濁占欲

小狸・飯島西諺

掌編

 夫は読書が好きである。


 多分、私よりも。


 基本的に何でも読むが、主に読むのは小説で、ミステリー、恋愛、青春群像劇、ハードボイルド、SF、ホラー、ファンタジーなどなど、所謂いわゆる濫読らんどく派である。


 夫とは大学で知り合った。学部学科が同じの同級生で、文学部の国文学科であった。


 私は消去法で――というか、何となく楽そう、という理由で国文学科を選んだけれど、夫はちゃんと国文学が好きな人だった。


 そういう積極的な理由で大学に通っていた夫は、友達の数も、私とは比較にはならないくらい多かったように思う。


 お互い一人暮らしから同棲に変わる際、信じられない量の蔵書を持っていて魂消たまげたものだった。


 独居だった頃には、そこまで書数があるようには見えなかったからだ。


 どうも夫は、整理整頓が得意――というか、趣味であるらしい。


 時折新たな書籍を購入してきては、場所を入れ替え位置を入れ替え、本棚に収める。門外漢の私には、その本棚はもう書籍の入る余地はないように思えるけれど、夫はそれでも収納してしまうのである。


 加えて、夫はとてつもなく速読である。特に、お互い社会人になってからは、その速読に拍車が掛かったように思う。大学生とは違い、仕事をするにあたっては時間が制限される。そんな時間の中で、例えば電車での帰り道などに、夫は常に小説を読んでいた。尋常ならざる速度で。


 ここで勘違いしないでほしいのは、夫は決して、夫婦の時間とか、家事とかを蔑ろにしていたわけではなかった、ということだ。


 友達夫婦のいさかいの原因として良く聞くのが、趣味に没頭し過ぎて家事や夫婦間の対話をおろそかにする配偶者、というものがある。今の時代は特にゲームなんかがそれに当てはまるだろう。一説では、共用のスペースで、「死ね」「殺す」などの暴言を発しながらFPSのゲームを行う者、というのも存在するらしい。


 そういう観点から見ると、夫は協力的だった。むしろ、夫の方が家事は得意というくらいであった。


 私も夫もある程度所得があり、私が計算関係が得意だったこともあって、小遣い制にしていたけれど、その辺りのやりくりも、夫は上手かったように思う。お金が足りなくなって本が買えない、ということはなく、常に先のことを考え、もしもの時にも備え貯金もしていたというのだから、抜け目のない人である。


 ある日。


 夫の本棚を見る機会があった。


 まじまじと見たという意味ではない。


 その日は夫が仕事で、私は仕事が休みであった。年末の大掃除に向けて、掃除をしておくよ、という話をしておいた。夫は快諾し、「僕の部屋は自由に出入りして良いから、ありがとう」と感謝の意を述べた。


 夫の部屋には何度も入ったことがあるし、日常的に出入りして良いよと言われているけれど、改めて入るのは何となく久方ぶりのような感じがした。


 掃除機を持って、入ったけれど。


 ほとんど、掃除するところはなかった。


 大変綺麗に使っていた。


 取り敢えず、掃除機を掛けたけれど、ほこりの類はほぼ無かった。


 その時のことである。


 ふと、背後を見た。


 ゴミ箱の後ろには、夫が新居に移ってから購入した、大きな本棚が鎮座している。


 そこには、大量の小説が、陳列されていた。


 丁寧に。


 出版社順、作者名の五十音順、ハードカバーと文庫なども、決してぎゅうぎゅう詰めということはなく、落ち着いて並べられていた。


 ああ。


 本当に夫は小説が好きなのだな。


 と、そう思うと。


 同時に。


 一つ。


 私の中に、もやもやとした感情が発露してくるのが、分かった。


 なんだ――もやもや?


 覚えがない。


 分からないので、放置した。


 その後も、何度か夫の部屋に入ることがあったけれど、書架を見るたびに、そのもやもやは加速していった。


 また、ある日のことである。


 私たちは喧嘩した。

 

 喧嘩というか口論というか――契機は些細なことであったように思う。今思い出しても、その内容は記憶に残っていない。


 その喧嘩の最中に、ふっと私の逆鱗に触れる言葉があった、ように思う。


 その言葉が何なのかも、私は覚えていない。


 私は、沸騰しやすい性質なのだ。逆に夫は、常にどこか平静を保っている。

 

 その状況が、より私を苛立たせた。


 何でお前だけ余裕があるんだよ。


 何でお前だけ大人ぶっているんだよ。


 ただ、その時に私が発した言葉は、覚えている。


「何? 物語ばっかりにかまけてさ、莫迦ばかみたい! そんなに小説が好きなら、小説と結婚すれば良かったじゃない!」


 夫はそれでも冷静だったが、どこか落ち込んでいたように思う。


 その次の日。


 夫は仕事で、私は仕事が休みであった。


 冷戦状態は、まだ続いていた。


 私は、心の中で熱を帯びているのが分かった。


 夫が出勤したのを確認すると同時に、私は夫の部屋に入り、そこにあった蔵書を全て処分した。


 可能なものは売却し、不可能なものはごみとしてまとめて出した。


 沸々と煮えたぎる精神で。


 私は思っていた。


 ――どうして。


 ――どうして私を。








 ――








 今では、この選択は間違いだったと後悔している。


 結果、帰宅した夫は呆然自失状態になり、次の日に離婚を言い渡された。


 色々と揉めたりもしたのだが、結果離婚は受理されることとなり、一つの夫婦が、夫婦ではなくなった。


 子どもがいなかったことは幸いした。


 私たちの離婚のせいで、不幸になる子どもはいなかった。

 

 あれからもう、8年が経過する。


 新しい相手を見つけるにも、子どもを産むにも、もう遅い時分である。


 結婚はもう諦め、仕事に専念することにした。


 時々本屋に寄ると、みっちりと押し込まれた文庫本たちが視界に入る。


 するとあの時の夫の本棚と、苦い記憶を思い出す。


 今なら分かる。

 

 夫を夢中にさせる小説に、嫉妬していた。


 私は、夫を、独占したかったのだ。




(「どくせんよく」――了)

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