Side Kaji:こんなにも頼りない

 次の日の午後。

 仕事をあらかた終わらせて退社し、一人で入る勇気のないタワーマンションに、杉本を伴って訪れた。

 すぐにでもこの部屋から退去しなくてはならないが、一人ではとても間に合わない。

 杉本は快く手伝いを引き受けてくれた上に、あまりに段取りが有能すぎて、この先、一緒に仕事をできないことが惜しいくらいだった。


 まだ、花と別れて二日も経っていない。

 それなのに、なぜだろうか。部屋の中のどこを見ても、彼女の気配が薄すぎる。

 彼女が触ったはずの場所も、笑った空気も、一気に色を失った。主役が不在の舞台でもここまでひどくはないはずだ。


 ソファの上の毛布。

 キッチンに置きっぱなしのミネラルウォーター。

 風の通らない部屋の匂い。


 毛布を片付けようと手を触れた瞬間、なぜかひんやりと感じる。

 これに好んで包まっていた花の不在が、その温度を失わせたようだった。

 いままでの日々が、突然遠い世界の出来事になり、音もなく消える。


 記憶というのは、こんなにも頼りないものだっただろうか。

 ひとつも忘れたくないものばかりなのに、上空にでもいるかのように酸素が足りず、息が苦しい。


「あの、梶さん……このクローゼットの服、どうされますか?」


 気まずそうに杉本が、声を掛けてきた。

 ずらりと並ぶ花の服は、彼女がこの環境に馴染むためにと、勝手に買い与えたものばかりだ。


「そやなあ……本人に贈りたいけど、いまさら俺からなんかもらっても困るかもしれんし……捨てるか」

「いやっ、ちょっと捨てるのはもったいない気がしますが……それに、花ちゃんなら、捨てるなんてもったいないって怒りそうですけどね」

「はは……そやなあ」


 ──脳にノイズが混じる。

 心の内側にある誰にも触れられたくない回路、そこに花という音が混じるだけで、すべての弱みが簡単に暴かれそうになる。

 その感覚から逃げるように、「そしたら、杉本くんの判断に任せるわ」と告げて背を向けた。


「さっき契約した貸倉庫に、俺の荷物と一緒にまるごと放り込んでもええし、杉本くんが全部売っぱらってくれてもええし、誰かにあげてもええよ。その辺は任せるわ」

「……そう、ですか。わかりました。適宜判断します」

「助かるなあ。ありがとお」


 杉本の協力のおかげで、部屋はみるみる形を失っていった。

 つい昨日まで生活だったものが、ただの荷物に戻っていく。

 残るのは、この部屋に最初から用意されていた家具や食器だけだ。

 ここに花がいた証拠は、もうほとんど残っていない。


 あとは業者を呼べば、これで片はつくはずだ。

 デリバリーで適当に夕食を頼み、二人で無難な会話をしながら口に運ぶ。

 杉本は沈黙を恐れない。

 下手に気を遣って話しかけてくることはなく、それでいて時折、思いついたように、仕事の話を振ってくる。

 そのちょうど良い距離感を保つ姿勢が、今日はとりわけ有り難かった。


 食後に皿を洗い終えてから、彼をダイニングテーブルの正面に座らせ、今日の本題に入る。


「……杉本くんには、ほんまに悪いことをしたと思うてる。せっかく情シスから秘書に移ってくれたんに、こんな結果を招いて、申し訳なかった。俺が未熟なせいや。……堪忍な」

「そんなっ。頭を上げてください。梶さんのせいじゃないですよ。

 私は……短い期間ですが、あなたの下で、梶さんがどれほど真剣に仕事と向き合っているかをずっと見てきました」


 杉本は少し視線を落とし、迷いながら顔を上げた。その目はまっすぐで、人を思う気持ちに溢れていた。


「……梶さんはご自分を責めますが、私から見たら、この会社は歪なほど、あなたにシステム面を任せすぎている。

 いくらCTOと言っても、梶さんはまだ三十歳で、他の企業なら、本来はもう少し庇われるべき年齢のはずです。

 だから……こんな結果になったことを、私は本当に悔しく思います」

「ははっ。そんなん言うてくれはるの、君だけやわ。けど……おおきに」


 それなのに自分ときたら、この先の彼に、自分が背負えないものを肩代わりさせようとしている。

 ひどく申し訳ない気持ちになりながら、同時に、こういう彼だからこそ、頼みたいという思いもあった。


「……杉本くんに。もうひとつ、大事な話があんねんけど」

「はい」


 テーブルの上で指を組み、しばし沈黙したあと、低い声で続けた。


「今から話すことは、アペックスの最重要機密や。本来、L2の職員に聞かせる話とは違う。いままでも、杉本くんはそこに触れないように、ずっと目をそらしてくれはったやろ?」


