第三話『天才児の理解者』

 梶の通う櫻京おうきょう大学は、東京都文京区にある。


 よく晴れた日の午後、AI研究棟の裏手で、彼は適当なベンチを選んで腰を下ろした。白衣の裾が汚れるかもしれないが、特に気にしなかった。

 銀杏の葉が、風に乗って足もとを転がっている。

 情報理工学部のキャンパスは、秋の西日を吸いこんで静まり返っていた。


 ノートパソコンを膝に乗せ、ミネラルウォーターを飲む。

 画面には、神経の反応を数式にしたコードがずらりと並んでいた。

 さっきまでいたゼミ室のざわめきが、まだ耳の奥に残っている。


― 人の感情を数値化? AIに恋でもさせる気か?

― そんなに人を出し抜いて楽しいか?

― お前の目には、俺たちは虫けら以下に映るんだろうな。


 思ってもいないことを指摘されたとき、最初にくる感情は、呆れではなく諦念だった。

 他人の嘲りには子供の頃から慣れているし、自分の思考を説明するのは無駄なことだと、とうの昔に理解していた。

 だが、高校までならともかく、大学でまでこうなることだけは想定外だった。

 なぜならここは、国内最高峰と呼ばれる国立大学なのだから。


「はーあ。つまらん。……嫌味を言うにしても、もうちょい、おもろいこと言うてくれたらええのになあ」


 声に出して、ため息をつく。


「やっぱアメリカ行くべきやったかな。でも、アメリカにはおにぎりないしなぁ」


 ぼやきながら、手に持った柔らかい神経球をぎゅっと握る。

 それは、脳神経のシナプス構造を模した実験用の模型だった。

 握るたび、ゼリーのような感触が静かに形を変える。


……人の心は、なんでこんなふうに楽に形を変えられんのやろ。


 そのとき、背後から小さな笑い声が聞こえてきた。


「アメリカにも、ライスボールくらいあるだろ」


 振り向くと、自分と同じくらいの背丈の、銀縁眼鏡をかけた理知的な顔の男性が立っていた。

 落ち着いた佇まいは、あまり学生らしくない。


「……どちらさんどすか?」

「真田圭。隣の研究室で助手をしてる。うちは意思決定モデルの研究だよ。君は計算神経の学生だよね?」

「せやけど」

「この前の発表、面白かった。

 でも、構造の話ばっかで、世界の『』を見てないなって思った」


 真田は小さく笑った。

 言葉は批判めいているのに、バカにされたようにはまったく感じない。

 会ったことがないタイプの人間に、梶は少しだけ興味を惹かれた。


「……間って、どういう意味です?」

「うーん、つまりね。研究ばかりしてると、行き詰まるってこと。

 もっと人間を見ないと。

 詳しく知りたいなら、一緒に飯でも食いながら話さないか?」


 出会って三分。いきなり食事に誘われ、怯む。

 ぐいぐいくるような距離感の近さを感じるわけではない。

 それなのに、気づいたら、するりと懐に入られそうで、彼をじっと観察した。

 悪人のようには見えないが、それが善人とイコールにはならない程度の常識はある。


「……じいちゃんが、知らん人についてったらあかん言うてたんで」

「いいおじいさんだね」

「せやな。自慢のじいちゃんや」

「じゃあ、知り合いになろう。

 俺は、君がまだ見てない世界を、少しだけ見せてあげられると思う」


 そう言って、真田はデイパックから折れ曲がった雑誌の切り抜きを取り出した。

 表紙には『Neural Computation』のロゴ。


「ニューラル・コンピュテーションの最新号、読みたいか?

 "Ethical Bias Mitigation in Predictive Systems"

 予測モデルの倫理補正についての論文」


 梶は思わず目を見開いた。


「それ、まだ査読段階やったよな? ……どこで手に入れたんですか?」

「内緒。けど、俺と一緒にいれば、最新の情報は手に入りやすくなるよ」


 その一言に、少しだけ心の糸がゆるむ。


「……飯、奢りですよね?」

「はははっ。安い定食屋でよければ」



 キャンパスの坂を下ると、駅前の定食屋からカツを揚げる音が聞こえた。

 看板には「学生定食 六五〇円」。

 ネオンがちらつくその店に、梶と真田は並んで入った。


 カウンターの隅、湯気の立つ味噌汁。

 揚げたてのコロッケの匂いが漂う。


「なんやこれ、昭和か?」

「いいだろ。こういう場所の方が、頭が回るんだよ」

「油で? それ、血流止まってるだけやなくて?」


 真田が吹き出す。


「理屈っぽいなあ。いいから食べろ。脳もたまには、油さしたら動くから」

「俺は機械ちゃうねんけど」


 真田は湯飲みを手に取り、湯気の向こうで笑った。


「さっきの論文、あれを読んでる学生、うちの研究室には一人もいないぞ」

「読んでるだけや。英語も完璧にわかるわけちゃうし」

「でも、興味を持ってる。それが一番大事なことだよ」


 梶は箸を止めた。


「倫理補正って、結局、人の価値観を数値化するって話やろ?

