第2話 十六夜(いざよい)の月は丸く
彼女は、決して幸運な子供ではなかった。
七粒目の水滴が軌道をそらし、青岩(せいがん)の尖った稜角に砕け散る。その音に応えるように、繭殻(まゆがら)に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、中で眠っていた生霊(せいれい)を呼び覚ました。
彼女は誰なのか? ここはどこなのか? どこから来たのか? 彼女には何もわからない……。
少女は琥珀色の空洞の中で身を縮めていた。喉の奥が、まるで焼けただれた火山岩を含んだように熱く痛む。睫毛(まつげ)に凝結した氷晶(ひょうしょう)が震えるたびにサラサラと零れ落ち、繭の底に小さな水溜まりを作っていた。
彼女は手探りで上体を起こそうとする。ごつごつと浮き出た肩甲骨が内壁を擦り、半透明の綿毛のようなものが大量に剥がれ落ちた。
仰ぎ見ると、天井部分の破損した水嚢(すいのう)が気流に揺れ、裂け目から清らかな液体が滲み出していた。
生存本能が、彼女にその裂け目を吸わせる。青草の香りを帯びた甘露が喉を滑り落ち、血の臭いを洗い流していく。ゴクリという嚥下(えんげ)音が、繭の中で空虚に響き渡った。
その時すでに、繭殻には大きな裂け目ができており、外の様子が窺えた。
苔(こけ)が微かな光を放ち、亀裂の向こうで明滅している。
岩壁の苔は幽(かす)かな緑色の燐光を帯び、夏の夜に迷い込んだ蛍の群れのようだ。彼女は手探りで前へと手を伸ばす。指先が湿った苔の表面に触れた瞬間、光の粒がまるで生き物のように蠢(うごめ)き、爪の隙間から血管へと潜り込んでくる。温もりが手のひらに広がった時、彼女は思わず手を握りしめた――それが、生まれて初めて感じる「心地よさ」だった。
しかし、繭の外に長居すれば、やはり冷気が身に染みる。少女は身震いをした。
繭の内部には奇妙な温もりが残っており、まるで陽だまりに干された鳥の巣のようだ。少女は本能的に、この琥珀色の揺り籠(かご)へと戻り、体を丸める。呼吸に合わせて波打つ半透明の壁からは、細い糸のような暖気が滲み出していた。その温もりは、母のハミングする子守唄のように四肢百骸(ししひゃくがい)へと染み渡り、冷え切った足裏を内壁に押し付けると、震えは徐々に収まっていった。
涙が前触れもなく溢れ出し、繭衣(まゆごろも)の表面で小さな真珠となって凝(こご)る。これが初めて流す涙だったが、彼女は胸の奥で渦巻く酸っぱい痛みが「孤独」という名のものだとは知らなかった。ただ、より強く温源(おんげん)へと身を寄せ、背後で繭の裂け目が音もなく癒合(ゆごう)していることにも気づかずにいた。
二日目の黎明(れいめい)は、胃袋が痙攣(けいれん)する痛みによって切り裂かれた。痛みは彼女を繭の外へと這い出させる。外層の朝露には腫れぼったい目が映り、かつて銀色の霧を湛えていた瞳は、今や瀕死の小獣のような灰色の翳(かげ)りに覆われていた。
繭の中の液体だけでは、もはや空腹を満たせない。生きるために、彼女はより多くの食糧を探さねばならなかった。
だが、目の前にあるのは、壁にへばりついた苔だけ。
苔を噛みしめると、未熟な草の汁が弾けた。その苦味が舌先に広がる一方で、胃袋は歓喜の痙攣を上げる。背後では繭が、まるで永遠に消えることのない篝火(かがりび)のように、温もりを放ち続けていた。
彼女はふらつく足取りで洞窟の入り口へと向かい、別の食べ物を探そうとしたが、足首に蜘蛛の糸が絡みついた。その感触は、毒蛇に舐められたかのようだ。指先が再びその障壁に触れた瞬間、焦げ臭い匂いと共に激痛が走り、引っ込めた手のひらには網目状の火傷がくっきりと焼き付いていた。
あるいは、網にかかった干からびた蝶と、二度と動くことのないその翅(はね)が、答えを告げていたのかもしれない。
