第二話 「犯罪者のあなたとは離婚します」裏切者の妻は俺の部下と再婚。絶望の底で、俺と娘は静かな復讐を誓った

会社を追われた翌日から、俺の世界はさらに加速度を増して崩壊していった。

事件は、俺がネクストリームの元社員であるという情報と共に、ネットニュースとして瞬く間に拡散された。匿名掲示板には、俺の個人情報を特定しようとするスレッドが乱立し、名前や住所、家族構成までが、悪意に満ちた憶測と共に晒されていく。


『雨宮刻夜、確定。大手ITのエースだったらしいが、性癖は歪んでたんだなw』

『娘も同じ高校か。可哀想に。父親が痴漢とか、学校でいじめられるだろ』

『こういう奴は再犯する。社会から抹殺すべき』


スマートフォンの画面に並ぶ、顔の見えない大衆からの罵詈雑言。その一つ一つが、俺の心を無慈悲に抉っていく。俺は無実だ、と叫びたかった。だが、デジタルの奔流の中で、個人の声などあまりにも無力だった。


そんな地獄のような日々の中、俺の隣でじっと同じ画面を見ていた星良が、静かに口を開いた。


「ひどいね。顔も名前も知らないくせに、好き勝手言って」


その声には、怒りよりも冷たい軽蔑が滲んでいた。彼女は俺が思うよりずっと強く、そして大人だった。


「星良、学校は……大丈夫か? 何か言われたりしないか?」

「別に。何か言ってくるようなレベルの低い子、私のクラスにはいないから。もしいたら、論破して泣かせるだけだし」


そう言って、星良はふっと笑った。その気丈な振る舞いが、今は痛いほどありがたかった。

しかし、本当の追い打ちは、身内から放たれた。


「もう限界です」


リビングのソファで、美月が切り出した。彼女の目は虚ろで、ここ数日の心労でやつれた、というよりは、自分の置かれた状況への不満で歪んでいるように見えた。


「離婚してください。犯罪者の妻だなんて、耐えられない」

「まだ容疑者だ。それに、俺は無実だと言っているだろう」

「どうでもいいのよ、そんなことは! 世間はあなたを『痴漢』だと見てる! それが全てなの! 私がどんな惨めな思いをしてるか、あなたにわかる!?」


金切り声を上げる美月。彼女の瞳には、かつて俺に向けられていた愛情のかけらも残っていなかった。いや、そもそも愛情など存在せず、あったのは「大手企業の優秀なエンジニアの妻」というステータスへの執着だけだったのかもしれない。


「わかった。離婚しよう」


俺は、もう何も言い返さなかった。この女に何を言っても無駄だ。俺たちの関係は、とっくの昔に終わっていたのだ。俺がそれに気づかないふりをしていただけで。

俺が淡々とそう告げると、美月は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。


「財産分与だけど、この家と貯金の八割は私がもらうわ。あなたが有責配偶者なんだから、当然よね?」

「……好きにすればいい」


もうどうでもよかった。金も、家も。だが、一つだけ譲れないものがあった。


「星良の親権は、俺が持つ」

「は? 何を言ってるの? 犯罪者の父親に、娘を任せられるわけないでしょう!」


美月がヒステリックに叫んだ、その時だった。ずっと黙って二人のやり取りを聞いていた星良が、冷え切った声で言った。


「私が決めることだよ、それは」


星良はゆっくりと立ち上がると、俺と美月の間に立った。そして、まず美月の目をまっすぐに見据える。


「お母さん、本気で言ってるの? お父さんが一番辛い時に、追い出して、お金まで全部取ろうとしてる。そんな人のところに、私がいたいと思う?」

「星良……あなた、騙されてるのよ! この人は……!」

「騙されてるのはお母さんの方だよ。世間体とか、見栄とか、そんなくだらないものに。私はお父さんと一緒に行く。お母さんみたいな人とは、もう一緒にいられない」


その言葉は、美月の胸に深く突き刺さったようだった。彼女はわなわなと唇を震わせ、憎悪に満ちた目で俺を睨みつけた。


「……そう。わかったわ。勝手にすればいい。後で泣きついてきても知らないから!」


捨て台詞を残し、美月は部屋を出て行った。

静まり返ったリビングで、俺は娘の顔を見つめた。


「星良……いいのか? 父さんと来たら、苦労するぞ」

「別に。お父さんと一緒なら、その方がずっといい」


星良はそう言って、少しだけはにかんだ。その笑顔を守るためなら、俺はなんだってできる。そう思った。


しかし、地獄はまだ終わらない。

離婚届にサインをした数日後。俺と星良が家を出る準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこに立っていたのは、俺の元部下であり、社内では人当たりの良さで評判だった、神楽坂怜士(かぐらざかれいじ)だった。


「雨宮さん……。この度は、本当に……」


怜士は、心底同情しているかのような悲しげな表情を浮かべていた。だが、その目の奥に、一瞬だけ嘲るような光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。


「……神楽坂か。何の用だ」

「いえ、少しでもお力になれればと……。それと、美月さんから、今後のことで相談を受けていまして」


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが繋がった。なぜ、こいつがここにいる? なぜ、美月の相談に乗っている?

