第四話 無もなき夕暮れ
薄い光が診療所の窓から差し込み、木の床を淡い金色に染めていた。
朝の気配は、静寂とともにゆっくりと広がる。
その静けさのなかで、アヤメはまぶたを震わせ、ゆっくりと目を開けた。
体に巻かれた包帯の感触が、昨夜より軽い。
痛みはまだ残る。だが、それは鈍く、遠い。
細胞の奥に潜む何かが動き続けている――そんな感覚があった。
「起きたの?」
声の方向を向くと、ミラがいた。
手には新しい包帯と薬草。彼女は穏やかに微笑み、アヤメの体を支える。
「痛む?」
アヤメは、一拍置いてから小さく首を横に振る。
言葉はまだぎこちない。
だが、意思は伝えられる。
「昨日より温かい顔してる。少し安心したよ」
ミラはそう言って、包帯を交換しながら細かく観察する。
回復速度は速い。それでも、脅威ではなく“ただの謎”として受け止めようとする姿勢があった。
診療所の扉が軽く軋み、ミラはアヤメを立たせる。
「リーダーに経過を報告しなきゃ。歩ける?」
アヤメはゆっくり片足を前に出し、確かめるように体重をかける。
痛みはあるが、耐えられる。
その事実に、彼女は短く答えた。
「……歩ける」
ミラは満足そうに頷き、肩を貸して扉を開いた。
外の空気は冷たく澄み、朝露の匂いが微かに漂っていた。
拠点――というには小さすぎる。村と呼ぶには質素すぎる。
掘っ立て小屋が十数棟、荷馬車の残骸、井戸のそばで火を起こす人影。
生き延びるためだけに組まれた、そんな場所だった。
「ジェイド、連れてきたよ」
ミラの声に応え、背の高い男が振り返った。
ジェイド。
この拠点の管理者であり、判断を下す唯一の柱。
彼はアヤメを見ると、まず最初に「危険性」を測る目をした。
次に「理解力」。
そして「意志」。
沈黙ののち、短く問いかける。
「歩行は問題なさそうだな。痛みはどうだ」
名前を問う必要はない。
昨日すでに聞いた。
今日は“状態”のみを確かめる。
アヤメは視線を落とし、淡々と答えた。
「……少し。大丈夫」
ジェイドはその返答を、嘘なく受け取った。
虚勢も、怯えも、誤魔化しもない。
ただ「事実」を述べる声。
「理解は早いようだな。しばらくはここで保護する。ただし――」
アヤメが顔を上げる。
「外へ出るときは必ず誰かと同行しろ。勝手に動けば危険だ」
「……わかった」
ジェイドはミラへと目を向ける。
「しばらくは様子を見てやれ。変わった動きがあればすぐ伝えるように」
「もちろん。任せて」
それだけ言うと、ジェイドは再び仕事へ戻った。
アヤメはその背をしばらく見つめる。
なぜ自分はここにいて、なぜ守られているのか。
理由はわからない。
けれど、彼らの声や仕草は、敵意のないものだと理解できた。
ミラが優しく肩を叩く。
「少し歩いてみる? 外の空気、気持ちいいよ」
アヤメは静かに頷いた。
***
外へ出ると、世界は広かった。
見たことのない色。
聞いたことのない音。
風の流れが肌を揺らし、草が擦れる。
ミラが横を歩く。
彼女はアヤメの反応を観察するように、しかし驚かせない距離感で寄り添っていた。
「怖くない?」
唐突な問い。
アヤメは空を見上げながら、一度呼吸を整える。
「……わからない」
恐怖という概念を理解していない。
感じたことがないのか、
感じてもそれに名前を付けたことがないのか。
ミラはその曖昧さを否定しない。
「そっか。なら、わかるまで一緒に歩こう」
アヤメは無言で頷く。
その頷きには「拒絶」がない。
ただ、受け入れようとする姿勢だけがある。
拠点を囲う木々は高く、枝が風を受けてざわめく。
アヤメはその音に敏感に反応し、一瞬、足を止めた。
「大丈夫。ただの風だよ」
ミラの声が落ち着いた調子で響く。
アヤメはその声の温度を、静かに胸に取り込んだ。
***
夕暮れ。
焚き火のそばで、ミラが鍋をかき混ぜていた。
彼女はアヤメの前に木椀を置く。
「熱いからゆっくりね」
アヤメはそれをじっと見つめ、そしてミラの動きを真似して口をつけた。
味の概念が新鮮だった。
舌が感じる熱、塩気、食材の微かな苦味。
彼女はそれらの変化を一つ一つ認識し、理解しようとする。
「痛む?」
ミラが再び聞く。
アヤメは短く答える。
「……減った」
そのときミラは初めて笑った。
心から安心したような、ほっとした笑み。
「よかった。ほんとに回復、早いんだね」
アヤメはその言葉の意味を測るように目を伏せる。
自分が“普通ではない”ことだけは、理解していた。
焚き火の煙が空へ昇り、夜の境目に薄く消えていく。
その火の揺らぎを見つめながら、アヤメは胸の奥に小さなざわめきを覚えた。
名前のつかない、形のない感覚。
それが何なのかはわからない。
ただ――
この場所の空気は、冷たくはなかった。
***
夜。
診療所の窓辺で、アヤメは静かに外を見ていた。
木々の影が月の光で揺れ、風が柔らかく吹き抜ける。
ミラは寝息を立てながら椅子に体を預けていた。
昼からずっと付き添っていたせいで疲れたのだろう。
アヤメはしばらくその顔を見つめる。
守られている。
その事実だけが、胸の奥に小さな形をつくっていた。
――風が鳴る。
外で、枝が折れるような音がした。
空気が一瞬だけ張りつめる。
アヤメの瞳が、ごくわずかに揺れた。
その振動は、彼女以外の誰にも届かない。
理由のないざわめき。
記憶のない違和感。
それは、やがて訪れる“覚醒”の予兆だった。
そして夜は静かに深まっていく。
集落を包む闇の向こうで、何かが確かに動き始めていた。
まだ誰もその兆候を知らない。
ただ、アヤメの内側だけが、微かに反応していた。
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