第二話『それぞれの生き残り戦略』
ニュース番組は、景気回復の兆しを繰り返し告げている。
スタジオの照明は明るく、キャスターの表情も軽やかだった。
けれど、その言葉を背に、街の値札は静かに書き換えられていく。
いつものコンビニで買っていたコーヒーを、「今日はやめておこう」と手にしなくなる。
繁盛していたはずの店が、ある日、理由も告げずにシャッターを下ろす。
数字は前を向いているはずなのに、暮らしの感覚だけが、じわじわと後ろへ引き戻されていった。
社会全体が、薄く張った氷の上を歩いている。
割れる音はまだ聞こえず、だが、誰もが足元の冷たさには気づいていた。
この国が生き残るために、どう変わるか。
その問いは、いまや日本を代表する大企業、アペックスホールディングスにも、確かに突き立てられていた。
◇
人々のざわめきが、ひとつの映像によって消えていく。
赤坂の夜は、わずかな拍手とともに、静寂に包まれた。
スクリーンに映し出されたのは、かつての創業者・後藤田黎一。
数十年の沈黙を越えて、その声が再生される。
「数字の向こうに、人を見てください。
それができる会社は、必ず強くなります」
黎一の言葉は、社史にも映像記録にも残っていなかった。
冤罪が晴れたあとも、彼の名を口にすることは、長く社内の禁句だった。
どれほど社内で敬愛されようとも、企業として、世間に対する正しさを守るため、封じねばならなかった影。
だが、五十周年を迎えた今、それはようやく、再び光の中に立った。
会場にいるほとんどが、いまや伝説としてしか知らない男の姿を、息を呑んで見つめている。
ステージを降りる後藤田総一に、海堂は歩み寄った。
黎一の息子である彼は、数年前にホールディングスのCEOに就任し、現在は政財界からも注目を集める存在だ。
「後藤田社長。周年、おめでとうございます。
創業者の声を聞けて、胸に込み上げるものがありました」
「ありがとう、海堂くん」
微笑みの奥に、疲労と責任の影が差していた。
「どうか、これからも一緒にアペックスを支えてほしい」
「力を尽くします」
グラスを置き、周囲を視線だけで見回してから、総一が声を潜めた。
「……ところで、Mプロジェクトの進捗は、どうだい?」
「まだ、難しいですね。社内承認を取るため、少数精鋭で戦略を練っています」
「そうか。なんとか但馬さんの理解を得られるといいんだがな」
その一言に、海堂の眉がわずかに曇った。ネクタイの結び目が、少しだけ苦しく感じる。
現在、アペックスの経営陣は、次期会長の座をめぐり、二つの派閥に割れていた。
海堂ら若手の精鋭を擁し、創業理念を守ろうとする後藤田派。
副会長と専務・但馬を中心とする、短期収益性を優先する副会長派。
企業が進むべき未来は、人間を中心にした理想なのか、効率を最大化する資本なのか──。どちらも正義で、どちらも刃だった。
だが、アペックスが抱えていた痛みは、もっと深いところにあった。
人を評価する構造には、避けられない誤差がある。
派閥、好き嫌い、声の大きさ、見えない努力……誠実な人ほど報われず、優秀な人ほど静かに辞めていく。
何万人という社員を抱える巨大企業にとって、人間の判断だけでは人事評価が追いつかない。
情報量が人の脳の限界を超え、誰も悪くないまま、誰かが取りこぼされていく。
離職率は一割を超え、過労のニュースは後を絶たない。
創業者が掲げた「人を支える」理念は、どこかで置き去りになっていた。
だからこそ、このプロジェクトが必要だと後藤田総一は未来を見据える。
理念を構造として蘇らせ、人を正しく支える仕組みを作るために。
◇
翌週の会議室。
冬の光がテーブルに冷たい影を落としていた。
「……次に、Mプロジェクトの進捗をお願いします」
秘書の声に、海堂が立ち上がった。
「現在、我々のチームは社員の働き方と幸福度を可視化し、最適な配置や支援につなげるAIを作っています。
うちの離職率は、常に一割を超えている。
日本を代表する人材支援企業として、この数字は許容できるものじゃない」
だが、但馬は即座に鼻で笑った。
「理想論だな。そんな夢を語っても売り上げは上がらん。利益を出すなら、海外案件を広げた方がまだ現実的だ」
「けれど、外資に頼れば骨までしゃぶられます。いま必要なのは、拡張ではなく、自前の仕組みです」
「仕組みで飯は食えんよ、海堂部長」
「……理念を失った瞬間に、我が社はその辺の普通の企業に成り下がる。専務には、それが耐えられますか?」
お互いに沈黙し、冬の光が、会議室の床に長い影を落とした。
争っているのではない。
