第一章:最初の投資家と、最初の棘
リヒトハーフェン辺境伯家の邸宅は、壮麗の一言に尽きた。磨き上げられた大理石の床は鏡のように人影を映し、壁には王国の歴史を描いた巨大なタペストリーが飾られている。
だが、前世の記憶を取り戻したエリザベートの目には、その光景が、まるで虚飾の塊のように映っていた。
(――見栄と伝統だけで、中身の伴わない、典型的な『没落貴族』の兆候だわ)
一歩足を踏み出すごとに、チャリン、チャリンと金貨が床に落ちていく幻聴が聞こえる。
「おお、エリザベート! 私の可愛い娘!」
ホールに響き渡った朗々とした声に、エリザベートは顔を上げた。
父、ダリウス・フォン・リヒトハーフェン。彼は、今にも泣き出しそうな顔で娘の肩を掴んだ。
「辛かっただろう、悲しかっただろう。だが、もう良いのだ。王都の連中が何と言おうと、お前は私の、このリヒトハーフェン領の宝なのだから…!」
父の言葉は、以前の彼女ならば、どれほど慰めになっただろう。しかし、今の彼女の心には、感謝よりも先に冷静な分析が浮かんでいた。
(――最重要ステークホルダー。交渉相手としては、情に厚く、判断が甘い。ただし、一度信頼を得れば、強力な支援者になりうる)
「…お父様」
「なんだ、エリザベート。何でも言ってみなさい。欲しいものがあるなら、何でも買ってやろう。悲しい気持ちが紛れるなら、今から王都の宝石商とて呼びつけて――」
「三日間、お暇をくださいませ」
エリザベートは、父の言葉を、静かに遮った。
「旅の疲れを癒すため、誰にも邪魔されず、図書室に籠らせていただきたいのです」
凛、と。鈴が鳴るような、しかし有無を言わせぬ響きを込めた声。
ダリウスは、驚きに目を丸くした。いつもであれば、泣きじゃくりながら彼の胸に顔をうずめるはずの娘が、まっすぐに自分を見据えている。その瞳の奥に宿る光は、彼が今まで一度も見たことのない、怜悧な知性の色だった。
リヒトハーフェン家の図書室は、その名ばかりで、実態は書斎と会計記録の倉庫を兼ねた、雑然とした空間だった。埃と、古い羊皮紙の乾いた匂いが、部屋の空気を支配している。
エリザベートは、その数字の墓場に、たった一人で足を踏み入れた。
それからの三日三晩は、まさに格闘だった。
彼女は、メイドたちが心配して運んでくる食事もそこそこに、その記録の山に没頭した。一枚一枚、指先をインクで汚しながら、羊皮紙の束をめくっていく。収入、支出、税率、関税、過去の取引記録…。バラバラの情報を繋ぎ合わせ、分類し、長谷川梓の脳内にある現代の会計知識をもって、この領地の財政を、白日の下に晒していく。
夜が更け、魔導ランプの光だけが友となる時間。冷めきった紅茶の、舌に残る苦味だけが、彼女を現実世界に繋ぎとめていた。
籠城二日目の午後、その静寂は破られた。
「お嬢様、このような遊びはもうおやめください。帳簿は、あなた様が玩具にして良いものでは…」
若き文官、レオンハルトだった。彼は、エリザベートの奇行を、放校処分のショックによる現実逃避だと断じ、その鋭い瞳には侮蔑の色が浮かんでいた。
エリザベートは、顔を上げなかった。ただ、ペンを走らせるのを止め、静かな声で問うた。
「レオンハルト。あなたは、三ヶ月前、西部の木材取引における収支報告を監査しましたね?」
「…いかにも。それが何か?」
「報告書では、『原因不明の使途不明金が三千キラ発生』とあるわ。けれど、これは原因不明じゃない」
エリザベートは、広げていた帳簿の一点を、ペンの先で指し示す。
「ここ。王都へ納める際の関税を、二重に計上している。そして、こちらでは、輸送費を管理費の項目に誤って計上している。お金は消えてなどいないわ。ただ、あなたの杜撰な経理が、穴を開けただけ。素人のような間違いね。…私の仕事の邪魔を終えたのなら、帰り際に、扉を閉めていってくださる?」
「なっ…!」
レオンハルトは、言葉を失った。顔が、カッと熱くなる。彼がひと月かかっても解明できなかった金の流れを、この娘は、たった二日で、完璧に見抜いてみせたのだ。彼は、屈辱に唇を噛みしめ、一礼もせず、足早に図書室を去るしかなかった。
