第四章:サプライチェーンという名の生命線

 時間は、かかった。 最初の三日間は、まさに、水と油だった。ヴァレリウスは、伝統の技法にない手順を「邪道」と罵り、共和国の老魔術師――名を、バルタザールという――は、ヴァレリウスの頑固さを「蒙昧」と切り捨てた。工房の空気は、まるで、いつ火花が散ってもおかしくない、火薬庫そのものだった。

 だが、四日目の昼下がり。 エリザベートが工房を訪れた時、その空気は、明らかに、変質していた。 作業台を挟み、ヴァレリウスとバルタザールが、額を突き合わせるようにして、一つの小さな銀のブローチを、食い入るように見つめている。その周囲を、両陣営の職人と技術者たちが、固唾をのんで、遠巻きに囲んでいた。

「…馬鹿な。銀という金属は、本来、これほどの魔力親和性を持たんはずだ。お主、どのような金属の配合を…?」

「ふん。企業秘密、というやつだ。それより、長老殿。この、植物の葉脈を模した、一ミクロンにも満たない溝。ここに、魔力を均一に流すための、あんたの『術式』とやらは、どうなっている?」

「…それこそ、我が一族に伝わる、秘中の秘だ」

 言葉は、相変わらず、棘々しい。 だが、その目に宿っているのは、もはや、敵意ではなかった。 互いの、計り知れない技術の深淵を覗き込み、そして、それを理解しようとする、職人だけが持つ、畏怖と、探究心の色だった。

 そして、七日目の朝。 エリザベートの元に、一つの、小さな桐箱が届けられた。 開けると、中には、見事な銀細工のブローチが、静かに鎮座していた。意匠は、一本の、大樹。ヴァレリウスのギルドが誇る、写実的で、生命力に溢れた彫金技術が、その幹や枝の一本一本にまで、見て取れる。そして、その枝の先に茂る無数の葉は、銀ではなく、バルタザールの付与魔術によって生み出された、小さな、幾何学的な結晶で出来ていた。

 エリザベートが、そっと、そのブローチに触れる。 すると、ひんやりとした金属の感触と共に、結晶の葉の一枚一枚が、まるで呼吸するように、淡い、柔らかな光を放ち始めた。内側から、じんわりとした、心地よい熱が、指先に伝わってくる。

(――できたのね)

 それは、この世界に、これまで存在しなかった、全く新しい「価値」が、産声を上げた瞬間だった。

 試作品の成功は、全てを、劇的に変えた。 だが、それは、新たな、そして、より巨大な「壁」の出現を意味していた。 この奇跡のブローチは、二人の天才が、七日七晩、付きっきりで、ようやく一つ、作り上げることができたものだ。これを「商品」として量産し、事業として成立させるには、全く別の次元の課題があった。

 その夜、エリザベートは、自らの執務室で、レオンハルトと、セバスチャンと、向き合っていた。 机の上には、共和国との国境付近の、詳細な地図が広げられている。

「バルタザール殿の報告では、この付与魔術を、安定して、かつ、大規模に行うための『魔導具』の作成が、不可欠とのことね」

「はい。そして、その魔導具の炉心となる部分の作成に、どうしても、触媒として『月長石』が必要である、と。我々が確保できているのは、バルタザール殿たちが持ち出した、ごく僅かな備蓄のみ。これでは、試作品を数個、作るのが限界です」

 レオンハルトの報告に、エリザベートは、静かに頷いた。

 これは、製品の「原料」ではない。 工場そのものである、「生産ライン」を構築するための、たった一度だけ、しかし、絶対に欠かすことのできない、設備投資だ。 この初期投資に失敗すれば、この事業は、永遠に、工房レベルの、趣味の領域を出ることはない。

(――サプライチェーンにおける、致命的な『単一障害点(シングルポイント・オブ・フェイラー)』…)

 エリザベートの脳裏に、前世で、MBAのケースメソッドで、嫌というほど学んだ、数々の企業の倒産事例が蘇る。画期的な製品を開発しながらも、たった一つの、代替の効かない部品の供給を、特定の取引先に依存したがために、その取引先の倒産や、政情不安によって、共倒れになっていった、愚かな企業たちの墓標。

「共和国側の、月長石の鉱山は、全く、当てにできない。違うかしら、レオンハルト?」

「はっ。複数の貴族が利権を争い、内戦寸前の状態です。交渉の糸口すら、見つかりません」

「では、選択肢は、一つしかない、ということですわね」

 エリザベートは、地図の、別の場所を、指し示した。 それは、いかなる国の領土にも属さない、広大な、深い緑色で塗りつぶされた領域。 『沈黙の森』。 人々が、畏怖を込めて、『魔の森』と呼ぶ、禁忌の樹海だった。

 セバスチャンが、眉をひそめた。

「…お嬢様。バルタザール殿の古い文献によれば、その森の奥深くに、確かに、月長石の鉱脈が存在する、とは書かれております。ですが、その森は、高レベルの魔物たちの巣窟。生きて帰った者は、ほとんどいないと…」

「ええ、知っていますわ。だからこそ、手付かずの資源が、そこには、確実に、眠っている」

 エリザベートの瞳には、恐怖の色はなかった。 あるのは、二つの、あまりにも劣悪な選択肢を、冷静に比較検討する、経営者の、冷たい光だけだった。

 選択肢A:共和国の鉱山に、交渉の望みを託す。

 • リスク:交渉が、いつ成立するか、全く不明。成立したとしても、内戦が再発すれば、供給は再び停止する。常に、供給元の都合で、事業の生命線を握られ続ける。

 • リターン:交渉がうまくいけば、物理的な危険を冒さずに、触媒が手に入る(可能性は低い)。

 選択肢B:魔の森に、活路を見出す。

 • リスク:極めて高い、物理的な危険。踏破には、その道のプロフェッショナルを、高額で雇用する必要がある。失敗すれば、投資は、全て、水の泡となる。

 • リターン:成功すれば、触媒の、安定的かつ、独占的な供給ルートを、自らの手で、確保できる。これは、将来、いかなる競合他社も、決して真似のできない、永続的な競争優位性(サステイナブル・コンペティティブ・アドバンテージ)となる。

 博打ではない。 これは、短期的な安全(に見えるだけの幻想)を取るか、それとも、計算されたリスクを取り、長期的な、圧倒的優位性を確保しにいくか、という、極めて、合理的な投資判断だった。

「レオンハルト」

「はっ」

「王都の、冒険者ギルド本部に、連絡を取りなさい」

「…! 冒険者ギルド、に、でございますか?」

 レオンハルトの目に、驚きと、困惑の色が浮かんだ。貴族が、あの、荒くれ者たちの集団と、直接、関わるなど、前代未聞だった。

「ええ」

 だが、エリザベートの瞳は、揺らいでいなかった。 その瞳は、地図の上の、禁忌の森の、さらに奥を、見据えていた。

「この事業の、最初の、そして、最大の『設備投資』を、始めますわ。最高の専門家(スペシャリスト)を、見つけ出すのです」

 彼女は、静かに立ち上がると、窓の外の、闇に沈む、荒涼とした自らの領地を見つめた。

「どうやら、少し、遠出をする必要が、ありそうですわね」

 その横顔は、もはや、ただの領主ではなかった。 誰も見たことのない、宝の地図を求めて、未知なる荒波へと、船出しようとする、冒D険者の顔をしていた。 物語の舞台は、今、静かで、しかし、確実に、混沌と、危険に満ちた、新たな世界へと、その舵を切ろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る