聖女のスカートの中には、祈りよりも重い鉄がある

すまげんちゃんねる

第1話 泥とレースと禁断症状《ウィズドロール》

「……ない」


 絶望的な呟きは、天幕を叩く豪雨と重砲撃音にかき消された。

 視界を埋め尽くすのは最高級のシルクと金刺繍。だが枕元の『聖別されたニッキ飴』の小瓶は空っぽだ。


(クソッ……。誰かタバコを持ってこい。『黒犬ブラック・ドッグ』の両切りを!)


 俺は苛立ちに任せ、乱暴に自分の顔を覆った。視界に入ったのは無骨な軍人の手ではなく、白魚のような指を持つ芸術品のような手だった。


 ヴォルフガング・シュタイン。帝国軍遊撃隊長として四十八歳で爆死したはずの俺の魂は今、敵国で一番尊い『第1聖女』セレスティア・フィル・アインスという硝子細工の着ぐるみ容れ物の中に押し込められている。

 この体に転生して半年。ニコチンを摂取すると高熱を出す自動浄化機能のせいで、飴を噛み砕くことでしか精神を保てなくなっていた。


 俺はシーツを蹴り飛ばして起き上がろうとしたが、動かない。腰から下が、まるで万力で固定されたかのように重い。


「……んぅ。どうされましたか、私の光……」

「……ご主人様、心拍数あがってる。……具合、悪いの?」


 両脇からぬるりとした熱が迫ってきた。

 右からは無数の刀傷が刻まれた戦士の腕。王国最強の騎士団長、リーゼロッテ。左からは子犬のような暗殺メイド、セツナ。二人とも薄いネグリジェ姿で、俺の聖女ボディにしがみついている。昨晩の「聖女様の加護がなければ悪夢を見る」とかいう陳情を受け入れた結果がこれだ。


 リーゼロッテの豊満な胸と、セツナのしなやかな肢体。肌と肌が吸い付くような濃密な湿気。枯れた男にとっては過ぎた極楽だろう。


(最高に気持ちいいが……これじゃあ、弾の入っていない銃で殴っているようなもんだ)


 精神ソウルは女を抱く気満々でも、感度の良すぎる聖女の肉体ボディでは、彼女たちの愛撫に悦び震えることしかできない。目の前で喘ぐ獲物を前にして、最後のとどめを刺せない欠落感こそが、今の俺にとって最大の拷問だった。


 俺は湧き上がるもどかしさを聖女の微笑みで蓋をして、なんとか腕を引き抜き冷徹に指揮オーダーを下した。


「……おはよう、子羊たち。起床時間は過ぎていますよ」

「リーゼロッテ。貴女の重装鎧フルプレートは三秒で着装可能だったはずですね?」

「セツナ。髪を結いなさい。一本でもほつれさせたら朝食抜きですよ」


 俺の声に含まれた微かな威圧感殺気に、二人がビクリと反応する。


「は、はいっ!聖女様のお召し替え、このリーゼロッテが命に代えても!」

「……ん。今日の髪型、アップにする。ご主人様のうなじ、見たい」


 リーゼロッテは頬を紅潮させ、セツナは恍惚とした瞳で櫛を手に取る。俺は深いため息をつき、素足で絨毯を踏みしめた。

 その下にある大地からは、雨音混じりの重砲撃の震えが伝わってきていた。


          *


「聖女殿!おられますかな!」


 朝の支度が整うと同時、天幕の入り口が粗暴に開かれた。

 前線司令官を務める子爵だった。丸々と肥った体躯に、泥一つ付いていないピカピカの勲章。この戦場で一番醜い生き物だ。


「……何の用ですか、司令官。ここは貴方の寝室ではありませんよ」


 俺は椅子に座ったまま、泥水のように濃いエスプレッソを啜る。それだけで子爵は一瞬たじろいだが、すぐに唾を飛ばして喚き始めた。


「祈りなど結構!今すぐに前線へ出て広域殲滅魔法ストラテジー・スペルを放つのだ!敵の塹壕ごと吹き飛ばせば、我が騎士団の突撃路が開ける!」


 

 その単語を聞いた瞬間、俺のこめかみで血管が脈打った。


(バカか、こいつは。地図も読めないのか?)


 俺は無言で天幕の入り口を開けた。

 そこに見えるのは鉛色の空と豪雨。そして川のように流れる無限の泥濘ぬかるみだ。


「……子爵。貴方の目には何が見えていますか?」

「な、何だと?汚らわしい泥沼だが……」

「そう、泥です。『嘆きの平原』にこの雨量。そこに質量魔法を撃ち込めば神の悪戯土石流が起き、下流に陣取る味方の第2大隊を生き埋めにしてしまうでしょうね」

「そ、それは……神の加護があれば!」

「おやおや。神はサイコロを振らないものですよ。……神託マップには、等高線まではっきりと記されています」


 俺は憐れむように優しく諭す。

 計算すらできない。地形も見ない。ただ「美しい精神論」だけで部下を死なせる無能。三流のロマンチストめ。


「それに、この泥濘でいねいの中で重装騎兵を突撃させれば、彼らはただの動かない標的かかしです。帝国の機関銃座の前に、あえて部下を晒すほどの趣味は持ち合わせておりませんが?」


「き、貴様っ……!聖女の分際で、軍の指揮に口を出す気か!貴公はただ、その綺麗な顔で兵を鼓舞すればいいのだ!」


 痛いところを突かれた子爵が、顔を真っ赤にして腰のサーベルに手をかけた瞬間――ジャリッ、と金属音が響く。


 子爵の喉元寸分にリーゼロッテの愛剣が突きつけられ、背後ではセツナが腎臓のあたりに冷たいクナイを押し当てていた。


「……その薄汚い手を放せ、豚」

 リーゼロッテの声は絶対零度よりも冷たかった。「次、聖女様に無礼を働けばその腕を切り落とす」


 室内の温度が一気に下がる。

 俺への冒涜に対する怒りだけではない。彼女たちは戦士の本能で、目の前の男が「鉄」の重みを知らない飾り物だと見抜いている。


「――リーゼロッテ、セツナ。控えなさい」


 俺は静かに告げる。

 二人は悔しそうに歯噛みしながらも瞬時に武器を引いて膝をつく。俺はカツカツとヒールの音を響かせ、腰を抜かしかけている子爵を見下ろした。


「勘違いしないでくださいね、司令官」

「ひっ……」

「私は貴方に従うつもりがないのではありません。牧場の管理人は、兵士たちを無駄に死なせないために崖のふちで止める義務があると言っているのです」


 俺はニッコリと微笑んだ。

 慈悲深い聖女の仮面を被った、捕食者ウルフの笑みで。


戦場子羊たちが、怯えてしまいますから」


 子爵は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、転がるように逃げ出していった。

 あーあ。静かな朝が台無しだ。


「……全く。さあ、行くぞ野良猫ども」


 俺はドレスの裾をまくり上げ、ガーターベルトに吊るされた予備マガジンを叩く。

 純白のスカートの中に隠された、俺の唯一の友――可変式葬送十字『罪咎ザイ・キュウ』の冷たい感触を確かめる。


 ずしりとした重量感だけが、俺の乾いた心を満たしてくれる。


「今日の天気は雨。……ゴミ掃除にはおあつらえ向きの日和だ」


 重厚な聖教会の鐘の音と、着弾音が重なる。

 俺たちの戦争奉仕の時間だ。

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