第2話 あの日の頂上から見る景色
「荻原くん!チュロスあるよ!チュロス!!」
「はいはい。どれが良いんですか?」
初めてお母さん以外の人と来た遊園地。二回目のこの場所は記憶の中よりもずっと綺麗になってしまったけど、どこか懐かしい感じがした。ゲートを通ってすぐの屋台にでかでかと宣伝されているそれに思わず声をあげると呆れたようなトーンで何がいいかと問われる。
(別に欲しいとは言ってないよね?)
でも、せっかく買ってくれるのなら素直に甘えよう。
「チョコかかってるやつ!」
「じゃあ並びましょうか。」
自然と歩幅を私に合わせて歩く荻原くんの姿にもしも兄がいたらこんな感じだろうかと錯覚する。
でも、兄妹なんかよりもずっと薄くて軽いこの信頼関係は案外心地が良い。友人ほど気を遣わなくても良いし、家族ほど自分をさらけ出さなくても良い。沈黙も前ほど怖くなくなった。
二人でベンチに座り、買って貰ったチュロスを一口頬張る。うん、美味しい。甘いものはいくらあっても良い。
「甘い!美味しい!」
「ご満足していただけたのなら良かったです。俺は甘いもの苦手ですけど。」
「えぇ……勿体ない。私からしたら荻原くんがいつも飲んでる珈琲とかの方が理解できないよ。」
「まあ味の好みは千差万別、十人十色と言うことです。」
ふーん、と空返事をして考える。少し前にストレスを溜めている人はストレスを軽減するために無意識下に苦味のあるものを求める場合があると聞いたことがあった。本当かどうかは定かじゃないけどそれを聞いて少しだけ、ほんの少しだけ荻原くんの珈琲を飲む手がいつか止まってくれたら良いなと思ってしまう。
「るなさん。食べ終わりました?」
「え?ああ、うん。終わったよ。」
「そうですか。で、質問なんですけど……どのアトラクションに乗るんです?」
「おや?結構乗り気だねぇ荻原くん。もしかして楽しみにしてた?」
身を寄せていつの間にか持ってきたのであろうパンフレットを私に見せる荻原くんに向かってからかい半分で聞いてみる。したらすぐに「違います」と否定が飛んできた。
「今日ここに来たのは貴方の母親を探すための記憶の追体験をする為でしょう?それなら過去に貴方が乗ったアトラクションをなぞらえるといいのではと思ったので聞いたまでです。……もしかして前回アトラクション乗らずに帰ったんですか?」
「いいや!?流石に乗ったよ!?……そっか、記憶の追体験ね。確かにもう一回体験したら思い出すこともあるかも知れないし良いね。うん…………よし!荻原くん!!」
「はい、何ですか?」
勢い良く立ち上がり、荻原くんに声をかけ彼に向かって手を伸ばす。
「……絶叫系の準備はいい?」
「俺は大丈夫なのでるなさん一人で是非どうぞ。」
「おーっし!一緒に行こうか!!!」
「耳聞こえてます?」
なんか文句が聞こえてる気がしたけれどそのまま受け流した。
「乗ろう!乗ろう!」
「無理無理無理無理。」
荻原くんの手首をがっしり掴み引っ張っていく。本人の必死の抵抗は虚しくもアトラクションに乗ることとなった。
……知り合って十ヶ月が経つが成人男性が女子高生に筋力で負けているのは不安になってくる。大丈夫かな?
「荻原くん……。もっと鍛えた方がいいと思う。」
「はぁ?急に何ですか?」
「いや……ただ思っただけだから気にしないでいい。」
哀れみで思わず言ってしまったのだが怪訝な顔で返された。もうそれどころではないみたいだ。
「……ここからの逃げ道は、」
「ないよ?」
もちろん強制参加だ。しっかりと付き合って貰う。その意思が伝わったのか荻原くんから呻き声のようなものが聞こえてきた。しばらく項垂れていたが遂に顔を前に上げ覚悟が決まったように、
「……もう良いです。腹括ります。」
と言ってのけた。
「おー。かっこいー。」
「囃し立ててる場合じゃないんです。乗るんでしょう?アトラクション。早くならびましょう。」
「はーい。」
顔色は死んだままの荻原くんを連れて様々なアトラクションに乗っていく。ジェットコースター、フリーフォールにバイキング等々楽しみがいっぱいだ。次のアトラクションへと急ぐ途中、荻原くんから、
「俺がもし吐いてしまったら早急に他人の振りしてください。惨めになるので。」
と言われた。その顔があまりに悲痛だったのでかける言葉が見つからなかったが、結果的に荻原くんは吐かずに私は隣から聞こえる良き悲鳴を楽しめた。
そして今私達はほぼ死人状態の荻原くんを戻すために先ほどのベンチで絶賛休憩中である。
「……荻原くーん?大丈夫?死んでる?」
「……これが大丈夫だと思うのなら一体どの状態のことを大丈夫じゃないというのでしょうか?」
「大丈夫そうだね。」
「耳と目ついてます?」
「ついてるよ。結構良いほうなんだ。」
「そうですか……。」
軽口が叩けるなら心配は要らなそうだ、と荻原くんの隣に座る。
