第4話 信頼
火の海の奥で、ゆっくりと風が巻き上がった。その中心から、
熱のうねりが耳の奥まで届いて、足元の岩がかすかに震えた。溶けた金属を流し込んだような地表がゆらめく。俺は気づけば息を潜めていた。島そのものが、巨大な心臓みたいに脈を打ってる。
その輝きの中で――
「久しいな、ラウス」
「ギンシュさん! 会いたかった!」
俺は勢いよく手を振った。
「少し落ち着け」じっちゃんが小声で言う。「ギンシュは今は朱雀だぞ」
そして朱雀に向き直って頭をかく。
「すまねえな。バカな孫で」
朱雀は、笑うように目を細めた。
「ラウス。いつでも歓迎だが、今日は何か用だったのか?」
「うん! 聞きたいことがある」
「言ってみなさい」
「玄武の門、俺だけ通してくれなかったんだよ。何か資格だとかアイテムみたいなのがいるらしい」
「それをわたしに与えろと?」
「違う! 聞きたかったんだ。たとえばギンシュいや、朱雀さんだったら」
「ギンシュでよい」
「ギンシュさんだったら、"相手を認めたら何を渡すのか"を教えてほしい!」
「なるほど。わたしが認めたら与えるもの、だな」
「そうだ」
「それはもちろん、宝珠だな」
隣でじっちゃんが低くうなった。
「宝珠は渡さん!」
「じっちゃん、わかってるって!」
「それから……灰だな。わたしの燃えたあとの灰だ」
「あー、あれ! ギンシュさんの灰! でももう残ってねぇ。じっちゃんを生き返らせるために全部使っちゃった」
「ラウス……」じっちゃんが困ったようにつぶやく。
「きれいさっぱりない!」俺は胸を張って言う。
「そうだったな」ギンシュさんは穏やかな声で答える。
炎がゆるやかに揺れて、火の粉が落ちるたび、青がかすかに混じっていく。
その色の中で、俺はぽつりとつぶやいた。
「……なんかさ、ギンシュさんといるとルルのにおいがするんだ。落ち着く」
「ルルのにおい、か」
朱雀が目を細める。
「それはあの
「ルルの癒しのにおい……会いてぇな」
言ったあと、自分の声が思ったより弱くて驚いた。照れ隠しのように大きな声を出す。
「ルルは今ごろ岩尾も一緒だから大丈夫だ!」
「岩尾?」ギンシュさんが尋ねる。そうだ、会ったことなかったな。
「うん。俺の親友。人間で、すげえ気持ちのいいやつだ」
急にギンシュさんの火が大きく揺れた。
「ん? ギンシュさん、大丈夫?」
俺が聞くと、ギンシュさんは答えた。
「ああ。……だが」一瞬、言葉が止まる。「代々の朱雀の記憶が、まだ騒いでいる。人間への......憎しみが」
「むかしの朱雀の? ギンシュさん、大丈夫なのか?」
「グンザがいる。抑えられる」
ギンシュさんはいつもの穏やかな声で言って、じっちゃんを見た。
「そうだ。任せておけ」
じっちゃんが頼もしく胸を張る。
でも――
そのときの炎の揺れが、なんとなく気になった。
少しの沈黙のあとで、俺は小さく顔を上げる。
「――あれ? ギンシュさん、認めたら灰を渡すって言ってたよな。ってことは、俺、もう渡してもらったよな。つまり、俺のこと、もう認めてくれてたってこと?」
「いまごろ気づいたのか」
朱雀が微笑する。
「えー! じゃあなんかくれー!」
「ラウス!」
じっちゃんの
「いってえ!」
朱雀が柔らかな羽音をさせる。笑ってるんだろうな。
「わたしからこれ以上何かを与えれば、それは"
「俺はギンシュの眷属だ」
じっちゃんの声だった。静かで、確信に満ちている。
「そうだ。だがラウスは、まだ誰の眷属にもなるべきではない」
朱雀が応じる。
「ラウスは途中の者。まだ、誰の下にも属さぬ自由を持っている」
「それに――」朱雀が目を細めた。
「ラウスを独り占めしたと、青龍や白虎に恨まれるかもしれぬしな」
「恨まれる?」
朱雀は何も答えず、炎の中で笑った。
「わたしから直接何かを与えるのは控えよう」
朱雀が、静かに言った。
「だが、信頼された眷属から託されるのならば――それは、よいのではないか?」
