『この傷だらけの世界に、愛という名の奇跡を。』 ——原初(オリジン)の天才少女の記——

凛冬の夜警

序章 「愛」の始まり

第1話 月の十六(いざよい)は丸く

 山泉やまいずみすすがれたかのように、月は軒端のきばに懸かり、釉薬うわぐすりめいた清輝せいきが、修繕されたばかりの古民家の瓦を静かに満たしている。


 土壁の隙間からは野薄荷ノハッカ幾叢いくむらか顔を覗かせ、葉先に宿った光の斑点は山風に揺れては、窓格子の剥げかけた朱漆しゅうるしの木目へと零れ落ちる。庭の隅にあるエンジュの老木は、枝の影を網のように織り上げ、石臼の上に干された柿をふわりと包み込む。薪を焚く煙に混じり、甘く濃厚な温かい香りが鼻先をかすめた。


 家の裏手を小川が流れ、砕け散った銀のような光の粒が、苔むした窓辺へと踊り上がる。虫の音がふと止み、一羽の夜鷺ゴイサギが対岸の竹林を掠め飛ぶと、その羽音に驚いたか、川面に映る満天の星々が、私の手にする粗末な磁器の椀へと跳ね込んだ。椀の底から立ち昇る生姜茶の湯気が月光と絡み合い、喉の奥で温かく、まろやかな甘みを醸し出す。


 その「月光」を飲み干せば、暖かさが寒気を追い払い、ただひたすらに心地よい……。


十六シーリウ、この月餅げっぺいを食べてごらん。じいの手作りじゃ。焼けたばかりで、まだ熱いぞ」


 十六シーリウは小椀を置き、振り返って祖父の手から月餅を受け取ろうとしたが、焼きたてはあまりに熱く、どうしたものかと手をこまねいた。


 祖父はほほと笑った。


「おっと、わしの配慮が足りなんだ。なつめの餡を崖蜜がけみつで練ってあるからな、中まで熱々じゃ。うかつに触れんほうがいい、少し冷まそう」


 そう言うと、彼は十六シーリウの右手にある小卓にそれを置き、そのまま地べたに腰を下ろした。


 地面に座る祖父と、竹椅子に座る十六シーリウ。後ろから見れば、その背丈は変わらぬように見えた。


 焼き上がったばかりの月餅が芳しい香りを放ち、十六シーリウの目を釘付けにする。彼女が鼻先をその香ばしい薄皮に寄せてそっと嗅ぐと、屑がさらさらと皿に落ち、逃げ出した二、三粒の胡麻が驚いたように跳ねた。


「月餅……って、なに?」


「はは、こりゃいかん、わしの物忘れも困ったもんじゃ。十六シーリウはまだ月餅を食べたことがなかったな。去年のあの時は、たしか時期を逃してしまったから」


 そう言いながら、祖父は空の満月を指差した。十六シーリウの視線もそれを追う。


「ごらん、あの月は丸いかい?」


「まるい」


「丸いじゃろう。じゃあ、このもちはどうだ、丸いかい?」


「まるい」


「月におなりを借りたのさ。一家団欒の日にだけ食べるんじゃ。以前のお前は、外に掛かる三日月のようなものじゃったが、今ようやく、アン家の柴門さいもんの中に落ち着いたというわけさ」


 祖父は十六シーリウの小さな頭を撫でた。


団欒だんらん……じじと私も、だんらん、したの?」


「はは、団欒か……そうじゃな。じじには、十六シーリウがおるからな」


 彼はそれ以上何も言わず、口元に笑みを浮かべたまま、空に浮かぶ真ん丸い月を見上げた。


 月餅は程よく冷め、手で持てるようになっていた。


 十六シーリウは一つ手に取り、一口かじった。そして不意にそれを頭上に掲げると、欠けた部分がちょうど空の玉輪ぎょくりんをくわえ込んだ。


 月餅の縁にある十二のひだを数えていると、夜風に乗った金木犀キンモクセイの香りが、ずしりと重く感じられた。


 祖父はもう何も話さない。後ろに仰け反ったその白髪の先が月光に浸り、まるで薄い砂糖衣アイシングを纏ったかのようだ。


 一陣の寒風が頬を打つ。


 十六シーリウは、去年の日々のことを思い出した。けれど、このお餅は本当に甘い……。


 十六夜いざよいの月は、とても丸い……。

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