第6話

「柳瀬くん、いいのか?」


 心配そうに尋ねる神崎の横で、譲がうなずくより先に磐田は「決まりだな」とつぶやいて立ち上がる。そのままゼミ室の奥に据え付けられている小さな台所のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。


 磐田が席に立った後、改めて神崎の念押しがあったが譲はそれにもうなずいた。自分がどれだけ力になれるかはわからないが、せめて南のためにも自分にできる範囲は協力しようとする思いだった。


 しばらくして磐田がカップにコーヒーを淹れて戻ってきた。挽きたてのコーヒー豆の香りが鼻腔をくすぐる。席についた磐田はさっそく一口含む。


「お前、普通三人分淹れてこないか?」


 自分一人コーヒーを楽しむ磐田を神崎が非難する。磐田自身はそれを何も気にしない。


「欲しかったら奥にコーヒーメーカーも豆もある。自分で淹れたらどうだ?」


「俺、淹れて来ましょうか?」


 譲が気を利かせて尋ねが神崎は片手でそれを制して「柳瀬くん、大丈夫。コーヒーが飲みたかったというより徹の気遣いの問題」と言った。


 神崎の言うことはわかるがそれを磐田に要求するのは少し無理がある。普段のゼミの時から磐田は傍若無人、よく言えばマイペースを崩さない。人間の心を深く追求するくせに自分が他人からどう思われようとも気にしない。


 譲は完全にこういう人だと変人扱いしてあきらめているが、神崎はそうでないらしい。やはり同級生の立場だと少し見え方も違うのだろうかと思う。


「それより早く現在の捜査の状況を話してもらおうか」


 磐田が神崎に席に着くよう促す。まだぶつくさ言いながら神崎が席に座ったので、譲もそれにならって席に着く。


「今回のことについてどこまで聞いているんだ?」


「ほとんど何も。松本先生からの第一報を聞いただけだ」


「柳瀬くんも同じか?」


「ええ、大学に来たらもう警察の規制がかけられていたし、大学からの休講のメールと岩田先生から伝え聞いた話が全部です」


「わかった。とりあえず今回のできごとのあらましをまず話そう。いったん全部話すから何かひっかかることがあれば質問してくれ」


 譲はこくんとうなずく。隣の磐田も手にしていたコーヒーカップを机に置き、真剣な表情を浮かべる。


「南朋子の遺体が発見されたのは六月十三日、つまり昨日の二十三時四十五分。死因は大学寮屋上からの転落死。地面に敷かれていたタイルに頭部を強く打ちつけていて即死だったようだ。細かいことは司法解剖してみないとわからないが、他に争ったあとなどは見つかっていないので今のところは屋上からの転落が直接の死因とみて間違いはなさそうだ。一応、毒物などの検査もしているがそういった場合は何らかの反応が死体に表出することが多いからな」


「……転落死」


「そこまで驚くことではない。日本人の死因としてはわりと上位だ。もちろん事故、自殺いろいろなケースがあるし、転落といっても様々な場所が考えられるが」


 さもよくあることのように磐田が語るのを聞いて、疑り深く神崎の方を見るが神崎も無言でうなずき返す。神崎の「続けていいか?」の言葉に磐田はどうぞとばかりに掌を差し出した。


「第一発見者は同じゼミの荒川綾菜」


「荒川先輩⁉」


 思わず声をあげてしまう。


「ああ、彼女は南朋子と同じく大学寮に住んでいる。実は彼女が言うには直前まで南朋子と電話で話している。だが突然電話が切れてしまい、彼女の方から電話を掛け直しても呼び出し音はなっているが一向に出る気配がない。不審に思っていると外で何かが落下するような音が鳴って、気になって窓から外を見ると暗闇の中に人間らしきものが横たわっているのが見えた。慌てて下りて外に出てみるとすでに即死していた南朋子を見つけた。そこまでが今回の件の発覚に至るまでの経緯だ。その後すぐ荒川の手によって警察に連絡が行っている。警察が来る頃にはあたりは騒然となっていたが、時間も時間だしな、地面に落下した音を聞いたという人物は複数いたが、現場周辺にいた人物は今のところ他には見つかっていない」


「これって警察では今のところ事故として考えられているんですよね? でも神崎さんは事件だと考えているってことですか?」


「……いや、まだそこまでは考えていない」


「あくまで可能性の問題だろ?」


 磐田が譲の質問に横やりを入れてくる。


「可能性?」


「さっきも神崎が言っていたが警察の仕事にも効率ってもんがある。たとえば自殺の疑いが残っている場合でも動機が最後まで不明のときには事故として処理されることもある。たとえ事故にしてもできる限り他の可能性もつぶしておきたいってことだろう」


「ああ、時間も時間で目撃者も少ない。第一発見者の荒川綾菜の証言も今のところ矛盾はないがそれを裏付ける完全な証拠はない。荒川のスマホには南のスマホからの発信と通話記録があったが、それだってごまかそうと思えばいくらでもやりようがある。平たく言えばアリバイがないってやつだ」


 両手を広げる大げさなリアクションを神崎が見せる。


「もしかして荒川先輩を疑っているんですか⁉」


「いや、そういうわけではなくていろんな可能性があると言いたかっただけだ」


 荒川が南を殺害するなんて考えられない。驚いて聞き返した譲を神崎がなだめる。磐田は無言でカップのコーヒーを口に運んだ。


「少なくとも南朋子のまわりの人間関係を丁寧に洗ってみる必要はある」


「現在のところ警察の見立てでは南朋子は大学寮の屋上から転落事故によりなくなった。他の可能性は少なくとも二つある」


 磐田が指を人差し指と中指を立てた。


「一つは自殺。この場合、南朋子の人間関係や部屋を捜索する中で何らかの情報が出てくる可能性がある。もう一つは他殺。今のところ可能性はかなり低いようだが、南が落下するところが目撃されたわけではないので零ではない」


「何かそれを聞いていたら不謹慎だけど事故であることを願ってしまうな……」


 うんざりした表情で譲が言った。捜査のうえでいろんな可能性を追求する必要があることはわかるが、これ以上の不幸が広がることがないように願った。南が亡くなったという事実だけですでに辛い。譲ですらこんな気持ちになるのだから同じゼミの荒川などはなおさらだろう。ましてや荒川は第一発見者だ。懇親会でほぼ初対面の譲にも気遣いを見せていた荒川の姿を思い出した。聞き込みどうこうよりも少しでも荒川の心を軽くしてやりたいと思った。


「荒川さんへの事情聴取はもう済んでいるのか?」


「ああ、すでに寮の自分の部屋に戻っているはずだ。他にも聞きたいことが出てきた時には協力してもらうよう依頼はしているし、彼女自身も何かわかれば教えてほしいと願っていたので聞き込みをすることは可能だ。この後、当たってみるか?」


 神崎の提案に磐田は首を振る。


「いや、司法解剖の結果が出るまでに先に現場を見ておきたい」


 磐田は立ち上がって、椅子の背にかけていたジャケットに袖を通した。警察の規制線が張られた現場に赴くことはためらわれたが、この状況ではそうも言っていられない。ゼミ室を出て先々と進んでいく磐田を見失わないよう追いかけた。

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