第一話 ガラクタの海、黄金の継ぎ目

 空があまりに青すぎると、人は不安になるらしい。

 この世界の空は、まるで誰かが雲を描き忘れた絵画のように、のっぺりとした均一な青だ。

 砕かれた大地の欠片――無数の浮島の影が、その底なしの青に沈むように浮かんでいる。見上げていると、自分が空へ落ちていくような錯覚に襲われる。


 俺はゴーグルの位置を直し、視線を足元の「現実」に戻した。

 鉄錆の匂い。鼻腔を刺す古いオイルの臭気。

 ここは最下層浮遊島「スクラップ・ヘイブン」。かつて地上と呼ばれた場所から切り離され、行き場を失ったゴミたちが流れ着く墓場だ。


 俺は軋む鉄骨の山に手をかけた。

「……痛いな。そんなに悲鳴を上げたら、身が持たないぞ」

 独り言だ。だが、俺には鉄骨の軋みが、寿命を訴える悲鳴のように聞こえる。

 俺、レンは、このゴミ溜めで「死体」を探して暮らしている。


「おいレン! またそんなガラクタ拾ってんのか?」

 頭上から声が降ってきた。同業者のオヤジだ。

「ガラクタじゃないさ。これは旧文明の調理器の心臓部だ。磨けばまだ動く」

「はっ、物好きだなあ。そんな手間かけるなら、上の階層から新品を仕入れた方が早えぞ」

「新品は面白くないんだよ。……それに、こいつはまだ生きたがってる」


 オヤジは呆れて飛び去っていった。

 俺は掘り出した汚れた金属塊を、懐から取り出した布で丁寧に拭う。

 俺には分かる。ここにある「傷」は、こいつが誰かの役に立とうとして、摩耗し、壊れていった歴史だ。

 俺の前職――前世と言ったほうがいいか――は、美術館の修復師だった。

 割れた茶碗を漆と金粉で繋ぎ合わせ、傷跡さえも景色として愛でる「金継ぎ」。その精神(こころ)が、異世界に転生した今も俺の魂にこびりついている。


 ふと、胸ポケットに入れた懐中時計の重みを感じた。

 銀色の蓋は黒ずみ、針はピクリとも動かない。俺がこの世界で最初に拾ったものだ。

 だが、これだけはなぜか直せない。俺のスキルが弾かれるのだ。

(お前も、頑固だな)

 時計を撫でると、少しだけ指先が温かくなった気がした。……気のせいか。


 その時だった。

 ガラクタの山の奥深く、崩れかけた古代遺跡の入り口から、奇妙な風が吹き抜けた。

 鉄錆の匂いに混じって、どこか懐かしい、甘い香木のような匂い。

 俺は吸い寄せられるように、立ち入り禁止の区画へと足を踏み入れた。


 瓦礫の王座に、彼女はいた。

 少女だった。あるいは、そう精巧に作られた「何か」だった。

 陶器のように白い肌。色素の抜けた長い銀髪は、泥に塗れていても絹のような光沢を放っている。

 だが、その姿はあまりに残酷だった。

 左腕は肘から先がなく、無数のコードが血管のように垂れ下がっている。

 そして何より――胸の真ん中に、向こう側が透けて見えるほどの大穴が空いていた。


 俺の足がすくんだ。

 彼女の周囲には、警告色が塗られたプレートが散乱していた。『殲滅』『特級危険物』『廃棄』。

 世界を滅ぼした兵器。伝説にある「機械仕掛けの聖女」かもしれない。

 本能が叫ぶ。関わるな。逃げろ。

 俺はただの修復師だ。こんな世界を揺るがす代物を背負えるわけがない。


 踵(きびす)を返そうとした、その瞬間。

 彼女の頬に入った一筋の亀裂が目に入った。

 まるで、涙が流れた跡のように見えた。


(泣きながら、壊れたのか。お前は)