 正解なんか、あるんかいな」

「ない。けど、それを探す過程こそが、人間らしさなんだよ」


 真田は少し目を細めて、学生たちの笑い声の方を見た。


「……AIが人の感情を理解する日は来ると思うか?」

「来ると思う。けど、そんとき『理解する』って言葉の定義が変わるやろな」

「へえ。どう変わる?」

「理解するんやなくて、再現するになる。

 AIは、人の心をなぞることしかできへん。けど──」


 梶は箸を置き、湯気の向こうで言葉を探した。


「なぞることも、十分すごいと思う。

 人間だって、他人の気持ちを完全にはわからんのやから」


 真田は短く息を吐いた。


「……いいな、その考え方。研究者より、詩人みたいだ」

「詩なんて書けへんけど、コードなら書ける」

「それで十分だよ」


 二人は同時に笑った。

 笑い声が、安っぽい換気扇の音に溶けていく。


 店を出ると、夜風が頬を冷やした。

 ビルの谷間に、ゆっくりと夜の街の灯りが滲む。


「なあ、梶くん。今度、映画観に行かないか」

「映画ぁ? なんのためにや。口説くなら他を当たってくれへん?」

「そうじゃないよ。もっと、人間の『間』の話をしたいんだ」


 梶はため息をついて、ポケットに手を突っ込む。


「知らん人についていったらあかんって、じいちゃんに言われた」

「じゃあ、知り合いになったってことで」

「あんさん、意外に人たらしやんな」


 真田は笑いながら、パンフレットを取り出した。

 そこには『ブレードランナー』のタイトルロゴがある。


「おそらく、梶くんは世の中の構造を全部分解して、噛み砕きたいと思ってる。違うかな?」


 違わない。

 子供の頃から、パソコンでも家電でも、どう使うかより、どんな原理で動くのか、どうやったらこれを作れるかの方が、ずっと自分の興味をさらった。

 だけど、それを肯定するのも癪で、「どやろねえ」と誤魔化す。


 真田はそれを見透かすように、言葉を続ける。


「構造は確かに面白いけど、世界を動かすのは、『間と感情』だよ。

 間ってのはね、予定されてない反応のこと。

 計画にも数式にもない揺らぎが、世界を動かす。なんでだと思う?」

「……さあ。考えたこともあらへんなあ」

「世の中を動かすのは、人間がすることだからだ。

 君がどんなに完璧なコードを書いたところで、それを使う人間が、こちらの意図と違うことをしたら?

 思ったような結果は得られないだろう?

 そういうことを読み取るためにも、君はもっと、世界をいろんな角度から眺めた方がいい」


 学校で教師にも言われたことのない言葉を、なぜか、出会って数時間の男が告げる。

 それはひどく座りが悪い感情なのに、不思議と嫌ではなかった。


「……あんた、うさんくさいな。

 そないなこと言わはって、俺をどうする気ぃや」

「あははっ。どうこうする気はないから、安心していいよ。

 実を言うと、梶くんのことは、ずっと前から注目していたんだ。君の名前を、論文の欄で見かけたときから。

 ……俺はね、君を見ていると、ああ、世界をひっくり返す人間って、きっと、こういう存在だって感じるときがある。

 だから余計に、もったいないと思った。


 ジョブズには、ウォズニアックがいた。

 ザッカーバーグには、モスコビッツが。

 みんな誰かに支えられたり、切磋琢磨して成長していくんだ。

 どの時代の天才も、結局は誰かと出会って完成するんだよ。


 ……だから俺は、大学でいつもつまらなそうな顔をしている梶くんに、教えたかった。

 この世界は、君が思っているよりも、遥かに面白くて、興味深いことがたくさんあるよって」


 梶は黙って夜空を見上げた。

 東京の街は、光でできた神経みたいに瞬いている。


「……なんやようわからんけど」


 視線を真田に戻し、少年の顔で笑った。


「……映画も奢ってくれるんやんなあ」

「ははっ。君こそ、案外、図々しいね」


 くすぐったくて落ち着かない気分にさせられるのに、なぜか、全然嫌ではない。

 それは、二十年の人生で初めて、同じ目線で話ができる友人と出会えた夜だった。

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