「飲み物買ってきたよ。お茶だけど、いる?」
「あー、要ります。」
「はい。どうぞ。」
「ありがとうございます。」
一応買って来たペットボトルのお茶を手渡すとお互いに無言になった。荻原くんと一緒に過ごしているとたまにこういうときが訪れる。別にこれといって苦ではない。そういうものなんだと思う。私はただ黙って目の前を通り過ぎていく人々を眺めていた。今日が平日だからか知らないが比較的人は少ないように思う。カップルや友達同士で来たのだろう人たちの中の一組だけに私は目を惹かれた。家族連れだった。父親であろう男性と手を繋ぎもう片方の手を母親らしき女性に引いてもらっている女の子。
「…………良いなぁ。」
無意識だった。自分の口から出たと気づいたのは少し目を見開いて私を見る荻原くんとその視線が交わったときだ。自分で自分の発言に驚いて声も出せない私を気遣ってか否か荻原くんが返す。
「……俺にはよく分かりませんけどね。ああした幸せは。…………こんなこと貴方に言うのはきっと違うのでしょうけど。」
そう言ってあの家族連れに目を向ける荻原くん。ああ、まただ。またあの目をしてる。空っぽで、目の前のものは何も見えていないのに確実に『なにか』を眺めている。現実に焦点が合っていないような。そんな目。私はその目に気づかない振りをして荻原くんに言う。
「……荻原くんはさ、お父さんとかお母さんとかの……家族のことどう思ってる?なんかないの?家族についての話。」
彼の目が私を見た。
「急に何ですか?俺の話を聞いたってどうにもならないのに……。」
「気になったの!それにいつも私ばっかりでしょ?……たまには君の話も聞きたい。」
荻原くんは少し目を臥せしばらく思案してから口を開いた。
「……本当に貴方に話すようなことじゃないですよ。良いんですか?」
「うん。私から話してって言ったんだ。後から無しはしないと誓う。」
だから、話して?
そう催促すると、少し困ったように諦めも混じった微笑みをたたえて荻原くんは話し始める。
「俺、自分の両親が心の底から嫌いなんです。
……まあ育てて貰ったのに何様だって思うかも知れませんが……でも、どうしてもあの人たちの声を、顔を思い出すと吐き気がする。
毎日毎日ヒステリック起こして泣くわ騒ぐわ叩くわしてくる癖に「ごめんなさい、ごめんなさい」って繰り返し謝ってくる母親面の女に、普段まともに帰って来ない癖して久しぶりに顔を出したと思ったら「部屋が汚い」だの「飯がない」だの文句言ってきてつい耐えきれなくて「自分の世話ぐらい自分でやれ」と言ったら「生意気な口を聞くな」と逆上して殴ってくる父親面の男。
……ははっ、あんな奴らと暮らしてきてよくここまで生きてこれたなと今でも思います。本当、いつネジが外れてもおかしくなかった。
……話は変わるんですけど。俺、弟がいたんです。結太っていう名前で、年は俺の四つ下だったかな。家にいたときはずっと一緒にいました。結太はあの二人から生まれたとは思えないほど純粋で、素直で優しい子でした。あの時、自分にはあの二人と同じ血が流れていると思ってた俺が俺自身を嫌いになりかけても結太と同じ血が流れていると思ったら自分が存在して良いように思えたんです。はい、間違いなく俺の救いでした。
……俺が18歳の時ですかね。高校を卒業してすぐに逃げるように家を出て上京しました。少しでも早くあの両親から離れたかったから。あの人たちがいない暮らしは正直言って安心でした。もうあんな奴らの顔色を伺って眠らなくても良いと思えると目を開けて知覚する朝が清々しかった。だけど、唯一の心残りがあの家に置いていってしまった結太でした。あの子が少しでも楽になるように、あの子の為に毎月働いた分のいくつかを実家に送っていました。そんな生活を続けて三年くらい経った日ですかね。たまたま地元の友人に会ったんです。もう疎遠になっていたけど昔よく結太も混ざって一緒に遊んでた奴で、数少ない俺達の親のことを知っている奴だったのでお世話になってました。でもそいつ、俺の顔を見るなり凄い形相で近付いてきておもいっきり殴ったんです。俺の顔を。それはもう勢いよく。訳が分からなかった。理解もできませんでした。当たり前ですよね。急に殴られたんですもん。でも、頭が真っ白の筈なのにそいつの何の順序の組み立てもしていない、思うがままに捲し立てられた言葉が嫌というほど頭にするすると入ってきました。
「お前、何で結太の葬式に出なかったんだ。」
「あの子自殺したんだ。死んだんだよ。遺書だってある。」
「お前は大事な弟の死に立ち会えもしなかったのに、見送ることすらしないのか。」
「お前さ、あいつの兄貴じゃないのかよ。」
「呆れた。お前も、お前の親となんら変わりないじゃないか。」
「…………なあ、何も言わないのかよ。」
何も言葉が出ませんでした。知らなかった。知らされていなかったんです。俺はそいつの言葉を理解するより前にそいつの胸ぐらを掴んでいました。
