第2話 招待状は、甘い毒煙の香りがした

 雨は世界を灰色に塗りつぶす薄汚い絵の具にすぎない。

 装甲馬車の分厚い防弾ガラスを叩く雨音を聞きながら、俺は感傷に浸っていた。泥濘ぬかるみに車輪を取られ、馬車が大きく揺れる。


「……酷い顔ね。お嬢ちゃんデーヴァチカ


 紫煙の向こう側で毒のある華が笑った。

 向かいの席に優雅に足を組んで座っているのは、この部隊の参謀にして王国の「捕虜」――ヴェロニカ・ルージュだ。

 燃えるような赤毛。胸元が大きく開いた深紅のドレス。白磁の指先で弄ぶ細長い煙管キセルが彼女のトレードマークだった。


「私の顔色が優れないのは気圧と、向かいに座る魔女が吐き出す煙のせいですよ」

「あら失礼。でも換気窓を開けたらもっと酷い臭いが入ってくるわよ?腐った泥と死体と鉄の臭いがね」


 ヴェロニカは、ふぅと紫色の煙を吐き出しながら目を細める。

 帝国に踏み潰された小国アストレイアの元・宮廷魔術師。生き延びるために祖国を売り帝国に尻尾を振った『毒婦』。だが俺は知っている。この女の魂が、いまだ冷たい硝煙と誇りに飢えていることを。

 そういう意味では、この馬車の中で俺たちは「共犯者」だった。


「状況を整理しましょう。……敵将からの『招待状』について」


 先ほど前線に届いた手紙には、流麗な筆記体で『中立地帯の廃教会にて、停戦に向けた建設的な茶会を希望する』と記されている。


「差出人はヴォルガ帝国第4師団長、ハインリヒ・シュトラッサー准将。通称『人間蒐集家マリオネット・メーカー』よ」


 ヴェロニカの声色が温度を下げた。


「知っているでしょう?捕虜を生きたまま解剖し、機械部品と魔法術式を埋め込んで『再生リサイクル』させる合理主義の怪物。……狙いは聖女である貴女よ、お嬢ちゃん。永遠に魔力を産み出す『発電機』として飾るつもりだわ」


 彼女のアメジストのような瞳が俺を値踏みしてくる。俺は無表情で肩をすくめた。


「怖いですね。考えるだけで震えが止まりませんよ」

「嘘つき。心拍数、一つも上がってないわよ」


 ヴェロニカは鼻を鳴らす。

 俺も前世、同じ帝国の軍人として奴の『仕事』を嫌というほど見せつけられた。肉体という神殿への信仰がない、工場長の管理思考。一番反吐が出る相手だ。


 俺はスッと手を伸ばし、ヴェロニカの指から煙管を取り上げ――まだ火のついている吸い口を、躊躇いなく自分の唇に寄せた。


「ちょっ……!何をしているの!?」

「……毒味ですよ。貴女が変な薬物を吸っていないか確認させていただきます」


 建前を口にして俺は肺一杯に煙を吸い込んだ。途端、聖女の過敏な肺胞が痙攣し強烈な拒絶反応を引き起こす。むせ返り涙が滲み、喉が焼けるように熱い。だがその強烈な刺激こそが、俺が「生」を感じる唯一の味だった。


「……馬鹿な子。無理しちゃって」


 ヴェロニカが苦笑しながらハンカチで俺の口元を拭ってくれる。


「……不味まずいですね。もっとガツンと来る、労働者向けの煙草はないのですか」

「呆れた。ここは戦場の真ん中よ?」


 ヴェロニカはそう言いながら俺の手から煙管を受け取る。そして流し目でこちらの反応を伺いながら――俺が咥えたばかりの吸い口に、ゆっくりと自分のルージュの引かれた唇を重ねた。


「……ふぅ。いい味」


 彼女はうっとりと目を細める。まったく、これだから性悪女は嫌いなんだ。


 ガコンと大きく馬車が跳ねて停止した。到着だ。

 俺はドレスの皺を伸ばし、太腿の『罪咎ザイ・キュウ』の固定を確認する。


「行きますよ、ヴェロニカ」

「ええ。エスコートして頂戴、私の小さな共犯者パートナー


 俺たちが立ち上がると同時に外からドアノブが回され扉が開いた。

 そこに立っていたのは、雨音のみを衣として纏う暗殺メイド、セツナだった。


「……ご主人様、どうぞ。エリア確保完了クリア

「ご苦労、セツナ」


 俺が馬車に籠もっている間、彼女は俺の命令通り別ルートで「先行偵察」し、すでに周辺の脅威を排除していたのだ。

 俺は彼女の手を借りて泥の大地に降り立つ。横を見れば、馬車の車輪よりも巨大な鉄の塊――蒸気を吹き上げる『魔導装甲軍馬』に跨ったリーゼロッテが、大剣を構えて周囲を警戒していた。


(やれやれ。うちの女どもは、どいつもこいつも頑丈すぎて可愛げがねえな)


 だがその強固さだけが、今の俺には頼もしい。

 目の前には半分崩れ落ちた廃教会の尖塔がそびえ立っている。

 鼻孔を突き刺すのは俺が何よりも愛する鉄錆と、そして臓物が腐ったような甘ったるい死臭だった。

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