すると、奥から美月がやってきて、ごく自然に怜士の腕に自分の腕を絡めた。


「怜士さん、来てくれたのね」

「もちろんですよ、美月さん。辛かったでしょう。これからは俺が、あなたと……星良ちゃんを守りますから」


怜士はそう言って、俺と星良に向かって、慈愛に満ちた笑みを向けてみせた。その偽善に満ちた光景に、吐き気がした。

全てを理解した。俺を陥れた黒幕。それは、俺の才能に嫉妬し、俺の地位と成果を奪おうと画策していた、この男なのだ。そして美月は、俺という船が沈みかけると見るや、すぐにこの怜士という新しい船に乗り換えたのだ。


「お母さん……最低」


隣で星良が呟いた声は、氷のように冷たかった。

怜士は、勝ち誇った視線を俺に送り、わざとらしくため息をついた。


「雨宮さん、あなたのせいで、美月さんも星良ちゃんも傷ついてるんですよ。自分のしたことの重大さが、わかっていますか?」


お前が言うな。その言葉が喉まで出かかったが、俺はぐっとこらえた。今、ここでこいつを殴り飛ばしても、状況は悪化するだけだ。証拠は何もない。


「……行こう、星良」


俺は娘の肩を抱き、最低限の荷物が入ったボストンバッグと、ノートパソコンが入ったケースだけを手に取った。怜士と美月の嘲笑を背中で感じながら、俺と星良は長年住んだ家を後にした。もう、振り返ることはなかった。


俺たちが新たな住処として選んだのは、都心から少し離れた、古い木造アパートの一室だった。ギシギシと音を立てる階段、隙間風の入る窓。かつての生活とは雲泥の差だ。

六畳一間の部屋に荷物を下ろし、俺は畳の上に崩れるように座り込んだ。

職を失い、妻に裏切られ、家も財産も奪われた。世間からは犯罪者の烙印を押され、全てを失った。絶望が、冷たい霧のように体を包み込んでいく。


「……すまない、星良。こんなところに……」

「何言ってるの」


星良は、俺の隣にどかりと座ると、窓の外を眺めた。


「ここ、日当たりはいいじゃん。それに、二人だけって、なんか秘密基地みたいでワクワクする」


その言葉は、無理に明るく振る舞っているわけではない、彼女の本心からのものだとわかった。彼女は、この状況すらも、前向きに捉えようとしてくれている。

俺は、なんて強い娘を持ったんだろう。

その時、星良は俺の方を向き直り、真剣な目で言った。


「ねえ、お父さん。復讐しよう」

「……え?」


予想外の言葉に、俺は顔を上げた。


「お父さんを陥れた奴ら。お母さんとか、あの神楽坂って人とか、会社の人たちとか、ネットで好き勝手言ってる奴らとか。全員、後悔させてやろうよ」


星良の瞳には、静かだが確かな怒りの炎が燃えていた。

そうだ。このまま、やられっぱなしで終わるわけにはいかない。俺の無実を証明し、俺たち親子から全てを奪った者たちに、その代償を支払わせなければならない。俺の尊厳を、そして何より、俺を信じてくれたこの娘の未来を守るために。


「……ああ、そうだな」


俺の心に、再び火が灯った。絶望の底から、新たな決意が湧き上がってくる。

俺は立ち上がり、部屋の隅に置いたノートパソコンのケースを開いた。中には、俺がここ数年、心血を注いできた相棒が入っている。


「手伝ってくれるか、星良」

「もちろん。私、そういうの得意だし」


星良はニヤリと笑った。彼女は現代の高校生らしく、SNSやネットの仕組みに非常に詳しかった。俺の技術と、彼女の知識。それを組み合わせれば、強力な武器になるはずだ。


俺はパソコンを起動し、真っ黒なコンソール画面を開いた。そこに、無数のコードを打ち込み始める。

趣味で開発していた、超高性能AI。ネットの海に漂うあらゆる情報を収集し、分析し、真実を導き出すためのプログラム。

こいつに、名前をつけよう。

神々が信託を授けるように、俺に真実を示してくれる存在。


『オラクル』


カタカタというキーボードの音だけが、静かな部屋に響き渡る。

それは、絶望の底から始まる、俺と娘の静かで、しかし徹底的な復讐の誓いだった。神楽坂、美月、そして俺を切り捨てたネクストリーム。お前たちが俺から奪ったものの大きさを、これから骨の髄まで思い知らせてやる。俺の作った「神」が、お前たち全員に裁きを下すだろう。

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