第二章:お忍び市場調査

 父の承認を得てから五日後。リヒトハーフェン邸の裏口に、一台の質素な馬車が停められていた。

「…本当に、よろしいのですか、お嬢様。このような、はしたない格好で…」

 老執事のセバスチャンが、悲しみを堪えるように眉を下げて言った。

「いいのよ、セバスチャン。今の私はリーザだから。それに、この方がずっと動きやすいわ」

 エリザベートは、フード付きのケープを翻し、悪戯っぽく笑う。その姿に、セバスチャンは、寂しさと安堵が入り混じった、複雑なため息をついた。


「…レオンハルト。くれぐれも、お嬢様を頼んだぞ」

 セバスチャンの低い声に、傍らで腕を組んでいた青年が、不機嫌そうに頷いた。

 若き文官、レオンハルト。彼にとって、この旅は、まだ「令嬢の気まぐれ」の後始末でしかなかった。

「承知しております。辺境伯様のご命令ですから。…おい、リーザ殿。そろそろ出発しないと、最初の宿場町に着く前に日が暮れる」

 わざとらしく、そして皮肉っぽく新しい名を呼ぶレオンハルトに、エリザベートは肩をすくめるだけで応じた。


 馬車が、見慣れた領都を抜け、王都へと続く脇道へと入っていく。

 車内に、気まずい沈黙が流れていた。しかし、その沈黙を破ったのは、意外にも、窓の外を、まるで初めて見るかのように、食い入るように見つめていた、エリザベートだった。


「見て、レオンハルト。あの村の畑、土の色が少し黒っぽいわね。土壌改良でもしているのかしら」

「…さあ。俺は農政の専門ではないので」

 レオンハルトは、興味なさそうに答える。

「でも、見て。あそこの水車小屋、古すぎるわ。あれでは、動力が弱くて、挽ける穀物の量も限られる。村全体の生産性を、あの水車がボトルネックになっているのよ。領から低利で融資をして、最新式の水車に交換すれば、村の収穫高は、少なくとも二割は増える。そうなれば、税収も増え、投資は三年で回収できるわ。ROI(投資利益率)は、極めて高い優良案件ね」

「…あーるおーあい…?」

「費用対効果のことよ。メモしておいて。帰ったら、すぐに事業計画を立てるから」

 エリザベートは、矢継ぎ早に言うと、再び、窓の外へと視線を戻した。レオンハルトは、訳が分からないまま、しかし、そのあまりの真剣さに、思わず、羊皮紙に「水車」と書き留めていた。


 昼過ぎ、街道沿いの、賑わっている宿屋の前を通りかかる。

「面白いわね、あの店」

「…今度は、何ですかな」

 レオンハルトの声には、早くも、うんざりした色が滲んでいた。

「あれだけの馬車が停まっているということは、顧客の多くは、私達のような旅人のはずよ。彼らが求めるのは、味よりも、早さ。そして、携帯性。なのに、あの店の看板には『名物・猪の丸焼き』としか書いていない。顧客セグメントと、提供価値(バリュープロポジション)が、完全にミスマッチだわ」

「…はあ」

「もし、私が経営者なら、すぐに、パイ包みや、腸詰(ソーセージ)のような、携帯食(テイクアウトメニュー)を開発する。客単価は下がるけど、客の回転率が上がり、結果的に、売上は倍になるはずよ。それに、保存食を作ることで、食材の廃棄ロスも減らせる。一石三鳥だわ。…ねえ、聞いているの、レオンハルト?」

「…聞いております。ええ、聞いておりますとも。ええと…きゃくの、かいてんりつ…」

 レオンハルトは、こめかみを押さえながら、ブツブツと、聞き慣れない言葉を反芻していた。


 その日の夕暮れ。馬車が、ひどく揺れた。

「この道、酷いわね。これでは、荷物が傷んでしまう。輸送コストも、余計にかかるわ。領地全体の経済にとって、大きな損失よ」

 エリザベートが、いつもの調子で分析を始めた、その時。

「インフラの未整備による、物流のボトルネック。地域経済の競争力を削ぐ、構造的な問題ですな」

「え…?」

 エリザベートが、驚いて隣を見ると、レオンハルトが、腕を組んで、したり顔で頷いていた。

「ですから、これの解決には、大規模な公共事業による、インフラ投資が不可欠かと。もちろん、その際の費用対効果の算出も、慎重に行うべきですが」

 彼は、ここ数日、エリザベートが語っていた言葉を、完璧に、自分のものにしていたのだ。

 その、あまりにも生真面目な、優秀な生徒ぶりに、エリザベートは、思わず、声を上げて笑ってしまった。

「ふふっ…あははは!」

「な、なんです!?」

「いいえ、ごめんなさい。…その通りよ、レオンハルト。あなたは、優秀ね」

 突然の、心の底からの、少女のような笑顔。そして、初めて、名前で呼ばれたこと。

 レオンハルトは、顔を、カッと赤くすると、ぷいと、窓の外に視線を逸らしてしまった。

 その耳まで、真っ赤に染まっているのを、エリザベートは、楽しそうに、盗み見ていた。


 その、和やかな空気が、一瞬で引き裂かれたのは、王都まであと二日という、険しい峠道に差し掛かった時だった。

 道の両脇の森から、錆びた剣や斧を手にした十数人の男たちが姿を現したのだ。

「山賊…!」

 レオンハルトが、エリザベートを庇うように、前に立つ。だが、多勢に無勢。

 山賊の一人が、下卑た笑いを浮かべて、エリザベートたちの馬車の扉に手をかけた。

(――逃げなければ。どこかへ。安全な、場所へ。あの峠の、向こう側へ…!)


 強く、強く、念じた。その瞬間。

 エリザベートの身体を、ふわりとした奇妙な浮遊感が包んだ。

 視界が、一瞬だけ、真っ白な光に塗りつ潰される。


「――え?」


 次に目を開けた時、彼女は馬車の中にいなかった。

 鼻をつくのは、土と草の匂い。頬を撫するのは、ひやりとした峠の風。

 彼女は、峠道の、ちょうどカーブを曲がり切った先に、一人で立っていた。

 幸い、山賊たちは、後続の馬車の傭兵たちによって、すぐに制圧された。

 何食わぬ顔で、一行に合流したエリザベート。しかし、レオンハルトだけは、見ていた。一瞬で、ありえない場所へと、主君が移動した、その瞬間を。

 彼は、まるで幽霊でも見るかのような、畏怖に満ちた目で、ただ、エリザベートを見つめていた。その口は、何かを問おうと、小さく開閉を繰り返していたが、ついに、声になることはなかった。


 数日後。一行は、ついに王都の城門をくぐった。

 活気、熱気、そして、富と貧困が放つ、むせ返るような匂い。

 馬車の中は、旅の始まりとは、全く違う、重い沈黙に支配されていた。

 レオンハルトの、疑念と畏怖の視線。そして、エリザベートの、手に入れてしまった、未知の力への、戸惑いと、決意。


(問題が一つ解決すれば、新たな問題が二つ生まれる。いつものことね)


 長谷川梓の記憶が、自嘲気味に呟く。

 エリザベートは、その亡霊を振り払うように、小さく息を吐いた。そして、前を見据える。


「さあ、仕事の時間よ、レオンハルト」


 その声は、もはや、ただの辺境伯令嬢のものではなかった。

 未知の市場に乗り込む、一人の挑戦者の声だった

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