三日目の深夜。疲労がピークに達したエリザベートの指が、ふと、一枚の古い陳情書に触れた。それは、数年前に領地内の小さな村から出されたものだった。
その、か細く、震えるような文字を追ううちに、エリザベートの血の気が引いていく。
『…息子、アルフレッドは、村の希望でありました。しかし、リヒトハーフェンお嬢様の、根も葉もない告発により、その未来は閉ざされ…』
アルフレッド。
その名前に、エリザベートの脳裏で、忌まわしい記憶が蘇る。
王立学園の中庭。自分よりも成績が良く、教師に褒められていた、気に食わない平民の顔。その彼の鞄に、自分が盗んだ学友のブローチを、笑いながら滑り込ませた、あの日の光景。彼の、信じられないものを見るような、絶望に染まった瞳。
長谷川梓の倫理観が、エリザベートの過去の罪を、容赦なく断罪する。
(――ああ、私だ。私が、一人の人間の将来を、ただの嫉妬心で、めちゃくちゃにしたんだ)
陳情書は、彼女の指先で、くしゃりと音を立てた。その罪悪感は、小さな、しかし、決して抜けることのない棘となって、彼女の魂の奥深くに突き刺さった。
(――償わなければ)
その思いが、彼女を、再び、目の前の仕事へと引き戻した。
翌朝。エリザベートは、父の書斎の扉を叩いた。
「それで、話とはなんだね?」
ダリウスは、娘を安心させるように、努めて優しい声で言った。
「お父様。単刀直入に申し上げます。我がリヒトハーフェン家の財政は、五年以内に破綻します」
「な、何を馬鹿なことを!」
「馬鹿なことではございません。事実です」
エリザベートは、三日間かけて作り上げた、簡潔な財務諸表を父の前に広げた。収入と支出の推移。資産と負債の対比。そして、年々減少していく、手元の現金(キャッシュフロー)。
「…これが、我が家の、偽らざる健康診断の結果です」
ダリウスの顔から、血の気が引いていく。彼が目を背け続けてきた現実が、冷徹な数字となって、そこに並んでいた。
「しかし」と、エリザベートは続けた。「まだ手はあります。我が領には、まだ誰も気づいていない、巨大な資産が眠っております」
彼女が語るのは、海の幸という名の、未開拓市場の可能性。
だが、そのロジックとは裏腹に、彼女の内面では、梓の亡霊が囁いていた。
(――どうせ無駄だ。この男も、前の上司と同じ。お前の言葉の価値など、理解しない)
「魚だと?そんなもの、下賤な食べ物だ。貴族の食卓には…」
父の懐疑的な言葉が、亡霊の囁きと重なる。
一瞬、エリザベートの心が折れかけた。
(――いいえ、違う。私はもう、あの頃の、無力なだけの長谷川梓じゃない!)
彼女は、合図をして、セバスチャンに「それ」を運ばせた。
皿の上にあったのは、こんがりと焼き色のついた、ただの魚の切り身だった。
一口食べた父の目が、驚愕に見開かれる。その表情の変化だけが、今の彼女の支えだった。
そして、エリザベートは、父に、自らの覚悟を、全て語った。
領地への想い。民への想い。そして、自分自身が、生まれ変わりたいのだという、魂の叫びを。
その言葉に、私心のかけらもなかった。
ダリウスの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、娘の成長を目の当たりにした、父親としての歓喜の涙。そして、領主として、同じ志を持つ同志に出会えた、感動の涙だった。
彼は涙を乱暴に拭うと、厳かに、しかし力強く頷いた。
「…分かった。好きにやってみなさい。お前が市場調査に必要だという、金貨百枚。出してやろう」
彼は、威厳に満ちた、しかし、最高の笑顔で言った。
「これは、甘やかしてきた父からの小遣いではない。領主として、お前の才覚と覚悟に対する、この私からの最初の投資だ」
エリザベート・フォン・リヒトハーフェンは、こうして最も身近で、最も困難な「投資家」から、未来への扉を開くための鍵を、確かに受け取った。
王都への、秘密の市場調査。
それは、彼女の壮大な領地改革であると同時に、長谷川梓とエリザベート、二つの人生の負債を返済するための、長く、険しい贖罪の旅の始まりでもあった。
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