらく」と頷きました。


「玄武のところに行くなら、案内してやろう」

 ザラタン様が言われました。その声は重く、しかしどこか親しみがあります。

「サービスいいな」岩尾さんがつとめて快活な声を出されました。


「よじ登れ」

 巨大な、渋い銀色の甲羅がゆっくり傾きます。足をかけると、岩よりも確かな弾力がありました。三人は互いに手を貸しながら、甲羅の上へ上がります。


 ザラタン様がゆるやかに動き出されました。地面が波打ち、歩くよりもゆっくりと進みます。周囲の景色がなだらかに変わっていきます。


 山ではありませんでした。大地そのものが、うねりながら続いていました。岩のような銀の亀の背に乗りながら、わたくしは空気の湿りを感じていました。どこからともなく、水の音がします。だが川は見えません。


「……生き物の気配がしませんね」わたくしが言います。

「ここは"玄武の地"じゃ。ふつうの生き物は入らぬ」ザラタン様が答えられます。

「では、私たちは?」

「おぬしたちは資格ある者。生き物でありながら、"境の側"に立つ」

 どこか含みのある声でした。


 あまり会話もないままに、ザラタン様の歩みは続きました。悠久の時が過ぎていくような感覚。

 

 ふと、ザラタン様が立ち止まりルルさんを見られました。

「青龍の加護の娘よ。おまえは、なぜそれほど強い加護を持つ?」


「そうなのですか?」ルルさんが目を瞬かせます。「たぶん、母が青龍様の娘だからでしょう。母は人魚です。父は人間ですが」

「ほう……なるほど」

 ザラタン様の瞳に光がともります。

「青龍殿はよくもまあ、それほどの力を人の子に託したものじゃ」

 わたくしが静かに言葉を添えます。

「なにより――ラウス様がヒグマになって暴走しかけたときに、こちらへ引き戻せました。あれは癒しを超えた"呼び戻す力"です。あの才は、そう多くはありません」


「呼び戻す力、か」ザラタン様がうなずかれます。

「癒しよりも、引き戻す力のほうが上じゃな」


「引き戻す力……?」ルルさんが小さくつぶやかれました。

「命を癒す者は多い。だが、心を呼び戻す力を持つ者は少ない」

 ザラタン様は少し寂しそうにそう告げられ、またゆったりと歩き始められました。


 しばらくして、わたくしはふと気になって尋ねます。

「ルルさん、宝珠の様子やルルさんの体調に変わりはありませんか?」

 ルルさんは、胸元の青龍の宝珠に手をやって、にっこりと笑われます。

「はい。玄武様の地との相性は良いようです」

「そうですか。やはりどちらも『水』にも関わりますからそのためかもしれません」

 わたくしはほっといたしました。

 

 そしてまた沈黙が落ちます。どこかで、細い水の音が聞こえました。岩の継ぎ目をすべるように風が動き、湿り気が肌にまとわりつきます。沈黙は重くなく、ただ深いものでした。

 この土地は言葉を奪うのではなく、考える余白を与えている――わたくしはそんな感覚を覚えました。

 流れているのは川ではありません。

 ――地そのものが、静かに息をしている音でした。


「ラウスがいないと静かね」

 ルルさんがぽつりとつぶやかれます。わたくしは甲羅の上でそっと動き、ルルさんの側に寄り添うように座りなおしました。


 * * *


 そのころ、空のほうは――うるさかった。


 炎の尾をひいて、俺とファルクは北の空を翔けてる。空気が焼けて吠える。


「ファルク! 急げ! もっと右だ! いや左! いややっぱ右!」

「どっちッスか!? ラウスさん、進路ぐらい決めてほしいっス!」

「体感だ体感! 俺の熊感がこっちって言ってる!」

「熊感ってなんスか!?」


 俺は身を乗り出す。

「ほら、あのへん! 岩が割れてるとこ!」

「割れてる岩なら北山ぜんぶそうッス!」

「細けぇこと言うな! あれが玄武の門だって!」


「はいはい、もうちょい右ッスね~!」

「そう、それだ!」

「わかってるっス。ほんとにうるさい乗客!」


 ファルクが翼をひるがえすと、炎の尾が空を裂いた。赤金の軌跡が空を巻いて、雲の切れ間から――静まり返った岩の門が見えてきた。


 到着するやいなや俺は、ファルクがまだ空中にいるうちから飛び降りて、腕を振り上げて叫ぶ。

「おーい!ザラターン! 来たぞ! 資格見つけてきたぞ!」

 だが、しんと静まり返ったままだ。

「おーい! じいさん亀! 出てこーい!!!」

 

 ――返事はない。俺の声だけが山に反響する。


「ザラタン翁は、お留守のようですね」

 ファルクが冷静に言う。

「留守かよ!」

 俺はがっくり肩を落とした。


「ファルク、ちょっと飛んで呼んで来い!」

「ザラタン翁のお許しがないのに」

「俺が許す!」

「そんなことしたら出入り禁止っス」

出禁上等できんじょうとう

「勘弁してくださーい!カスハラお断りっス」

 ファルクが困り顔で羽を丸める。

 

「気長に待ちましょう」

「待てねえええええ!!!」

 灰色の空に、俺の絶叫が響いた。


 * * *


 宗田は空を見上げた。

 灰色の空に、かすかな青がのぞいている。遠くで、雷のような低い音が鳴った。

 ――どうにも、ラウス様の声に似ている。


 思わず、ほんの小さな笑みが胸に浮かんだ。

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