 足が止まった。

 怖い。だが、それよりも強い衝動が胸を引いた。

 この傷の残酷さを、見捨てることができなかった。

 俺は震える手で、その冷たい頬に触れた。


「……直してやる」

 理屈ではなかった。この傷跡ごと、彼女という存在を肯定してやりたい。そんなエゴが、俺の魂を揺さぶった。

 俺は彼女の胸の穴に両手をかざす。

 深呼吸。肺の中の空気をすべて吐き出し、代わりに魔力を練り上げる。


「――修復(レストア)」


 視界が反転する。

 俺の網膜に、彼女の「過去」が高速で逆流してきた。

 瓦礫に埋もれる前。空から墜落する光景。戦火の中で何かを守ろうと盾になり、その胸を貫かれた瞬間。

 やっぱりだ。お前は、ただ壊しただけじゃない。

 何かを守ろうとして、壊れたんだな。


 光の粒子が舞う。

 周囲の瓦礫から、彼女を構成していた金属片や部品が巻き戻るように集まっていく。

 足りない部分は、俺の魔力が黄金の接着剤となって埋めていく。

 同時に、脳の奥がチリチリと焼け付くような感覚に襲われた。


 ――代償の支払い。


 俺のユニークスキルは、物理法則をねじ曲げて時間を戻す。

 その対価は、俺自身の「時間」だ。俺が生きて積み重ねてきた、大切な記憶(レコード)。


 頭の中にあったアルバムが、無作為に開かれる。

 七歳の夏。神社の境内。

 蝉の声。ラムネの味。隣で笑っていた友人の顔。

 ――あいつ、なんて名前だっけ?

 名前が消えた。顔がモザイクのようにぼやけ、やがて白紙になる。

 蝉の声が遠のく。

 七歳の夏が、波打ち際の砂の城のように崩れていく。

 「楽しかった」という気配だけを残して、跡形もなく消えていく。


(……ああ、持っていけ)


 俺は奥歯を噛み締めた。

 喪失感で吐き気がする。胸の中に冷たい空洞ができる感覚。自分が自分でなくなっていく恐怖。

 だが、目の前で塞がっていく少女の傷跡を見れば、耐えられた。

 俺の過去と引き換えに、お前の未来が繋がるなら。これは等価交換だ。


 カチリ、と音がした。

 胸の大穴が塞がり、黄金の継ぎ目が輝く。ちぎれた左腕も、本来あるべき美しい義手として再生された。

 光が収束する。

 静寂が戻った遺跡の中で、俺は膝をついた。酷い目眩がする。

 さっきまで確かにあった夏の日差しは、もうどこにもない。


 駆動音が響いた。

 少女の瞼が、微かに震える。

 長い睫毛が持ち上がり、ガラス玉のような――いや、星空を映したような深い紫色の瞳が露わになった。

 焦点が定まらず彷徨い、やがて目の前の俺を捉える。


「……起動……? わたしは……エルカ?」

 機械的なノイズ混じりの声。だが、そこには明らかな「揺らぎ」があった。

 彼女は自分の胸に手を当てた。そこには、俺が施した金継ぎの跡が、心臓の鼓動のように脈打っている。

「……熱い。私のメモリに、未知のデータが存在します。これは、夏? 青い空、蝉の音……?」


 彼女が不思議そうに首を傾げた。

 冷徹な機械であるはずの彼女の声に、迷子のような色が混じる。

 俺は息を呑んだ。

 俺が失った記憶が、消滅したのではなく、彼女の中に流れた?

 それは予想外だったが、悪い気分ではなかった。俺の思い出は、この冷たい機械人形の体温になったのだ。


「おはよう、エルカ」

 俺は汗を拭って、できるだけ優しく笑いかけた。

「俺はレン。ただの修復師だ」

「レン……」

 彼女は俺の名前を復唱し、それから俺の胸ポケット――懐中時計がある場所をじっと見つめた。

 一瞬、その無機質な瞳に、激情のような光が走った気がした。


「問います。なぜ、廃棄物(わたし)を修復したのですか。私は世界を壊した兵器です」

「壊れてたからだよ」

 俺は立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。

「それに、世界を壊したって言うなら、責任を取ってもらうさ」

「責任?」

「ああ。壊した分だけ、俺と一緒に直してもらう。……俺一人じゃ、手が足りないからな」


 彼女は俺の手を見つめ、数秒の演算の後、恐る恐るその冷たく硬い指を重ねてきた。

 その瞬間、頭上の曇った空が一瞬だけ晴れ、本当の太陽の光が差し込んだ。

 砕けた世界の継ぎ目に、ひとすじの光が落ちる。

 それはまるで、止まっていた「空海」の世界が、かすかに息を吹き返した合図のようだった。

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