 杉本の目がわずかに揺れる。


「情シスにおったんなら、薄々何かを気づきはったやろうけど、アペックスは数年前から、モノリスという人事評価AIを開発してきた。

 その基幹部分を作った人間の一人が、俺や」

「……モノリス……名前は初めて聞きます」


「せやろな。……いちおう社内では『統合インテリジェンス基盤』って扱いやけど、モノリスの本質は『社員を支えるための構造体』や。

 完成には、あと一歩届かんかった。高性能すぎて制御が難しくてな。

 せやけど、これを完全体として動かす必要は、もうない。俺が会社を去る以上、誰も手綱を握られへん」


 杉本は、話の行く末を察し始めたのか、顔色を変えた。


「だから今、上の許可を取って……目標最大値の九割地点まで質を落とした」

「九割……。それって……どの程度、安全なんでしょうか」


 声は小さいが、喉の奥がひっそり震える声で尋ねられた。


「十分動かせるのか、それとも……運用側にリスクが残る九割ですか?」

「ええ質問やね。九割いうんは、暴走なしに安全に使えるレベルやな。ただし、後藤田CEOの望んだ完全体には届かんかった」

「完全体、ですか?」


「せや。……俺にとっては、九割は未完成と同じや。動いても、正しく生きられへん構造体は、理想にはほど遠い。

 俺は完全に職人型の技術者やし、完璧やないもんを人前にさらすんは、ほんまは耐えられへん。脳が拒否する。

 ……せやけど、もうそうも言うとられんし、この先はモノリスの運用を安全にできる人に託す必要がある」


 一度だけ天井を見て笑い、ふっと視線を落とした。


「せやから、それを君に頼みたい」

「い、いやいやいやいや、無理ですよ!? 自分にはそんな大役……とても担えると思えません……。

 もっと上の……それこそ、GMクラスの人がやるべきじゃないんですか?」


 杉本は身体を後ろに引き、顔の前で手をぶんぶんと振りながら、全身で拒絶した。

 その気持ちはわかる。だが、アペックスのGMクラスは数字と権限には強いが、痛みに鈍い。モノリスの責任者には最も向いていないタイプと言える。

 その辺りは、海堂とも意見が一致していた。


「なんも無理なことあらへんって。

 短い間やけど、俺もずっと君を見てきた。君の本質はバランス型や。

 危ないもんにはまず手を出さんし、いざというときは、上に逆らってもブレーキが踏める気概もある。

 あんさんの脳は、目に見えた危険を無視できる構造やないんやろね。

 ……そういう人間やないと、モノリスなんてよう任せられへん」

「いや、でも……」

「今後、杉本くんは海堂常務か鏑木室長の下につくことになるはずや。

 本人の意思も確認せんと申し訳ないんやけど……上は、俺がいなくなったいま、杉本くんを次の中枢ラインに置く前提で、動こうとしとる」

「そ、そんな……」


 一瞬、杉本のまぶたが揺れた。

 喜びでも誇りでもなく、ただ重さを受け止める反応だった。


「巻き込んで、済まんなあ。けど、杉本くんが優秀すぎるからこうなったんやし、半分は自業自得やね」

「梶さん……」

「杉本くんが困らんように、モノリスは可能な限り整えて引き渡せる状態に持って行った。後藤田CEOが望む結果の百パーは出えへん。

せやけど……人間の目で判断するいままでより、よっぽど社員を守る道具にはなると思う」

「いやでも……正直、自分にどこまでできるか自信が……」


 杉本の喉が小さく震えた。


「引き継ぎ期間が少なくてほんま堪忍な。渡せる資料は全部譲る。運用基準、改訂ログ、裏仕様も含めて、隠し事は一切せん。

 杉本くんなら読めばわかるレベルに書いてあるし、マニュアルもある。

 せやから──モノリスを頼む。

 ……俺は、もうここにはいられへんから」


 杉本はまだ迷いながら、それでも姿勢を正して、こちらをじっと見た。


「……梶さんは、どうされるんですか」

「んー……聞かん方がええよ」


 その答えに、杉本はふっと息を吐き、丁寧に頭を下げた。


「自分にどこまでできるかはわかりませんが、梶さんがアペックスに戻るまで、その……モノリスは、私が責任を持って見守ります」

「いやいや、ありがたいけど、俺は会社にはもう戻れへんし」

「でも、技術者としての梶さんは、きっと本当は今も、モノリスを完全体にしたいんですよね?」

「……どうやろなあ」


 その返答に、小さく息を吸ってから、杉本は言葉を紡いだ。


「それまでは、こちらでちゃんと管理して待っています。ですから、いつか戻ってきてください。……絶対に」


 そんな未来を約束する資格が、自分にはもう残っていなかった。

 杉本の目があまりにまっすぐ過ぎて、とても真正面からは受け止められない。


「……ん。おおきに」


 少し俯き、ぼやくように答えた。

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