少女は再び泣き出し、よろめきながら繭へと逃げ帰った。火傷を負った手のひらを温かい内壁に押し当て、涙を流しながら啜り泣く声が洞窟に響く。繭は彼女をあやすかのように、傷を癒やし始めた。
再び水嚢の液体を飲み、泣き疲れたのか、彼女はやがて体を丸めて眠りについた。
天も憐れみを垂れたのだろうか。三日目、激しい暴雨が蜘蛛の巣を押し流し、繭の縁(ふち)に溜まった水が彼女の顔を映した。ルビーのような数粒の野苺(のいちご)が濁流と共に洞窟へ流れ込み、石畳の上を跳ねながら緋色の軌跡を描いた。
鮮やかな色は、それが食べ物であることを少女に告げ、胃袋がまたしても音を鳴らす。
彼女は飛びつき、膝を擦りむいて血を流したが、構わず一口に頬張った。果肉が歯の間で弾け、甘い汁が溢れる。彼女は貪るようにそれを飲み込んだが、寒さに耐えかねて再び繭の中へと潜り込み、痛む膝を殻に押し当てた。 「うぅ……」
この繭には霊性でも宿っているのか、少女の血に触れると金色の糸のような粘液を滲ませた。それは肌に触れるや否や、カシミヤのように柔らかい織物へと変わり、母親の囁きにも似た十分な温もりをもたらした。
おそらく、この繭がなければ、少女は一日たりとも持たなかっただろう。
綿毛のような衣服が幼い体を包み込むが、小さな両足だけは剥き出しのままだ。
だが、そんなことは構っていられない。ようやく外で動けるようになったのだ。彼女は洞窟を出て探し回ると、数十株もの苺の茂みがあり、実が鈴なりになっているのを見つけた。
少女の目は瞬時に輝き、茂みへと駆け出した。
雨の中、よろめきながら苺の茂みへ飛び込む彼女の背後には、繭の温もりがへその緒のように繋がっていた。
地面には枯れ枝や落ち葉が散らばり、尖った棘が足の裏を切り裂く。一歩進むごとに泥の上に血の花が咲いたが、枝もたわわに実った果実は、彼女に初めての笑顔をもたらした。
一粒、二粒……一山、二山……。
それは彼女が目覚めてから初めての満腹であり、初めての笑顔だった。
……
二日が過ぎ、野苺も底をつきかけたが、雨は止む気配を見せない。彼女の幼い顔には、憂いの色が浮かんだ。それが彼女の初めての「迷い」だった。
彼女には何もわからない。ただ、もう食べる果実がなくなるということだけを知っていた……。
五日目の夜、山津波が岩壁を砕いた時、彼女は繭の中で最後の苺を数えていた。琥珀色の微光が突如として空間を満たし、温もりが薄い泡となって彼女を包み込み、濁流に漂う。だがそれでも、右膝が暗礁(あんしょう)をかすめた。
激痛が走る中、傷口の縁に鱗(うろこ)状の紋様が浮かび上がった。まるで誰かが月光を浸した筆先で走り書きをしたかのように。だが、それは次の瞬間には消え去っていた。
彼女は深みへと流され、やがて下流へと吐き出された。
繭から分化した衣類はとうに損なわれ、繭そのものも行方知れずとなっていた。
河原の葦(あし)が頬を撫でた時、彼女はそれを洞窟の天井から垂れる蔓(つる)だと思った。髪に絡まった発光する藻屑が、呼吸に合わせて明滅し、凍えた唇の間にはまだ半分の苺の種が噛みしめられている。意識が途切れる直前の光景は、朝霧の中に浮かぶ蓑(みの)の輪郭だった。
見知らぬ温かい懐(ふところ)の中で丸まった瞬間、彼女は無意識にその人の襟元を握りしめた。泥砂に滲む虹色の血の滴だけが、蛍光の輝きが血脈の奥深くで静かに育っていることを証明していた。
お爺さんの名は安温(アン・ウェン)。八月の初め、木犀(モクセイ)の香りが最も濃くなる日、つまり十六日の未明に、背負子(しょいこ)に崖柏(がいはく)の屑をつけたままの安温が、彼女を拾った。
一見すると、この子の耳は普通の子供より精巧な形をしていたが、彼は単なる凍傷による腫れだと思った。老人が抱き上げた時、泥にまみれた少女の鬢(びん)の毛を朝陽が射抜いた。鱗のように見えた光の斑点も、よく見れば露が朝陽を反射しているに過ぎなかった。