それぞれが、それぞれの方法で会社を救おうとしている。
二人の衝突は、ただの派閥争いではなく、生存戦略の違いだった。
だがその綱引きは、市場の予期せぬ揺らぎで急に終わりを迎える。
翌月、ライバル企業オルビス・テックで、社員の過労死が報じられ、風向きが突然変わった。
労災認定を求めた遺族の訴えは社会の共感を呼び、企業の安全配慮義務が再び世間に問われ始めた。
働き方改革の看板は、形だけのものだと暴かれたのだ。
その余波はアペックスにも波及し、株主総会では離職率の高さが槍玉に上がる。「理念だけで食えるのか」と嗤っていた但馬のもとにも、海外ファンドのレポートから突きつけられた。
Apex Holdings
“Numbers without People”
(人のいない数字を積み上げた企業)
皮肉にもその一行が、すべてをひっくり返した。
数字で攻めてくるはずの外資が、逆に理念の不在を突いてきたのだ。
そして、理想は唐突に勝ち取られた。
「Mプロジェクトを承認します」
海堂の提案してきた、社員の働き方と幸福度を可視化するプロジェクトは、ついに社内承認を受けることになる。
だが、それは決して理念の勝利ではなかった。
炎上対策としての、苦し紛れのGOサイン。外の火を消すための水にすぎない。
それでも、海堂は知っていた。
水が流れ出せば、いつか芽が出る。
──理念とは、そういうものだ。
◇
二週間後、予算承認が正式に下りた。
アペックスホールディングス内に新設された特命開発室、通称「Mラボ」。
その一角に、社内外から選抜された十数名の技術者が集められた。
蓋を開けてみれば、離職率の高さは、あくまで表層だった。
退職理由を一つずつ分析すると、数字の裏に見えない疲弊が見える。
評価の偏り、上司との不信、孤立……どれも人の目では追いきれない。
だからこそ、海堂たちはAIを使って、心の摩耗を可視化しようとした。
人の判断や迷いを、どうすれば数式に置き換えられるのか。
彼らは、その未知に挑んでいた。
だが、理想はあまりに高く、現場の空気は次第に重くなっていく。
「……くそっ、ダメか」
深夜のフロアに、誰かの声が低く響く。
ホワイトボードには数式とフローチャートが交錯し、赤いマーカーの×印がいくつも刻まれていた。
「海堂部長の理想が高すぎるって、開発チームから苦情が出ています」
若手リーダーがため息混じりに言う。
海堂はしばらく沈黙し、温くなったコーヒーが入った紙カップを見つめた。
「理想では飯は食えん、か……」
ゆっくりと椅子を回し、夜景の向こうに霞む東京タワーを見やる。
「だが、理想のないプロジェクトに、未来なんかあるのか?」
独り言のように呟いた言葉が、床に落ちて重く響く。
問いに答えられるものは誰もいない。
ただ、モニターの光だけが、彼の横顔を青く照らしていた。
ある日の夜、ビルの灯が落ちたあとの会議室は静かだった。
窓の外で雨がガラスを優しく叩き、長机の上には散らばった資料と、使いかけのペン。
空調の微かな唸りだけが、沈黙をつないでいる。
そこにいたのは三人だけ。
CEOの後藤田総一。経営戦略統括本部長の海堂仁。そして、二十七歳の若き主任技術者、真田圭。
彼は海堂が母校の研究室に自ら足を運び、スカウトしてきた逸材だった。
専門はAI倫理モジュール──機械に「判断の良心」を与える研究で知られていた。
人間の信頼や誠実といった、数値化できない概念をアルゴリズムに落とし込むその手腕に、海堂は深く興味を示していた。
夢物語を夢で終わらせないために必要な人材に、ようやく出会えた手応えも感じられた。
今夜の議題はひとつ。
理念を、構造に変える方法。
アペックスの社運を賭けた新世代AI〈Mプロジェクト〉の設計図が、いま静かに描かれようとしていた。
◇
「これまでの試行のどこに限界があったのか、そこから整理したいんだ」
後藤田の穏やかな声に、海堂が資料を閉じ、眉間を指先で押さえた。
その仕草には、夜の疲労と、どうしても越えられない壁の存在が滲んでいた。
「構想までは完璧でした。社員の行動と貢献を定量化し、最適配置を行う……その理屈は正しい。
ですが、モデルが安定しなかった。現場の判断と噛み合わず、予測が思わぬ場所で崩れた」
そこで、パソコンの画面を静かに見つめていた真田が、眼鏡の奥で光を揺らしながら口をひらく。
「鍵が足りていないんじゃないですかね? 理想を支える基盤が、まだ抜けているように見えます」
「鍵?」
「はい。今の設計じゃ、成果を出す人しか『正』として扱えない。
でも目指しているのは、人を正しく支える評価でしょう?
