第五章:冒険者ギルドの片隅で
王都は、相変わらず、混沌とした生命力に満ち溢れていた。 リヒトハーフェン辺境伯領から、丸五日をかけて馬車に揺られ、再びこの巨大な都市の門をくぐった時、エリザベートは、その空気に含まれる情報の密度の違いに、眩暈すら覚えるほどだった。すれ違う人々の服装、露店に並ぶ品々の多様性、そして、馬車の車輪が敷石を叩く音に混じって聞こえてくる、ありとあらゆる噂話と商談の声。その全てが、彼女の五感を刺激し、思考を加速させる。
だが、今回、彼女が目指す場所は、イザベラと茶会を開くような、陽光の降り注ぐカフェテラスではなかった。貴族たちが、夜な夜な仮面舞踏会に興じる、華やかな社交場でもない。 セバスチャンが操る、紋章を隠した質素な馬車がたどり着いたのは、王都の、どちらかといえば、治安が良いとは言えない、裏通りに面した地区だった。
石造りの、飾り気のない、しかし、異様なほどの威圧感を放つ建物。その入り口の上には、交差する剣と、魔法の杖をかたどった、古びた木製の看板が掲げられている。 『王都冒険者ギルド本部』。 貴族であれば、まず、一生、足を踏み入れることのない場所。法と秩序の、外縁に存在する、もう一つの世界への入り口だった。
「…お嬢様。本当に、よろしいのですか?」
馬車の窓から、心配そうに眉を寄せるセバスチャンに、エリザベートは、静かに頷きを返した。 彼女は、既に、辺境伯令嬢の豪奢なドレスを脱ぎ捨てていた。動きやすい、仕立ての良い旅装に身を包み、フードのついた深い緑色のマントを羽織っている。陽光を弾いて輝く金の髪も、普段のように結い上げるのではなく、無造作な三つ編みにして、背中に垂らしていた。 今の彼女は、エリザベート・フォン・リヒトハーフェンではない。 新興の商家を営む、少しだけ気の強い娘、『リーザ』だ。
「心配はいりませんわ、セバスチャン。これは、事業のための、現地視察ですもの。あなた方は、少し離れた場所で、待機していて」
「…御意に」
扉を開け、一人で馬車を降りる。 ギルドの、重い樫の木の扉に手をかけた瞬間、中から、むわりと、濃密な空気が溢れ出してきた。 それは、汗と、安いエールと、血の、そして、微かな恐怖の匂いが、複雑に混じり合った、この場所でしか嗅ぐことのできない、独特の匂いだった。
一歩、足を踏み入れる。 中は、想像を絶するほどの喧騒に満ちていた。 巨大なホールのような空間。壁一面に、依頼書(クエストボード)が、所狭しと貼り付けられている。あちこちで、酒瓶を片手に、大声で武勇伝を語り合う者たち。テーブルを挟んで、報酬の分配で揉めている、険悪な雰囲気のパーティー。カウンターの向こうでは、疲れた顔のギルド職員が、次から次へと訪れる冒険者の対応に、追われている。 誰もが、その身に、大小様々な傷跡を刻み、その目に、警戒と、猜疑の色を浮かべていた。ここは、信頼や、善意といった、曖昧なものが、最も価値を持たない場所。全てが、実力(スキル)と、報酬(リワード)という、二つの絶対的な指標だけで評価される、剥き出しの市場(マーケット)だった。
(――なるほど。これは、ある意味、最も、分かりやすい世界だわ)
リーザ(エリザベート)は、フードを目深に被り、誰にも気づかれぬよう、壁際に身を寄せた。そして、彼女の碧眼が、冷徹なアナリストのように、その市場の分析を開始した。
(パーティーの平均構成人数は、三~五名。前衛職と後衛職のバランスが取れたチームほど、高ランクの依頼を受けている。装備の質と、パーティーランクには、明確な正の相関関係が見て取れる。依頼内容は、魔物討伐が約六割、素材収集が三割、残りの一割が、護衛や、調査といった、特殊案件…)