「何?図星突かれて逆ギレしてんの?やっぱりお前もあいつ等の子供だな。」
違う。違うと言いたかった。でも喉はただ空気を震わせるだけでどうやったって音や言葉は紡げなかった。間違っていなかったんです。そいつの言っていること何もかも間違っていない。俺は最初からこうなるって分かっていた筈なんです。あの家に残されたあの子が生きていける訳がなかった。俺が見殺しにしたんです。『自分だけ地獄から抜け出して弟のことは知らん振り』なんて、俺もあの人たちと同類の屑そのものだ。だから俺は両親をこの世のどんなものよりも憎んでいますし、軽蔑しています。…………少し話し過ぎましたね。ほら、これで終わりです。貴方に話すような内容ではなかったでしょう?」
そう弱々しく締め括った彼の話は確かに『親という存在』に焦がれている私に受け止めきれるような話ではなかった。けれど、話しているときの彼の自嘲にまみれた卑屈な笑みを浮かべた顔を見て私はどうしてもこれだけは伝えなければと彼に向き直る。
「ねえ、荻原くん。」
「どうしました?るなさん。」
「……君は優しい人だ。」
そう言うと同時に彼の目が見開かれその視線が私を射貫いた。私はそのまま言葉を続ける。
「君が自分をどう思おうと、どれだけ卑下しようとしても私から見た君は『家から出てきてまだ右も左もわからない私』に手を差し伸べてくれた優しい人だよ。たとえ、なにかの目的があって私を利用するだけだったとしても私は君を優しい人だと言い続ける。ただこれだけは君にわかって欲しかったんだ。」
「…………。」
「荻原くん。私はさ、優しくて臆病だけど勇気のある君のこと思っているより結構好きなんだ。」
だから過去に囚われないでいいんだと私は思うね。
私の言葉に彼は小さく息を吸い、柔らかに熱をもって笑った。
「……は、あははっ……あぁ、本当に貴方はどうしようもないほどに、俺の逃げ道だ。」
憑き物が落ちたように口角を上げる彼を見て安心する。元気が出たようでよかった。
まだ私は彼が言う『逃げ道』の意味を知らないけれど。それが彼の未来を明るく照らす月になれば良いと思う。
「そう。…………さあ!それじゃ切り替えて。荻原くん!次のアトラクションで最後だよ!」
「まだ乗るんですか……?」
「うん。あと一つだけ!」
私の記憶が正しければ確かに昔お母さんと乗ったことがあるのだ。
まだ乗り気ではない荻原くんの手を引いて私は目当ての場所へと向かった。
「……観覧車ですか。なんともまあ、ベタな。」
「遊園地の最後には鉄板だね。」
はぁ、と荻原くんはため息をつく。
「今までのアトラクションの思い出を振り返るという点では締め括りとしては良いですもんね。俺には吐きそうな最悪な思い出しか甦りませんが。」
「ああ、ごめんね?前に乗ったのがそれだけだからさ。私、絶叫系は昔から大丈夫な人間だったからきっとお母さん楽しくなっちゃって連れ回されたんだと思う。」
お母さんは何事にも動じずに楽しめる人だったから楽しみを娘に共有したかったのかもしれない。
外の景色に目を向けながら向かいに座る彼に話す。
「荻原くん。」
返事は聞こえない。それでも良い。全部私の自分勝手だから。
「……君からあんな話を聞いた後にするような話ではないと思ったけどさ。他に言いようがないから話すね。」
私の目線の先にはさっきまで私達がいた地上があった。
段々と離れていく景色を見て前にここに来たときのことを思い出す。
「昔お母さんがね、観覧車から外を見てさ私に言ったんだ。「下に居るとあんなに大きくて特別に見えるものが、ここから見るととても小さくてちっぽけで、凄く遠くに見えるよね。けどそう思うのが寂しくもなる。……きっと近くにあるものほど大切なのね。そしてそれに気付き難くもある。」って。私それが最初よく分からなかった。でもお母さんが居ない今は少しだけ分かった気がする。」
私達の乗っているゴンドラが一番上を通り過ぎたような感覚がした。段々と今度は地面が近づいてくる。その間誰も言葉を発さなかった。
観覧車を降り、地上を見る。ここから見えるものはやっぱり大きくて特別だった。
車までの帰り道。踏み切りの音がやけに耳につく。
「あーあ!今日も手がかりは無しだ!」
何回も繰り返した言葉。
別に残念ではない。そういうものだと思っているから今さら見つからなくたってどうにも思わない。
「るなさん。」
荻原くんが私を呼ぶ。振り返るといつもと変わらない優しい人がそこにいた。
「次は、何処へ?」
何度か重ねた台詞。それには新鮮味もなく沸き立つ感情もないが確かに使い古した安心感があった。
ゆっくりと息を吸い、私は応えるようにそれを告げる。
「海に行こう!」
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