痴漢冤罪で全てを失った俺。信じてくれた娘と始めるAI復讐劇~今さら泣きつく元妻と元職場? もう遅い~

@flameflame

第一話 「お父さんを信じてる」――痴漢の濡れ衣を着せられ、世界中が敵になった日、たった一人の娘だけが俺の味方だった

ありふれた平日の朝だった。

トーストの焼ける香ばしい匂いと、テレビキャスターの明るい声がリビングに満ちている。俺、雨宮刻夜(あまみやときや)は、コーヒーカップを片手に、壁に掛けられた時計に目をやった。七時十五分。いつも通りの時間だ。


「あなた、今日は少し早いんじゃない?」


キッチンから聞こえてきたのは、妻である美月(みつき)の声。その声色には、夫を気遣う温かみよりも、どこか日常のルーティンが崩れることへの苛立ちのような響きが混じっていた。


「ああ、少しサーバーの様子が気になってな。早めに行って見ておきたい」

「また仕事の話。家でくらい、仕事のことは忘れたらどうなの」


美月はそう言って、バターを塗ったトーストを皿に叩きつけるように置いた。四十歳になった彼女は、かつての輝きを高級な化粧品で懸命に塗り固めている。俺が大手IT企業「ネクストリーム」でエースエンジニアとして働き、高い給料を得ていること。それが彼女のプライドを支える唯一の柱であることを、俺はとうに気づいていた。


「ごめん、行ってくるよ」


俺が席を立つと、階段を降りてくる軽やかな足音が聞こえた。


「お父さん、おはよう」


制服姿の娘、星良(せいら)だった。高校二年生になった娘は、眠たげな目をこすりながらも、俺の顔を見るとふわりと微笑んだ。


「おはよう、星良。今日も早いな」

「うん。朝練あるから。お父さんも早いね、もしかして、また新しいアルゴリズムでも思いついた?」


悪戯っぽく笑う星良に、俺の口元も自然と緩む。この娘だけだ。この家で、俺の仕事を、俺という人間そのものを、純粋な興味と尊敬の目で見つめてくれるのは。


「まあ、そんなところだ。じゃあ、行ってくる」

「いってらっしゃい。気をつけてね」


星良の澄んだ声に見送られ、俺は玄関のドアを開けた。美月からの「いってらっしゃい」は、もう何年も前から聞こえてこない。


駅へと続く道を歩きながら、俺はスマートフォンを取り出した。開いたのは、趣味で開発している情報収集・分析用AIのソースコードだ。まだ名前もつけていない、俺だけの秘密のプロジェクト。複雑に絡み合ったロジックの海を眺めている時だけが、冷え切った家庭の空気を忘れさせてくれる。


プラットフォームは、すでに通勤ラッシュの喧騒に包まれていた。息苦しいほどの人の波に乗り込み、吊り革を掴む。これが、俺の日常。この満員電車に揺られ、会社という戦場へ向かう。俺が開発したAIアルゴリズムは、今やネクストリームの根幹を支えるいくつものサービスに組み込まれている。会社の屋台骨。上司である長谷部部長も、社長の轟でさえも、俺の能力には一目置いているはずだった。この時までは、そう信じて疑わなかった。


電車がいくつかの駅を過ぎ、車内の混雑がピークに達した、その時だった。

ガタン、と大きな揺れと共に、乗り込んできた人々の波が俺の背中を押した。バランスを崩し、数センチ前に立っていた女性の背中に、俺の手の甲が軽く触れてしまう。


「すみません」


すぐに謝罪の言葉を口にしたが、その声は車内の喧騒にかき消された。その直後、甲高い悲鳴が鼓膜を突き破った。


「きゃああああっ!」


心臓が凍りつくような叫び声。声の主は、俺の前にいた若い女性だった。肩を震わせ、怯えた目で俺を睨みつけている。水瀬彩葉と名乗ることになるその女の顔を、俺はこの瞬間、初めて認識した。