彼女は、ただ、そこにいるだけで、この世界の力学を、驚異的な速度で、吸収していく。 そして、彼女の視線が、ふと、依頼掲示板の一角で、足を止めた。 そこにいたのは、他の、むさ苦しい冒険者たちの中では、明らかに、異質な存在だった。 全員が、女性。 五人組のパーティー。 その誰もが、使い古されてはいるが、手入れの行き届いた、上質な武具を身につけている。その立ち姿には、無駄がなく、明らかに、修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、独特の緊張感が漂っていた。 だが、彼女たちの表情は、一様に、暗かった。
リーダー格であろう、長い赤髪をポニーテールにした、美しい魔法剣士が、依頼掲示板を、悔しそうに睨みつけている。彼女が見ているのは、B級パーティー向けの依頼だ。その中から、比較的安全で、かつ、日帰りが可能なものはないかと、うんざりした表情で羊皮紙を眺めている。
「…ちっ。今日もロクなのがないね…」
悪態をついた魔法剣士の耳に、ギルドの入り口付近の、下品な鬨の声が届いた。 見れば、朝から酒を煽っている、素行の悪さで有名なC級パーティーの男たちが、見るからに場違いな、上等な服を着た若い娘――まさに、今、ギルドに入ってきた、リーザのことだった――に、絡み始めていた。
リーザの心臓が、わずかに、跳ねた。 これは、計算外の事態。だが、同時に、最高の「機会」でもあった。 彼女は、わざと、怯えたような表情を作り、男たちから、一歩、後ずさった。
「なんだ、嬢ちゃん。ギルドは初めてか? 俺たちが、手取り足取り、教えてやろうか?」
「依頼なら、俺たち『牙狼団』に任せな。そんじょそこらの、女だけのパーティーとは、訳が違うぜ?」
男たちが、下卑た笑いを浮かべながら、じりじりと、距離を詰めてくる。 多くの冒険者は、面倒事を避けるように、見て見ぬふりをしている。ギルドの職員でさえ、「いつものことだ」とばかりに、書類から顔も上げない。
その、張り詰めた空気の中に、凛とした、声が、響いた。
「――あんたたち、何を絡んでおびえさせてるのさ! どう見てもギルドへの依頼人じゃないか。商売のネタを持ってきてくれているのかもしれないだろう?」
赤髪の魔法剣士だった。 彼女は、いつの間にか、掲示板の前から移動し、男たちと、リーザの間に、割って入っていた。
男の一人が、にやにやしながら、魔法剣士を見る。
「なんだよ、アリア。お前ら『ガラスの翼』も、最近は男に飢えてるってか?」
「女だけのパーティーじゃ、稼ぎも大したことねえもんなぁ!」
下卑た笑い声が響く。 アリアと呼ばれた魔法剣士は、腰の剣に手をかけることなく、ただ、冷たい視線で男を射抜いた。その目に宿る、歴戦の強者の圧力に、男はたじろぐ。
「…さあ、さっさとあんたも窓口に行くよ!」
アリアは、もはや男たちに目もくれず、商家の娘――リーザ――の手を、ぐいと引いた。そして、呆気に取られている受付職員の前まで、彼女を連れて行った。
「ほら、怖かっただろうけど、ここで依頼を出すんだ。ここの職員は、態度は悪いけど、仕事はするからね」
ぶっきらぼうに、しかし、その声には確かな優しさが滲んでいた。 助けられたリーザは、怯えた様子でアリアを見上げ…そして、ふっと、その表情から一切の感情を消した。まるで、能面をつけたかのように。 そして、受付職員にではなく、まっすぐにアリアの目を見て、こう言ったのです。
「…依頼は、あなたたちに出します」
「は? あたしらに?」
「ええ。ただし、ギルドを通す正式な依頼ではありません。あなた方と、私の、直接契約です」
リーザは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、依頼書ではなく、投資契約書の雛形だった。
「もし、あなた方の『価値』を、正当な価格で買い取る投資家がいるとしたら…お話だけでも、聞いていただけますか? パーティー『ガラスの翼』リーダー、アリア殿」
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