第9話:100万円のダミーヘッドマイクと、耳元で囁く独占欲

「カイト君。今日は『音』で稼ぎます」


タワマンの防音室。 綾小路さんが恭しく取り出したのは、人間の頭の形をした不気味なマイクだった。


「うわっ、生首!?」


「失礼な。『ノイマン KU100』。通称ダミーヘッドマイク。お値段、約100万円です」


「マイク一本で中古車が買える!?」


彼女は機材をセッティングしながら、眼鏡を光らせて解説する。


「データによると、女性視聴者は『低音イケボの囁き』に弱いです。貴方の声は、普段は情けないですが、周波数だけは無駄に心地よい。これを武器にします」


「褒められてる気がしないけど、何すればいいの?」


「ASMRです。このマイクの耳元で、甘い言葉を囁き続けてください。視聴者の脳髄を溶かすのです」


「ハードル高いな! 俺、そんなキャラじゃないだろ!」


「大丈夫です。台本は私が用意しました」


渡された台本には、**『お疲れ様、頑張ったね』『よしよし、いい子だ』『今日は寝かせないよ』**など、読んでるこっちが爆発しそうなセリフが羅列されていた。



「……あー、テステス。聞こえてるかな? 今日はちょっと、趣向を変えて……」


配信開始。 画面は真っ暗にし、音だけの配信だ。 俺がおずおずとダミーヘッドの右耳に近づき、息を吹きかけるように囁く。


「……ねえ、こっち向いて?」


瞬間、コメント欄が加速した。 『!?』『イヤホン推奨きたあああ!』『耳が幸せ』『カイトの声、こんなに良かったっけ?』


同接数は見る見るうちに伸びていく。 やはり高価な機材の力は凄まじい。俺の吐息の一つ一つが、鮮明に拾われているらしい。


調子に乗った俺は、台本通りに左耳へ移動する。


「……毎日お疲れ様。君が頑張ってるの、俺知ってるよ」


『キャーーー!!』 『浄化される……』 『明日も仕事頑張れる……』


反響は上々だ。 俺はプロデューサーである綾小路さんの方を見た。「どうだ!」と親指を立てる。


しかし。 綾小路さんは、モニターの前で鬼のような形相をして震えていた。


(えっ、なんで怒ってるの?)


彼女はスケッチブックに殴り書きをして掲げた。


『カンペ:感情込めすぎ。もっと事務的にやれ』


(さっきと言ってること違うじゃん!)


俺が困惑していると、コメント欄に一つの要望が流れた。


『カイトくん、大好きって言って!』 『耳元で愛の告白してほしい!』


ASMR配信ではよくある流れだ。 俺はサービス精神で、マイクに極限まで唇を近づけた。


「……しょうがないなぁ。……大好きだよ、愛し――」


ガシッ!!


突然、俺の口が掌で塞がれた。 綾小路さんだ。 彼女は配信中にも関わらず乱入し、ダミーヘッドマイクと俺の間に割り込んできたのだ。


「むぐっ!?」


マイクが倒れそうになる。 綾小路さんはマイクの「左耳」部分を自分の手でガードし、俺を睨みつける。 そして、マイク(=視聴者の耳)に向かって、地を這うような小声で囁いた。


『……調子に乗らないでください、泥棒猫たち』


『えっ?』 『誰? 女の声?』 『今の囁き、すっごいゾクッとしたんだけど』


綾小路さんの吐息が、バイノーラルマイクを通じて全視聴者に届く。 彼女は俺の襟首を掴み、マイクの反対側(右耳)に俺の顔を固定すると、自分は左耳側に陣取った。


『この男の声帯は私のものです。甘い言葉を吐いていいのは、私の鼓膜に対してだけです。……わかりましたか?』


「ちょ、綾小路さん! 放送事故だって!」


俺の慌てた声と、綾小路さんの冷徹で妖艶な囁き。 右と左から同時に聞こえる、奇妙な「痴話喧嘩ASMR」が完成してしまった。


『カイト君、貴方もです。不特定多数の女に愛を囁くなんて……浮気ですか? お仕置きが必要ですね?』


「ひっ……耳元で脅すのやめて! 臨場感がすごいから!」


『今夜は、このマイクを使って一晩中、私への愛の言葉だけを言わせます。3000回言うまで部屋から出しません』


『ヤンデレASMR助かる』 『新しい! このカップルチャンネル推せる!』 『ガチ喧嘩なのに音質が良すぎて脳がバグるwww』


混沌とする中、例の通知音が、左右のイヤホンから立体音響で響き渡った。


【 ¥50,000 】


死ね死ね団: 耳が妊娠するかと思った。責任取れ。あと、そのマイク買い取るから今すぐ私に送れ。貴方の吐息が付着した状態で真空パックして送れ。


「それただの変態だから!!」


「……ふふ。5万円ありがとうございます。このお金で、次は『拘束プレイ配信』の機材を買いますね♡」


「方向性がどんどん危ない方へ行ってる!!」


結局、この日の配信は「伝説の神回」として切り抜かれ、俺のASMRボイスは綾小路さんの個人ライブラリに厳重に保管されることになった。 俺の安眠は、高性能マイクと共に奪い去られたのだった。

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