「眷属から……託される?」
俺が首をかしげる。
「つまり、俺か」じっちゃんが腕を組んで言った。
「じっちゃんが?」
「他に誰がいる」
じっちゃんが首をひねって考える。
「とはいえなぁ……おまえに渡せるものなんて毛くらいしか……」
「毛はちょっとなんだかな!」
「
「爪とか?」
「いや、爪はまた伸びるけどなぁ……あんまり縁起がよくねぇ」
「じゃあ、牙とか」
「牙ぁ!? バカ言うな! 牙がなけりゃ宝珠の
最後のほうで声が小さくなる。
「ような気がするってなんだよ」
「自信はねぇ!」
俺があきれたようにため息をつくと、朱雀がくすくすと笑った。
「どうやら、"贈り物"はなかなか難しそうだな」
「そりゃそうだろ!」じっちゃんが反射的に言い返す。
「俺はヒグマだぞ! そう簡単に牙なんざ――」
そのときだった。
火の海の向こうから、さらりと風が流れた。熱の匂いの中に、微かに冷たい鉄のような気配が混じる。
朱雀が羽をひと振りして言った。
「……来たようだな」
炎が割れて、その奥から一人の大きな男が歩み出た。灰色の髪、鋭い眼光。まっすぐ立てた耳。豊かな尻尾が揺れている。
狼男――ライカさんだった。先代朱雀の
「……ライカさん!?」
俺は思わず立ち上がる。
「いまの朱雀の眷属でなくとも、聖獣の眷属であればよいのだろう?」
低い声。
「ならば、わたしの牙を使え」
じっちゃんと俺の声が重なった。
「はあっ!?」
「ライカさん、何言って――!」
「狼の牙っつったら、狼の象徴みたいなもんじゃねぇか!」
ライカさんは静かに笑った。
「しばらくは、牙がなくとも問題ない。わたしの主の目覚めは、まだずっと先だ。そのころまでには、また生える」
「ライカさん……でも、それは――」
止める間もなく、ライカさんは手を伸ばして、ためらいもせず自らの牙を折った。短い音が、乾いた空気の中で響いた。
「ライカさん!!!」
俺の叫びが、紅蓮の島にこだまする。
折れた牙を、ライカさんは掌に包んで、俺の前に差し出した。
「おまえのおかげだ、ラウス。朱雀の苦しみは救われ、宝珠は受け継がれた。心から感謝している」
俺の目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「じぶんで……狼が牙を折るなんて……そんな……ライカさん……」
言葉にならない。
ライカさんはかすかに微笑んだ。
「泣くな」
俺の両手を取って、その手の中に、狼の牙をぎゅっと握らせた。
「これは、わたしのおまえに対する信頼の証だ――きっとおまえの"資格"となるだろう」
俺の喉が震える。
「……俺が、もらっていいのか」
「おまえだからだ」
ライカさんの声は、炎よりも穏やかだった。
「おまえが欲しがっている。理由はそれで十分だ」
俺は涙で視界が滲む中、その牙を強く握りしめた。熱く、重い。でも、痛みじゃなかった。
――体の奥の、何かが形になった気がした。
「……ありがとう、ライカさん」
「気にするな」
「……やれやれ。情の深いやつだな」
「おまえもだ、グンザ」朱雀が穏やかに羽を鳴らす。
「……まいったな」
炎がふたたびゆらめいて、ライカさんの姿が朱に溶けていく。最後に、彼の声だけが残った。
「その牙を持って行け。進め」
火の粉が散って、静寂が戻る。
俺は涙をぬぐって、ぎゅっと拳を握った。
「俺、絶対やり遂げる」
朱雀が穏やかにうなずく。
「行け。おまえの道は、まだ途中にある」
俺は深く頭を下げる。その手の中には、狼の牙が静かに光っていた。
「ファルク」
駆け寄る。「もう一回、北だ」
「承知! 不死鳥タクシー、再び北行きっス!」
翼が再び空を切った。朱雀とじっちゃんが見送る姿が遠くなる。風が吠える。
「待ってろよ、みんな!」
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