幕間:氷の騎士は、月夜に惑う
月が、高い。 男爵領の夜は、王都のそれとは違い、深閑とした静寂に支配されている。 急ごしらえの執務室の窓から差し込む月光は、青白く、どこか冷たい。まるで、この領地がこれから立ち向かおうとしている、過酷な運命を予感させるかのように。
レオンハルトは、音を立てないようにペンを走らせていた。 机の上に積み上げられた書類は、共和国難民の受け入れリストと、それに伴う食糧配給の計算書だ。 数字は、嘘をつかない。 だが、その数字が突きつけてくる現実は、時としてあまりにも残酷だ。 現状の備蓄量と消費量の推移。このままでは、あと二ヶ月とかたずに、この領地の財政は破綻する。 それを回避するための、唯一にして最大の賭け。それが、『沈黙の森』への遠征だ。
(……無茶だ)
レオンハルトは、ペンを置き、眉間を揉んだ。 数時間前の会議での光景が、脳裏に蘇る。
『私は行きます。それ以外の選択肢(オプション)は、計算上、存在しませんから』
地図を前に断言した、主君の声。 その瞳に宿っていたのは、恐怖でも、無謀な勇気でもない。ただ、冷徹なまでの「合理性」の光だった。 A級冒険者すら生きて帰らぬ魔境へ、自ら足を運ぶ。 常識で考えれば、狂気の沙汰だ。止めなければならない。家臣として、いや、一人の男として、十六歳の少女をそんな死地へ送り出すなど、あってはならないことだ。
だが、レオンハルトは、反論できなかった。 彼女が並べた「リスクとリターン」の天秤が、あまりにも正確で、あまりにも完璧だったからだ。 彼女は、自分の命さえも、事業のための「投資チップ」として、盤上に置いている。 その覚悟の重さに、彼は言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。
(私は、無力だ……)
悔しさが、胸の奥で燻る。 彼女が「海鮮男爵」と呼ばれるようになり、この荒野に新たな国を作ろうとする過程で、自分はどれだけ彼女の力になれただろうか。 彼女の描く壮大な設計図を、後追いでトレースし、実務という名の泥かきをしているだけではないのか。 彼女が本当に必要としているのは、もっと強大な力を持つ庇護者か、あるいは彼女と同じ視座で世界を見ることができる、天才だけなのではないか。
ふと、部屋の隅にある長椅子に視線をやった。 そこに、小さな影があった。 エリザベートだ。 明日の王都出発に備え、最終的な事業計画の見直しをしていたはずが、いつの間にか力尽き、眠ってしまったらしい。
レオンハルトは、椅子から立ち上がり、足音を忍ばせて彼女に近づいた。 月明かりに照らされた寝顔は、昼間の「鉄の女」のような威厳など欠片もなく、ただのあどけない少女のものだった。 長い睫毛が、白い頬に影を落としている。 微かに開いた唇から、すう、すう、と安らかな寝息が漏れている。
(こんなに、小さかったか……)
改めて見る彼女の身体は、驚くほど華奢だった。 この細い肩に、数千人の難民の命と、領地の未来と、そして――彼女自身が語ろうとしない、過去の「罪」という名の十字架を、背負っているのか。
彼女は、強い。誰よりも賢く、気高い。 だが、その強さは、いまにも折れそうな氷の刃のような危うさを孕んでいる。 誰も頼らず、誰も信じず、ただ自分ひとりの頭脳だけを武器に、世界という巨大な怪物に挑み続けている。
もし、その糸が切れてしまったら? もし、彼女が傷つき、倒れてしまったら?
想像するだけで、心臓が凍りつくような恐怖を覚えた。 それは、主君を失うことへの恐怖ではない。 エリザベートという、一人の人間が失われてしまうことへの、根源的な喪失感だ。
「……う、ん……」
エリザベートが、寒そうに身じろぎをした。 レオンハルトは我に返り、自分の上着を脱ぐと、そっと彼女の体にかけた。 ふわりと、彼女の金の髪から、甘いような、それでいて凛とした香りが漂ってくる。インクと、紅茶と、そして彼女自身の香り。
心臓が、痛いほど大きく脈打った。 触れたい、と思った。 このまま、その細い肩を抱きしめて、「もう十分だ」と言ってやりたい。 すべての重荷を代わりに背負い、彼女にはただ、年相応の少女として、陽だまりの中で笑っていてほしい。
だが、それは許されない願いだ。 彼女が求めているのは、「守ってくれる騎士」ではない。「共に戦うパートナー」であり、「有能な部下」なのだから。 彼女の計算式の中に、「愛」や「安らぎ」といった変数は、組み込まれていない。
「……貴女は、残酷な人だ」
誰にも聞こえない声で、レオンハルトは呟いた。 それは、誰に向けた言葉だったのか。 完璧な主君にか。それとも、そんな彼女に心を奪われ、ただ見守ることしかできない、己の不甲斐なさにか。
彼は、彼女の頬にかかっていた一房の髪を、指先でそっと払った。 熱い指先が、冷たい頬に、ほんの一瞬だけ触れる。 それだけで、胸が焼き切れるかと思った。
「教えてください、エリザベート様」
彼は、眠り続ける少女に問いかける。
「あなたのその完璧な計算式に、私のこの感情は、一体どう計上されるのですか」
答えは、ない。 あるのは、静かな寝息と、冷たい月光だけだ。
レオンハルトは、苦しげに息を吐くと、踵を返した。 自分の席に戻り、再びペンを執る。 今の自分にできることは、彼女が明日、万全の状態で戦場へ向かえるよう、この書類の山を片付けることだけだ。
氷の騎士は、感情を封じ込める。 その熱が、主君の氷の刃を溶かしてしまわないように。 ただ静かに、その背中を守る盾となるために。
夜は、まだ長い。 ペンの音だけが、執務室に響き続けた。
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