第2話 ぱとかぁに怯える小学生・松下雄平

 放課後の教室は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

 雄平はランドセルを背負ったまま、ひとつだけ空いている席を見つめていた。

 そこに座っていた友達の名前を、心の中で呟く。


 --拓真。


 先週、拓真はいじめられていた。

 教室のいじめっ子の四人に囲まれ、ノートを破られ、机を蹴られ、何度も殴られ、それでも涙を我慢して笑おうとしていた。


 止めなければいけないと思った。

 でも、足が動かなかった。声が出なかった。

 --怖かった。


 翌日、拓真は学校に来なかった。

 担任は「拓真君は家庭の事情で転校することになりました」と淡々と告げた。

 雄平はそれを聞いた瞬間、目の前の視界がぐにゃりと歪んだように見えた。


 黒板を消す乾いた音が鳴った。

 バサ、バサ--。

 そのリズムに、雄平の耳は違う音を重ねてしまう。


 --ぱとかぁ。


 心臓を握り潰されるような感覚だった。


     ◆


「雄平、ケーキ屋さん寄っていい?」


 母に声をかけられ、雄平は小さく頷いた。

 行く気ははなかったが、断る理由もない。


 三島洋菓子店。優しい音楽と甘い匂いが漂う店だ。

 だが今日は、店の空気にどこか張りつめたものがあった。


 店主の三島愛美が、ショーケースの奥をぼんやりと見つめて立ち尽くしている。

 客が声をかけるまで気づかないほど考え込んでいた。


「す、すみません。失礼しました」


 愛美は慌てて笑顔を作ったが、その笑顔は薄かった。

 カウンターの照明の裏には、黒いコードが切り取られた跡が残っている。

 盗聴器が仕掛けられていたのは、数日前の出来事らしい。


 雄平は、愛美が言葉にできない不安を抱えているのが伝わり、胸の奥がざわついた。


 そのとき、振り返ると--

 店のガラス越しに、黒いスーツの男が二人並んで立っていた。


 会話をしている様子はない。

 ただ、雄平を見ていた。


     ◆


 帰り道、雄平は公園でベンチに座った。

 風が冷たい。

 ランドセルの中、拓真からもらった遊戯カードが一枚だけ残っている。


 「またデュエルしような」


 あの日の声が蘇り、胸がきゅっと縮こまった。


「止めたかったんですよね」


 背後から声が降ってきた。


 黒スーツの男が、公園の入口に立っていた。

 気づいたら、もう一人も反対側にいる。

 二人の間に挟まれ、逃げ道が塞がれた。


「……止めたかったよ。でも……怖かったんだ」


「勇気がなかった。だから見て見ぬふりをした」


「もう、どうすればいいのか……わからないよ……」


 雄平は泣きながら言った。

 黒スーツは、淡々とした口調で続ける。


「後悔しているなら、今苦しんでいる必要はありません。

 --後悔では人は救われない。行動だけが救うんです。」


「救われるなら、俺……」


「転校先を探し出して謝る? いいえ、違います。

 “罪を終わらせたいのなら、後悔を終わらせる”のではありません。

 “罪を終わらせる”んです。」


 その一言で、雄平の血の気が一気に引いた。

 黒スーツの瞳には感情が一切なく、ただ雄平の反応を観察しているようだった。


     ◆


 一瞬視界が揺らぎ、気づいたときには黒スーツはいなかった。

 最初からいなかったのか、消えたのか、それすらわからない。


 帰宅途中、遠くからパトカーのサイレンが響く。


 ピーポーピーポー。


 だが、雄平の耳には違う音として届いた。


 --ぱとかぁ。

 --ぱとかぁ。


 雄平は震えながらも玄関を開けた。

 ポストに紙が差し込まれている。


 白い紙に手書きの文字。


 《ふたがみゆれた》


 意味はわからない。

 けれど、その言葉が“罪の答え”ではないかと錯覚してしまうほど、胸が締めつけられた。


 謝れないまま終わってしまった後悔は、どこへ持っていけばいいのか。

 雄平にはわからなかった。


――第3話へ続く。

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