少女を家に連れ帰った後、老いた薬採りは三束の止血用茜草(あかね)の根と引き換えに、彼女の小さな命を繋ぎ止めた。だが朝霧が晴れた頃、この拾い子がまるで山雀(ヤマガラ)がくわえてきた口の堅い瓢箪(ひょうたん)のようであることに気づいた――口は利かないくせに、彼の着物の裾を死に物狂いで握りしめて離さないのだ。
「名前は、なんというんじゃ?」
しばらくすると、腹の虫の鳴る音だけが返ってきた。
「話せんのか。ふっ、捨て子かえ。待っておれ、何か食わせてやろう」
安温は飯と菜(さい)を用意した。農家ではありふれたもので、ご馳走とは言えないが、腹を満たすには十分だった。安温はそのまま彼女の隣に腰を下ろした。
このちんちくりんは人を怖がる様子もなく、これといった反応も見せない。
箸は使えず、手づかみで猛烈に口へ詰め込んでいる。どうやら相当腹を空かせていたらしい。
安温は食卓が散らかるのを嫌がることもなく、むしろこの小さな生き物を面白がって、何も言わずに見ていた。
彼が笑って立ち上がろうとすると、ちんちくりんはまたガバッと彼の袖を掴んだ。ただ、手についた食べかすで袖が汚れてしまった。
安温が視線を向けると、ちんちくりんはもう片方の手で口を拭い、動きを止めて口の中の物を飲み込んだ。目は合わせようとしないが、袖を掴む手は緩めようとしない。 食べるのをやめてでも、わしを行かせたくないか。こりゃ面白い。安温は再び座り直した。
彼女が食べ終わるのを待って、安温は口元を拭いてやった。 「どうやら行かせたくないようじゃな。泥人形を置いとくわけにもいかんし、湯でも沸かしてくるとするか」
彼女は言葉がわからないようだったが、こくりと頷き、握りしめていた袖を離した。そして食卓に残った料理に目をやると、腹がまた不服そうに鳴った。
「食え食え。可哀想になぁ」 そう言うと、安温は立ち上がり、彼女の小さな頭を撫でた。
……
木桶から立ち昇る湯気が梁(はり)を這う頃、安温は三本目の手拭いを絞っていた。
「ほう、なかなか器量好(きりょうよ)しじゃないか」
娘の首筋には野柿の葉が数枚張り付いており、湯をかけると、爪ほどの大きさの淡い青色のあざが現れた。老人が目を細めて近づきよく見ると、その渦巻く羊歯(シダ)のような紋様が、蛍火のように一瞬光った気がした。驚いて手首が震え、柄杓(ひしゃく)が木桶の縁に当たって音を立てた。
「こりゃ珍しい」
安温はサイカチの泡だらけの指を擦り合わせたが、娘はすでに首を傾げてうたた寝を始めていた。濡れた前髪が桶の縁に張り付き、呼吸に合わせてかすかに震えている。銅の桶の水紋が月光を砕き、あざは再びただの青い痕に戻っていた。さっきの光の輪など、水蒸気の悪戯(いたずら)だったかのように。
軒先の風鈴が鳴り、山風が木犀の香りを運んでくる。灯明(とうみょう)はまだ明るいが、彼女は桶の縁にもたれて熟睡してしまった。濡れた髪は墨色の蔓(つる)のように垂れ下がり、宙に浮いた安温の手首に絡みついていた。
……
村人たちは、安(アン)の爺さんが口の利けない山猫を飼い始めたと噂したが、彼は嬉々として娘に魔除けの艾(よもぎ)の匂い袋をつけてやった。そして暦の「八月十六日」の頁(ページ)に、歪な指紋を押した。 「十六の時に拾ったんじゃ、これからは安十六(アン・シーリウ)と名乗るがいい。わしのところに来たからにゃ、同じ姓じゃ。見たところ……ふむ、七つといったところか。よし、七歳ということにしよう」
それからの日々、安温は彼女に言葉や文字を教えた。彼女は賢く、あるいは天賦の才というべきか、日を追うごとに言葉を覚え、文字を理解していった。もはや口の利けない山猫ではなく、「安十六」となったのだ。
十六夜(いざよい)の月が満ちた。
十六夜の月は、とても丸い。
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