「この人、痴漢です!」


彩葉が震える指で俺を指さした瞬間、世界から音が消えた。

周囲の乗客たちの視線が、一斉に俺へと突き刺さる。好奇、軽蔑、嫌悪、敵意。あらゆる種類の負の感情が、槍のように俺の全身を貫いた。


「ち、違います! 今、電車が揺れて……」


必死に弁解しようとするが、声はかすれてまともに出ない。パニックで頭が真っ白になる。彩葉は、まるで壊れた人形のようにガタガタと震えながら涙を流し始めた。


「さっきからずっと……気持ち悪かった……」


その演技がかった台詞に、周囲の空気が決定的に固まる。近くにいた若い男が、正義感に満ちた顔で俺の腕を掴んだ。


「おい、あんた。次の駅で降りろよ」

「待ってください、本当に何もしていません!」


俺の悲痛な叫びは、誰の耳にも届かなかった。「最低」「警察に突き出せ」「顔を覚えとこうぜ」。囁き声が、悪意の刃となって俺を切り刻んでいく。

次の駅に着くと、俺は腕を掴まれたままホームに引きずり出された。彩葉は駅員に駆け寄り、泣きじゃくりながら俺を指さす。駅員たちの事務的で冷たい視線が、俺を犯罪者だと断定していた。


連行された駅員室は、無機質で息が詰まるような空間だった。

彩葉は、途切れ途切れに、しかし巧妙に組み立てられた嘘を語り続けた。俺が電車に乗った時からずっと粘着質な視線を送ってきて、混雑に乗じて体を密着させ、卑劣な行為に及んだのだと。その涙と震える声は、完璧な被害者を演出していた。


「私は、何もしていません。揺れた拍子に、手が当たってしまっただけです」


俺の主張は、ただの「よくある言い訳」として処理された。駅員は同情的な視線を彩葉に向けながら、俺に対しては疑いの眼差しを隠そうともしない。警察が呼ばれ、事情聴取が行われ、結局、俺は容疑を完全に否認したものの、その事実は会社にも伝わることになった。


何時間にも及ぶ悪夢のような時間が過ぎ、ようやく解放された時には、空はどす黒い紫色に染まっていた。

ふらつく足で自宅への道を歩く。頭の中では、彩葉の涙と、乗客たちの冷たい視線が繰り返し再生されていた。なぜ、俺が。何もしていないのに。


重い足取りで玄関のドアを開けると、リビングの明かりが漏れていた。ソファに深く腰掛けた美月が、テレビ画面を食い入るように見つめている。俺の帰宅に気づいても、視線すらよこさない。


「……ただいま」


絞り出すような声に、美月はゆっくりと顔を上げた。その目に宿っていたのは、心配や同情ではない。凍てつくような軽蔑の色だった。


「どうしてくれるのよ」


吐き捨てるような、低い声。


「夕方のニュース速報で見たわよ。『大手IT企業社員、痴漢容疑で……』って。もうご近所さんの間でも噂になってる。恥ずかしくて外も歩けないわ」

「違うんだ、美月。俺はやってない。濡れ衣なんだ」

「言い訳なんて聞きたくない! やったとかやってないとか、そんなことはどうでもいいの! 問題は、あなたが『痴漢の容疑者』になったってこと! 私の経歴に、私の人生に、泥を塗ってくれたのよ!」


世間体。見栄。ステータス。彼女が気にしているのは、それだけだった。長年連れ添った夫が犯罪者扱いされ、心身ともに傷ついていることなど、彼女の関心の外だった。俺が築き上げてきた社会的地位という名の城が崩れ始めた時、彼女は俺を真っ先に見捨てたのだ。

全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった、その時。


「ただいまー」


玄関のドアが開き、星良が帰ってきた。リビングの異様な空気を察したのか、星良は俺と美月の顔を交互に見つめる。


「……どうしたの? 喧嘩?」


美月は、待ってましたとばかりに立ち上がると、蔑むような声で言った。


「星良、よく聞きなさい。あなたのお父さんはね、今日、電車で痴漢をしたの。犯罪者になったのよ」


その残酷な言葉に、俺は息を呑んだ。なんてことを言うんだ。たとえ俺を信じなくても、娘にそんな言い方があるか。

星良の大きな瞳が、驚きに見開かれる。俺は、娘にだけは、そんな目で見られたくなかった。だが、星良の次の言葉は、俺の予想を完全に裏切るものだった。


「……嘘だよね?」


星良は、美月ではなく、まっすぐに俺の目を見て言った。その声には、微塵の疑いもなかった。


「お母さんの馬鹿! お父さんがそんなことするはずないじゃない! ニュースなんてどうせ切り取られた情報だけでしょ!」

「星良! あなた、何を言ってるの!?」

「私は、お父さんを信じてるから」


きっぱりとした、力強い声。それは、崩壊しかけていた俺の世界を繋ぎとめる、たった一本の光の糸だった。星良は俺のそばに駆け寄ると、震える俺の手をぎゅっと握りしめた。その小さな手の温もりが、凍りついた心にじわりと染み渡っていく。