であれば──成果を出せなかった理由まで、AIが理解できなければ成立しない。そこが抜けている限り、モデルは必ず歪みます」
その声は淡々としているのに、空気を震わせた。
海堂がゆっくり顔を上げた。
「……つまり、行動の外側にある情報を読め、ということか」
真田は、迷いなく答えた。
「はい。数値化しづらい部分……たとえば、躊躇、負荷、揺らぎ、関係性。
つまり、人が人を判断するときに必ず存在する余白です。
ここを組み込めなければ、どれだけ高精度でも機械的な選別にしかならない」
後藤田は、軽く息を吐いた。
「理念を構造に落とすというのは……こういうことか」
真田は頷き、ノートPCをこちらへ回した。
コードが流れる画面を指でなぞりながら言う。
「単なる評価AIではなく、判断の根拠を学ぶAIです。たとえば──」
ホワイトボードに二つの円を描く。
右に『理念を読み取るモジュール』、左が『行動から未来を予測するエンジン』。
技術的には”Ethical Module”と “Predictive Engine”と呼ばれていた。
「この二つを掛け合わせれば、理念と未来を同時に扱えます。
前者は会社の価値観を自然言語で学習し、後者は社員の行動履歴から未来の傾向を確率的に予測する。
つまり──『どうすればこの人が報われるか』を導ける」
「理念とデータを、掛け合わせるのか……」
海堂の声が低くなる。
「理論上は美しいが、人工知能に人の迷いやためらいが読めるものなのか?
人間は、白黒はっきりしているときより、迷っている時間の方が長い。
正しいか間違いか、その二択のあいだにある曖昧さを、どこまで拾えると思う?」
一瞬、蛍光灯がチカッと瞬いた。
真田は視線を上げ、ふっと笑った。
「その指摘は正しいですね。人のためらいや迷いって、突きつめれば感情の揺れなんです。
AIはそこをうまく数値にできない。特に、幸福のような感情は盲点になりやすい」
「……どういう意味だ?」
「人って、自分が不幸だと感じているときほど、すぐそばの幸福を見落とすんです。AIも同じで、効率ばかり追えば、幸せの確率を見失う。
だから、幸福を数字に変えずに扱う仕組みが必要なんですよ」
「幸福を、数値化しないで扱う?」
「はい。行動と感情の相関を読む。たとえば、残業時間と発言トーン、退職予測とチーム内の好感度。
定量の裏にあるためらいを拾えば、幸福の輪郭を描けます。
──AIはまだ、人の痛みを知らない。
だからこそ僕らが、それを教えてやるしかない」
しばし沈黙が落ちる。
真田の言葉は、海堂の理想よりも、さらに遠い未来の話のように聞こえる。
だが目の前の研究者は、揺らぎのない瞳でまっすぐこちらを見ていた。
雨がガラスを這い、一定のリズムで室内に音を落とす。
やがて後藤田が、壁の社訓へ視線を向けた。
一、すべての人に、その居場所を。
一、すべての仕事に、その最適な人を。
「……これだよ。」
声は低く、しかし確信に満ちていた。
「人を評価するんじゃない。導くんだ。
AIが人の居場所を見つけてやれれば、誰も取りこぼさずに済む」
その言葉に、海堂は息をのむ。
まるで黎一の理念が、もう一度この場に立ち上がったかのようだった。
三人の間に、静かな熱が灯る。
「……それ、後藤田さんが聞いたら、きっと面白がる気がします」
海堂の言葉に、後藤田の口元がわずかに緩む。
「ああ。……親父が聞いたら、絶対にこう言うよ。
『まだ誰もやらないようなことを、誰より早く俺たちが成し遂げる。それでこそ、アペックスだ』ってな」
その瞬間、会議室の空気が微かに震えた。
真田は指先を止めず、淡々と新しい計算式を走らせている。
スクリーンの青い光が、彼の瞳の奥で静かに揺れた。
「……理念を数式に落とすなら、心を読める演算モデルが要ります。
でもそれ、僕の手には余りますね」
「おい! お前、さっきは散々期待させておいて、結局それか?」
「違いますよ、海堂さん。僕の手には余るけど、もっと人間を観察できるタイプが必要って意味です。データよりも人間のためらいを面白がるようなやつ」
「データより? ……そんなプログラマーがいるのか?」
真田は楽しそうに肩をすくめた。
「いますよ。まだ学生ですけどね」
雨の音が少し強くなる。
その夜、黎一の理念が、新しい形で再び息を吹き返した。
それは、梶雪斗という名が、初めてアペックスの未来に刻まれた瞬間。
その名が、後にどれほどの波紋を生むか、この夜はまだ誰も知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます