第五話 境界に立つ

 最初に揺れたのは、床だった。

 薄い板を通して伝わる、かすかな震え。

 診療所のベッドに座っていたアヤメは、視線だけを天井から足元へと落とした。

 カタ、と窓枠が鳴る。

 瓶の擦れる音。

 そのすべてが、妙に輪郭を持って聞こえる。

「……また、来た」

 小さくこぼした声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 扉が開き、外のざわめきが一気に流れ込んでくる。

 誰かが金属板を棒で叩いている。短く、荒く、焦ったリズム。

 その下で足音が走り、怒号と呼ぶには弱い叫び声が重なった。

「ジェイド! 森の縁に……!」

 外から聞こえたその名前に、ミラが顔を上げた。

 包帯をたたんでいた手を止め、扉の方へ一歩近づく。

「嫌な音。あれ、ヴォイドの時の警報だ」

 サラは棚に置かれたメモをざっと束ね、冷静な顔のままアヤメの方へ振り返った。

「地面の揺れ方も、前と違う。……質量が大きい。中型が混ざっているかもしれない」

 ミラが眉をひそめる。

「嘘でしょ。この規模の拠点に中型って……」

 床の揺れは、先ほどよりも少しだけ強くなっていた。

 アヤメはベッドから足を下ろし、そっと体重をかける。

 右肩の奥に残っていた鈍い痛みは、すでにほとんど消えている。

 皮膚の下で再構築されていた組織は、違和感こそ残るものの、動きを妨げるほどではなかった。

「歩ける?」

 サラが問う。

 アヤメは立ち上がって一歩進んでみせた。重心は安定している。

 ふらつきはない。

「大丈夫」

「“大丈夫”の基準がおかしいのよ、あなたは」

 サラは短く息を吐いたが、その目に混ざっているのは苛立ちではなく純粋な観察だった。

「まだ完全に治ってはいない。それでも、普通の人間なら寝ているしかないレベルの怪我よ。……それが、二日でここまで」

 ミラがアヤメのそばに来て、心配そうに覗き込む。

「無理しないで。外、どうせ危ないんでしょ?」

 アヤメは窓の外に視線を向けた。

 灰色の空。

 低い雲。

 その下で、遠くの木立がわずかに揺れている。

 揺らしたのは風ではない。

 重い何かが地面を踏む、その反動だ。

 数。

 間隔。

 重さ。

 それらが、音と震えだけで頭の中に流れ込んでくる。

「……さっきより、近い」

「近いってなにが?」

「“大きいの”」

 言葉に名前を与えられない。

 ヴォイドという呼称も、ホルダーという分類も、まだアヤメには馴染んでいない。

 ただ、“あれ”がこの場所に向かっていることだけは、はっきりと分かった。

「ここ、壊されるかもしれない」

 ミラの顔色が変わる。

「やめて。そういうこと言わない」

「可能性の話よ」

 サラは冷静に言った。

「この拠点のホルダーは三人。どれも中堅レベル。中型を単独で止められるような戦力じゃない。小型が複数ついてくる可能性もある」

「でも、みんなずっとここを守ってきたんだよ?」

「今まで出てこなかったサイズが出てきた時点で、条件が変わっているの。……守れた実績は、次も守れる保証にはならない」

 ミラは唇を噛み、アヤメの腕を掴んだ。

「だからって、外に出ていい理由にはならないよね。この子はまだ――」

 アヤメは、掴まれた自分の腕を見た。

 温度。

 圧力。

 皮膚越しに伝わる、ミラの手の震え。

 自分に向けられている感情の名前は、まだ完全には分からない。

 けれど、それが“自分を心配している”という働きなのだと理解はできた。

「ミラ」

 サラが静かに呼ぶ。

「ここが破られたら、診療所も安全じゃない。あなたも、私も、子どもたちも、ここで終わりよ」

「終わらせないために、みんなが外で戦ってるんでしょ」

「それで足りないから、こうして揺れているの」

 サラは床を指さした。

 揺れは、さっきよりもわずかに強く、短い間隔で続いている。

 大きな何かが、一定のリズムでこちらへ近づいてきている。

「足りないなら――」

 アヤメは口を開いた。

「足りるように、するべき」

 ミラが掴む手に力がこもる。

「だからって、あなたが行く必要は――」

「私、もう動ける」

 アヤメはミラとサラを見た。

「ここで何もしないでいると、壊されるかもしれない。でも、外に行ったら、壊されないかもしれない」

 それは自分の感情ではなく、単純な比較だった。

 可能性の話。

 結果の話。

 サラが細く息を吐く。

「……あなた、自分が何を言っているか分かってる?」

「分かってる。たぶん危ないってことは分かってる」

 アヤメは胸に手を当てた。心臓は少しだけ早く打っている。

 恐怖というラベルをまだ知らない。その代わりに、身体の変化だけを観察する。

「でも、あの“獣”と戦えた。だから、できることはある」

 以前戦った時の光景が、薄く脳裏に浮かぶ。

 瓦礫の中。

 大きな牙。

 皮膚の下を走った白い閃光。

 あれが何だったのか、アヤメはまだ知らない。

 ただ、自分の体の中から出たものだということだけは分かっていた。

「私は、あのとき“生き残れた”。それをもう一回やるだけ」

 ミラは首を振る。

「ちがう。あれは偶然かもしれない。もっと大きいのが来てるのに――」

「偶然でも、一回できたなら、二回目もある」

 アヤメの言葉は、あまりに素直で、残酷なまでに合理的だった。

 サラはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。

「ミラ。止めても、彼女はきっと出ていく」

「だからって、黙って見てろって言うの?」

「違う。……私たちは選べない立場にいるってことよ」

 サラはアヤメに向き直る。

「ひとつだけ条件を出す。倒れてもかまわない。でも、絶対に戻って来なさい。いい?」

 アヤメは一瞬考え、頷いた。

「戻る。それは、できる限りやる」

 ミラはまだ納得していない顔で、それでも手を離した。

「……本当は行ってほしくない。でも、ここで震えて待ってるのは、もっと嫌」

「あいまい」

「うるさい」

 ミラはそう言って、アヤメの胸元のコートをぐいと引き寄せた。

「絶対戻ってきて。戻ってこなかったら、許さないから」

「さっきも同じこと、言ってた」

「二回言わないと伝わらなさそうだからね」

 ミラの目の縁は、少しだけ赤くなっていた。

 アヤメは短くうなずき、扉へ向き直る。

 外の空気は、診療所の中よりも冷たい。

 頬を刺す風の向こうで、鉄板を叩く音がまだ鳴り続けていた。

 集落の外れまで歩くにつれ、揺れははっきりとした振動になった。

 地面の奥で何かがぶつかる。

 石と石が擦れ、古いコンクリートが軋む。

 遠くに、灰色の空と、黒い森の境界線が見える。

 その手前に、崩れた道路と車両の残骸が散らばり、その向こう側に、細かい影が動いていた。

「ガレン、もう少し引け! 前に出過ぎるな!」

 ジェイドの怒鳴り声が飛ぶ。

 アヤメが足を止めずに近づいていくと、戦場の全体像が視界に入った。

 火のホルダー、ガレン。

 両手から噴き出した炎が、地面を舐めるように走る。

 その炎の前に、小型のヴォイドの残骸が黒く焦げていた。

 氷のルカ。

 地面に手をつき、白い霜を広げる。小さな破片が一瞬で凍りつき、その上を踏んだヴォイドの足がわずかに滑る。

 土のエマ。

 足元を強く踏みしめ、地面を盛り上げる。瓦礫と土が混ざった壁が立ち上がり、進路を少しだけ遮る。

 それでも――

 中型の影は、止まらなかった。

 高さは四メートル近く。

 前足は丸太のように太く、筋肉に覆われた肩が盛り上がっている。

 紫色の皮膚は岩のように硬く、炎の熱をほとんど通さない。

 その巨体が前足を一度振り下ろすだけで、エマの作った土壁に深い亀裂が走った。

「っ……!」

 エマが歯を食いしばる。壁に力を送り続けるが、中型の前足はさらに一度、重く打ちつけられた。

 壁が砕け、岩と土の破片が飛び散る。

 ルカが氷の膜を張ってそれを防ぐが、その分、冷気の出力が落ちる。

「エマ、下がれ! ルカ、右に回れ!」

 ジェイドが叫ぶ。

 自分もショットガンを構え、一瞬の隙を狙おうとしていた。

「……足りない」

 アヤメは立ち止まり、その光景を見ていた。

 炎の温度。

 冷気の広がり。

土の硬さ。

 それらが、戦場の上に薄い層となって折り重なっている。

 だが、その層の密度は、中型の巨体一つを押し戻すには薄すぎた。

 前足が振り下ろされるたびに、地面はえぐれ、捨てられた車両の残骸が押し潰される。

 人間の身体なら、触れただけで砕かれるだろう力だった。

 中型は、炎と氷と土をほとんど意に介さず、ゆっくりと、しかし確実に前へ進んでいる。

 その進行方向の先には、集落の簡素な柵と、怯えた人々のいる場所があった。

 ジェイドが一瞬だけ振り返り、アヤメを認めた。

「おい! そこから先へ出るな!」

 アヤメは答えなかった。

 柵の内側に立つ村人たちの顔が見える。

 恐怖に固まった目。

 子どもの泣き声。

 それを抱きしめる大人の腕。

 喉の奥が少しだけ熱くなった。

 名前のない感情が、胸の中に滲む。

「……やっぱり、壊される」

 誰に言うでもなく呟き、アヤメは一歩、前へ踏み出した。

 ジェイドの顔が険しくなる。

「戻れ! ここは――」

 声は届いている。

 意味も分かる。

 それでも、足は止まらなかった。

 中型ヴォイドの頭が、ゆっくりとこちらを向く。

 黒い窪みのような眼窩が、アヤメを捉えた。

 アヤメはその視線を、正面から受け止めた。

 距離。

 速度。

 到達までの時間。

 それらが、勝手に頭の中で組み上がっていく。

 あのとき、瓦礫の中で牙を向けてきた獣よりも、ずっと大きい。

 力も、速さも、重さも、比較にならない。

 それでも――

「一回、生き残った」

 あのときと同じように、ただ前を見る。

「だから、二回目も、生き残る」

 言葉は震えていなかった。

 足も、まだ動く。

 ミラとサラの声が、遠くで自分の名を呼んだ気がした。

 振り返らない。

 アヤメは境界線を越えた。

 集落と戦場を分ける、目には見えない線。

 人々が腰を引き、ホルダーたちが前に出る、その中間地点。

 そこに、自分の足跡を刻む。

 中型ヴォイドが、低く唸った。

 地面が揺れた。

 アヤメは、その揺れを正面から受け止めた。

 まだ、自分の中にどんな力があるのかは知らない。

 ただ一つ分かっているのは――

 ここで何もせず立ち尽くすより、前に出た方が、生き残る可能性は高いということだ。

 灰色の空の下で、巨体と少女が向き合う。

 次の瞬間、世界は動き出した。


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