「ありがとう……星良……」


俺は、それだけを言うのが精一杯だった。


翌日。覚悟はしていたが、会社は地獄だった。

オフィスに足を踏み入れると、それまで響いていた話し声がぴたりと止み、全ての視線が俺に集中した。誰も目を合わせようとしない。だが、背後では「あれが……」「マジかよ……」「関わらない方がいい」という囁き声が、粘菌のように広がっていくのがわかった。

長年、共にプロジェクトを成功させてきた同僚たちも、遠巻きに俺を見ているだけだ。俺のデスクだけが、まるで汚染区域のように孤立していた。


昼休みが過ぎた頃、内線が鳴った。人事部長の伊集院(いじゅういん)からだった。

社長室に来るように、と。

重い足取りで社長室のドアをノックすると、中には社長の轟(とどろき)、人事部長の伊集院、そして直属の上司である長谷部(はせべ)部長の三人が、硬い表情でソファに座っていた。


「雨宮君、座ってくれ」


轟社長が、値踏みするような目で俺を見る。典型的な事なかれ主義者である彼は、会社の評判に傷がつくことを何よりも恐れている。


「今回の件だがね」


口火を切ったのは、人事部長の伊集院だった。彼は規則と前例を絶対視する冷徹な男だ。


「警察から連絡があった。君が容疑を否認していることは聞いている。だが、事が公になった以上、会社として何らかの対応をせざるを得ない」

「私は無実です。断じてやっていません」

「君の主張はわかった。しかし、だ。我が社はクリーンなイメージを大切にしている。社員一人の、それもプライベートな疑惑のために、長年築き上げてきた顧客からの信用を落とすわけにはいかないんだ」


長谷部部長が、バツが悪そうに目を逸らしながら言った。彼は俺の能力を評価してはいたが、自分の保身が最優先の小心者だ。面倒事に巻き込まれるのを恐れているのが見て取れた。


「そこで、提案なんだがね」


轟社長が、まるで慈悲を与えるかのように言葉を続けた。


「会社都合での解雇となると、君の経歴にも傷がつく。自主的に退職届を出してくれないか。そうすれば、退職金も規定通り支払う。我々も、これ以上事を荒立てたくはないんだ」


言葉を失った。

長年、身を粉にして会社に貢献してきた。いくつもの困難なプロジェクトを成功に導き、会社の利益に貢献してきた自負がある。その俺に対する仕打ちが、これか。

疑惑の段階で、真偽を確かめようともせず、ただ「会社のイメージ」という曖昧なもののために、俺を切り捨てる。彼らにとって俺は、代わりのきく部品の一つでしかなかったのだ。


「……わかりました。自主退職します」


抵抗する気力もなかった。この人たちに何を言っても無駄だ。俺はもう、この会社にとって「不要な存在」なのだ。

伊集院が用意周到に準備していた退職届にサインをすると、三人はあからさまに安堵の表情を浮かべた。


その日のうちに私物を段ボールに詰め、俺は「ネクストリーム」のビルを後にした。夕暮れの赤い光が、高層ビル群のガラスに反射して目に痛い。

職を失った。社会的な信用も失った。家庭も、もう崩壊している。俺から、全てが奪われていった。


段ボール箱を抱え、とぼとぼと夜道を歩く。

俺を陥れたのは、誰だ? あの女、水瀬彩葉は、なぜあんな嘘をついた? ただの偶然だったのか? それとも、そこには何か悪意に満ちた「計画」があったのか?

答えのない問いが、頭の中をぐるぐると回り続ける。


冷たいコンクリートの感触だけが、俺がまだこの世界に立っていることを教えてくれる。

絶望の闇の中で、俺の脳裏に浮かんだのは、娘の顔だった。


『私、お父さんを信じてるから』


そうだ。俺にはまだ、星良がいる。世界中が敵になっても、たった一人、俺を信じてくれる娘がいる。

その事実だけが、かろうじて俺の心を繋ぎとめていた。

ふと、足が止まる。

怒りだ。体の奥底から、静かで、しかしマグマのように熱い怒りが込み上げてくるのを感じた。

俺から全てを奪った者たちへ。俺の尊厳を踏みにじった者たちへ。

このまま、終わらせてたまるか。

夕闇に染まる街並みを見つめながら、俺は固く拳を握りしめた。これが、長い復讐劇の始まりの合図だった。

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